医療バーゲンセールを支える残業2000時間

  • 2019.01.20 Sunday
  • 19:23
医師残業、年2000時間も=地域病院勤務の上限−厚労省案
2019年01月11日 JIJI.com
2024年度から医師に適用する残業時間の規制に関し、厚生労働省は11日、医師不足の地域などで勤務する医師の上限を、休日労働を含み年1900〜2000時間程度で検討する方針案を明らかにした。同日開いた医師の働き方改革を議論する有識者検討会に示した。検討会は年度内に方向性をまとめ、同省が制度化する。

勤務医ががなぜこれほどまでに忙しいのか。実際に働いている医師に聞けば彼らの知る範囲で答える。
 
  • 生身の人間が相手のため容体の変化は予測しきれないから。
  • 交代制ではなく一人の患者に一人の医者がつく仕組みのため、患者に何かあれば時間に関わらず対応せざるを得ないから。
  • 当直という業務があり、夜勤の後でそのまま翌日の勤務に入る仕組みだから。
  • 医療行為以外の雑務が多いから。
中山佑次郎 「医者はなぜ忙しい?残業年2000時間の衝撃 医師の視点」より

これらは、忙しさに寄与していない、とは言わないが、本質的な原因ではない。

予測が難しい業務も交代制ではない業務も夜勤も雑務も医者の専売特許ではない。忙しいのはサービス供給能力に対して需要量が過剰だからである。あるいは需要量に対してサービス供給能力が過小だからである。いずれにしても、サービス供給能力が相対的に低く、需要量が相対的に多いということである。

市場経済の原理が機能する場合、両者は自然と価格を軸に整合する。整合した結果、不足と過剰は無くなる。この整合点は常に流動的であり、需要量と供給量によって常に変動しながら整合状態を維持する。価格はそれらの状態を示すシグナルであり、あらゆる人々がそのシグナルを受けて行動を調整する。

なぜ医療という世界では需要が過多で、サービス供給が過小なのか。

それはこのシグナルが恣意的、人為的、作為的に固定化されているからである。

何がそれらを固定化しているのか。

それは国民皆保険制度と医師免許制度である。

国民皆保険制度というものは、いわば格安大バーゲンセールを年間ぶっ続けで全国津々浦々で実施することを制度化したようなものである。本来は1万円かかるところを7割引きで売る。老人向けは更に”お得”な割引で9割引きセール。子ども向けは各都道府県・地方自治体で「子ども医療費助成制度」と銘打って特別セール。インフルエンザの予防接種を受けるよりも、かかってから医者に行けば数百円ですむなどという事態になっている。

大バーゲンセールをある企業が自社の利益を原資に売上向上と顧客獲得を狙って実施するならいくらでもやればよい。

企業のバーゲンセールならば、結果どのくらいの成果を上げたかが重要である。問題は、この大バーゲンセールが国民の税金を原資に行われていることである。税金が原資であるから売上、利益、顧客獲得がどうなろうが関係ない。ひたすら継続するのみである。

一方、7割〜9割、それ以上の割引をすれば需要は爆発的に増える。病気にならないよう予防に努めるくらいならば病気になってから医者にかかったほうが楽である。人々の行動がこのバーゲンセールが永久に続くことを前提として調整される。

一方で医者になるにも病院を建てるにも政府の免許制度と認可制度に規制されている。政府は将来に向かって進む少子化を”視野に”医学部定員を削減しようとしている。

一方は大幅な嵩上げ、一方は大幅な制限。

医師の勤務条件が殺人的に悪化するのは当然の帰結である。

ならどうする?医者を増やそう!

医者を増やせば「医療費(=無謀なバーゲンセールの国民へのツケ)」の増大につながる。

ならどうする?医療報酬を下げよう!

医療報酬を下げればタダでさえ大変な業務なのに益々奴隷労働に近くなるだけである。バカバカしくて医者になる人間は減る一方である。

唯一の解決方法は国民皆保険制度と医師免許制度の撤廃、そして医療の自由化である。自由闊達な医療市場において、市場経済の原理で需要と供給は調整され、医師不足も過労も雲散霧消する。価格は適正化され、市場は健全化する。医療の質は上がる。

この方向に向かう道に立ちはだかる鉄壁のようなものがある。それはわが国民の「世界に誇る日本の医療への信仰」である。宗教には理屈もヘッタクレもない。信仰心あるのみである。

「日銀破綻」読了

  • 2019.01.13 Sunday
  • 16:22



辣腕金融トレーダーとしての経歴を持つ維新の会議員・藤巻健史氏は日銀の破綻とそれに伴うハイパーインフレの現実化が近いと警告する。

政府は足りない資金を日銀に新しい紙幣を刷らせて賄ってきた。その結果、日銀は経済規模に対して大量にお金をばら撒くに至った(対GDP比で世界最大規模)。

藤巻氏はこの行為を過去のハイパーインフレの経験から各国で禁じられている財政ファイナンスであり、飛ばし行為(危機を先延ばしする)であると断じ、以下のような経緯をたどるであろうと予測する。

 

日銀の財務諸表は極めて脆弱であり、インフレ加速に対して引き締めを行えば、金利が上昇して債務超過に陥り、信頼の失墜、円の暴落を経てハイパーインフレに突入する。

日銀が大量に保有する国債の利回りは僅か0.279%で経常収支(大部分が保有債券からの利子収入)は1兆3000億円。日銀当座預金残高384兆円。1%金利を上げたようとする場合、民間銀行に3.8兆円の金利支払いが必要となり、収入が1.3兆円の現在、2.5兆円の損失となる。CPI(消費者物価指数)が2%になれば、金利を2%以上に上げなければインフレが加速してしまう。384兆円の2%で7.6兆円。6.3兆円の損失となる。

日銀の準備金は僅か8.2兆円。金利が2%になれば1年ほどでこの準備金を使い果たし、債務超過になってしまう。債務超過になることが明らかになった時点で円売りが始まり円の価値は暴落する。

2%でインフレが止まる保証はない。更に上振れする可能性が高い。異次元緩和を止めれば政府が資金繰り倒産。金融引き締めを行えば日銀の倒産。インフレが進む中、異次元緩和を継続するしかない。インフレが10%、20%と上がる中で異次元緩和は継続される。ハイパーインフレへまっしぐら。

国が資本投下して支えればよいという声があるが、赤字財政で資金捻出する術がない。

毎年、新たな国債が30兆円以上発行される。現在は日銀が(紙幣を刷って)これを買い支えている。日銀が買うのを止めたとたん長期金利が跳ね上がる。国債価格が下がり、投げ売りが始まる。

一方、赤字予算の政府は金利が上昇すれば支払い金利が急増して大赤字になる。日銀による国債爆買いに支えられてき政府の資金繰りはたちまち行き詰る。政府が資金繰り倒産の危機に直面する。

ハイパーインフレはある日突然やってくる。20%〜30%程度は1980年の米国の例でも十分にあり得る。

日銀倒産、新中央銀行設立。政府は財政破綻を免れる。1088兆円の巨額債務もタクシー初乗りが1億円〜1兆円なら実質ないも同然。1億円の財産があっても吹き飛んでしまう。実質的な借金棒引き。払うのはハイパーインフレで地獄を見ることによって国民が払う。


極めて暗い将来であるが、氏はそれに対する防衛策を示す。

氏が提唱する防衛手段とはドル資産と仮想通貨の購入である。様々な通貨があるが、やはり避難通貨は米ドルであるという。また預金封鎖の際にはスマートフォンひとつで口座開設も送金もできる仮想通貨が避難通貨になるという。従来通りの円貨の銀行定期預金が最もリスクに晒されることは間違いない。時代は変化し続けている。お金も変化し続けている。我々は適応しなければならない。さもなければ財産を失うリスクを受け入れるのみである。

さて、重要な示唆を与えてくれる本書であるが、意見を異にする部分もある。

氏は、「デフレ脱却するには異次元緩和する必要はなく、円安とマイナス金利を導入すればよかった。円安もマイナス金利も伝統的金融政策によって実現可能。円安になれば日本の競争力が高まり、マイナス金利によって投資と消費が盛んになり景気が回復する」と説く。

氏は常々日本の問題は大きな政府による社会主義的、計画主義的政策が原因であると説いている。疑問に思った私は氏に疑問をぶつけてみた。



氏は通貨価値の上げ下げや金利の上げ下げは資本主義に反せず、別に計画経済ではないと思っているようである。

古くは産業革命時代の英国、自動車革命時代の米国から現代のスイスまで、経済発展しているのは通貨価値を下げた国ではなく通貨価値を安定化させた国である。通貨安が発展につながるならば、通貨価値が暴落したジンバブエは今頃先進国である。

また、政府が景気を良くしようと金利を下げると、本来なら事業者が二の足を踏むような不確かな投資に対する抑制が効かなくなり、結果として浪費の増加と貯蓄(投資資金)の減少をもたらす。まさに計画主義の弊害である。

計画主義者にとって金利を上げ下げする力以上に計画主義を実行する手段として強力なものは無いのである。

これらの部分は意見を異にするが、現在の日本が置かれた状況に対して真摯に向き合っている人物が、少なくとも政界には氏以外には見当たらないのである。

破綻への備え

  • 2019.01.12 Saturday
  • 22:08

インフレ率、170万%=IMF「今年は1千万%」―ベネズエラ 1/10(木) 時事通信
【サンパウロ時事】南米ベネズエラの国会は9日、2018年のインフレ率が170万%に達したと発表した。国際通貨基金(IMF)は今年のインフレ率を1000万%と予測している。ベネズエラは有数の産油国だが、原油相場低迷やマドゥロ政権の価格統制などの失敗により経済が破綻。近年200万人もの市民が国外に脱出した。マドゥロ大統領は8月にデノミ(通貨呼称単位の変更)を実施したが、混乱は収まらなかった。


今日のベネズエラは明日の日本である。

債務残高の対GDP比を見ると、我が国は主要先進国の中で最悪の水準となっている(財務省)。あのギリシャは178.6%(2017年)であったが、それをぶっちぎってのダントツ一位である。

 


日本では国民が生産した額の倍以上を政府が使っている。日本は税収が約60兆円。債務残高は1000兆円。例えれば、年収500万で預金無しの家庭において、借金額が8000万以上に膨らむようなものである。月給が入っては利子をつけて返し、返してはまた借りの繰り返しで借金は雪だるま式に膨らむ一方である。これで家計が回るわけがない。

家計と国家財政との間に質的な違いは何もない。量的な違いがあるのみである。国家財政は大きな家計である。家計において推奨される事は国家財政においても推奨される。家計において忌避される事は国家財政においても忌避される。

家計において最も忌避されるのは金の使いすぎである。「使いすぎと」は収入に対して支出の割合が高いことである。毎月の給料日前に所持金が底をつき、一時的な措置として翌月の支出を調整することで容易に返却できる程度の額の金を借りるならばまだよい。だが、返す当てもない額の金を延々と借り、前に借りた金を返すために新たな借金をするとすれば、それは破綻した家計である。

日本の国家財政は破綻した家計そのものである。

家計の破綻した人に対し、人はいつまでも同じように金を貸し続けるわけではない。なぜならば、借金で首が回らなくなればなるほど、回収不能になるリスクが高まるからである。じきに誰も金を貸さなくなり、借金だらけの人間は破産することになる。

日本ではバブル崩壊後、景気対策と称した政府の過剰支出体質が続いてきた。アベノミクスの「デフレ脱却」を目的とする円安誘導と低金利政策、更に異次元の量的緩和によって大量の金が刷られ、市場にばら撒かれた。政府が国債を発行し、金融機関がそれを買い、日銀がそれを即座に買い取る。これを無制限に行うことで実質的に金を刷って市場に撒いているわけである。

自民党の幹部はこのようなことを言っている。



日銀は通貨発行権を持っているから必要な資金は紙幣を発行することで調達できる、と言っている。このような素人が政治の実権を握っているのである。いくらでも通貨を発行できるのであれば我々一般人から税金を徴収する必要がない。その分も通貨発行で賄えばよい。無制限に通貨を発行すれば世界一の金持ち国家になれるであろう。ついでにいえば、我々が働く給料分も通貨発行すれば、我々は一切働かなくてもよいということになる。国民全員が働かずに年収5000万でも8000万でも得ることも可能であろう。これほどバカげた発言はない。

金を市場に撒けば金の価値は下がる。1個のリンゴと100円が存在する島を想像してみる。その島において、リンゴの価格は100円である。その島の通貨供給量を100円から200円に増やしたらどうなるか。1個のリンゴを倍の通貨が追うことになるわけだから200円になる。1個のリンゴを買うのに以前は100円あればよかったものが、200円出さなければ買えなくなるわけである。

通貨価値が下がる。それがインフレである。

なぜ日本ではまだインフレが起きていないのか。

起きていないのではない。その時々の状況で金は様々なところへ向かう。異次元緩和で注入された金は消費財ではなく投資財へ向かった。そのために株価が上昇したのである。安倍信者は株価上昇を称賛したが、上昇して当然なのである。

そして消費財も徐々に価格上昇しつつある。少し前まで「隠れ値上げ」というものが取りざたされた。1000mlの牛乳を「価格据え置きで軽くて持ちやすく、残さず最後までおいしく飲んでいただけるようにしました!」という売り文句で950mlにしたりというのがそれである。最近はもうそのような「姑息な」手段がネタ切れになったのか、「正直な」値上げが相次いでいる。本格的な値上げは消費増税後である。

しかし諸外国から「それほど問題視されていない」のはなぜか。

それは日本の国債を保有しているのがほぼ日本人だけだからである。国債の価値が暴落しようがどうなろうが、日本人が勝手に買っているものを心配するほど誰もヒマではない。しかし我が国の愚かな者達はその事実を逆さまに見てこう言う。

「ギリシャと違って国債は全て日本国民が保有している。だから破綻するわけがないのだ。いわば、オヤジが息子から金を借りているようなもので、どうにもならない状況になっても無理に取り立てはしない。だから大丈夫なのだ」と。

これは別の言い方をすると、政府は我々国民の財産を没収するつもりだということである。その気になれば国民の財産を使って借金を返せば一発でやり直せる、ということである。

ではどうやって徴収するのか。正直に「税金を取ります」では国民は納得しない。しかし隠れた徴収方法がある。それがハイパーインフレである。

パンを買うのに100円だったものが1万円になり、10万円になる。タクシーに乗るのが1000円だったものが100万円になる。そうなれば1000兆円の政府借金などわけもなく清算できるということである。

ハイパーインフレにおいて、庶民の生活はどうなるのか。それを予測するには現在のベネズエラがどうなっているかを見ればよい。




断続的に電気供給が止まる市場では腐臭漂う肉が売られ、病院では壊れたベッドや医療機器が放置され、葬儀所では死人が6か月以上も放置され、ゴミは収集されずに放置され、人々は僅かな食糧を求めてゴミを漁り・・・。このため人々は平均8.6キロも体重が減ったという。

「日本でこのようなことが起こるわけがない」とはよく言われることである。

しかしベネズエラは石油資源に恵まれ、かつては南米で最も豊かな国であった。ハイパーインフレがナチス台頭の引き金を引いたかつてのドイツも豊かな国であった。豊かな国が転落するのは珍しい事ではない。今だけを見ていても仕方がないのである。

我々庶民ができるのは生活防衛である。その手段は外貨保有である。円の価値がどうなろうが、ドルはドルである。国は個人の財産に手を突っ込もうとしている。個人は防衛しなければならない。

ハイパーインフレはやってくる。これはIF(くるかどうか)ではなく、WHEN(いつくるか)の問題である。米国の株価の影響を受けて年末から円高に振れているが、これは一時的な調整である。米国ではトランプ政権にはいって景気が回復しており、それを受けて金利が上昇しつつある。金利が上がれば(日本同様に)いままで投資財に向かっていた金が貯蓄に向かう。すると当然ながら株が下がる。米国ではこの株価下落は一時的な現象と受け止められ、ドル売りも止まるはずである。そうなれば円買いによる円高も終わる。その時が正念場である。

現在の円高傾向は線香花火のようにパッと最後に散って終わる可能性が高い。それからが急激な円安とそれに引きずられるインフレの加速が始まる時である。


参考:藤巻健史 「日銀破綻」 ・・・
金融トレーダーとしての経験を持つ維新の会・藤巻議員は日銀の破綻は近いと警告する。この本については改めて読了記を記したい。内容的には賛否あるが、現在日本が置かれた危うい状況についての解説は刮目に値する。



 

COP24・・・地球温暖化教徒の断末魔

  • 2019.01.02 Wednesday
  • 16:34

 

2度目標の達成と1.5度目標の追求のためには、世界全体が排出削減の取り組みを強化する必要があります。もはや温暖化対策はコストではなく競争力の源泉となりつつあるという実情のもと、環境と経済の好循環を回転させ、ビジネス主導の技術革新を促す形へとパラダイムシフトをすることが重要となっています。日本は、優れた技術、ノウハウなどの強みを活かしながら、従来の延長線上にないイノベーションを創出し、「環境と成長の好循環」を実現する世界のモデルとなるべく、取り組みを進めていきます。COP24 Japan Pavilion 【環境省】


地球温暖化教は断末魔の叫びをあげている。パリ協定の他ならぬ本国であるフランスのパリではデモが吹き荒れた。原油価格が続落する中、フランス政府は「地球温暖化対策で電気自動車への転換を促進するため」燃料税を導入し、人々が怒りが爆発したわけである。アメリカ人と違い、フランス人は概ね地球温暖化説を信仰している。そのフランス人にとってすら我慢の限界だったわけである。

パリ協定の目標(2℃より十分下方に抑える。1.5℃までに. 抑える努力も追求)の実現を図るべく各国代表が昨年12月にポーランドのカトヴィツェに集まった。時期を同じくして、地球温暖化全体主義に対抗する真の科学者の集まりであるNIPCC(Nongovernmental International Panel on Climate Change)と米リバタリアン系シンクタンクのハートランド研究所が同じカトヴィツェでプレゼンテーションを行った。

NIPCCがCOP24に呼ばれることはない。なぜならば、地球温暖化の「化学的根拠」を主導するIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は地球温暖化危機説を支持しない学説を徹底的に排除するからである。信じる者は救われ、疑うものは地獄行き、ということである。

IPCCと国連とメディアから排除されたNIPCCとハートランドの貴重なプレゼンテーションの一部をここに紹介したい。

COP24 Climate Science Presentation by The Heartland Institute



十万年単位でみると地球が大きな寒暖の波を経験してきたことが分かる。そして、過去の気温のピークは現在の気温を1〜2℃上回っている。


ローマ時代の温暖期、中世の温暖期と現在の気温が同等であることが分かる。また、20世紀から現在にかけて大気中の二酸化炭素濃度が増加しているにも関わらず気温上昇が中断していることも注目される。


1982年〜2015年にかけて二酸化炭素濃度は上昇の一途を辿る。その一部は間違いなく人間活動による二酸化炭素排出に起因している。一方、明白に確認できるのが地球の緑化である。


空気中の二酸化炭素濃度の上昇が植物の育成を助けることは科学的事実として知られている。二酸化炭素濃度が上昇して光合成が促進される。二酸化炭素濃度が上がっている現在は生物にとっての黄金期である。


二酸化炭素濃度と気温上昇の関係・・・ ミランコビッチサイクルとして知られているが、IPCCは無視し続けている。十万年単位のグラフなので見にくいが、二酸化炭素濃度の上昇は気温上昇の800年後に遅れて発生している。二酸化炭素が増えてから気温が上昇するのではなく、気温が上昇してから二酸化炭素が上昇しているのである。


科学というものは仮説をたてて事実によって検証する学問である。IPCCが主張し、各国政府が受け入れている実績と予測が赤い線、現実が下の「Reality」である。事実を見ても主張を改めないのを科学と呼べるのであろうか。それは宗教ではないのか。


1990年、IPCC はこれから10年の間に0.3℃気温が上昇すると予測した。懐疑論者は当時0.1℃の上昇を予測した。約30年後の今、実際には10年間に0.13℃の上昇であったことが分かっている。どちらも予測を外した。だがより近いのは懐疑論者であった。そして懐疑論者は「気象変動を否定する者」というレッテルを貼られている。

地球の気温に主要な働きをするのが太陽である。太陽の活動と気温の上下動がほぼ連動することが分かる。


単純に太陽の熱が地球を暖める、ということだけではない。太陽からは宇宙線(cosmic rays)が照射され、それが上空で雲凝結核(cloud condensation nuclei: CCN)を生成し、雲凝結核が雲を生成する。雲が増えれば太陽光が遮られる。太陽光が遮られれば気温は下がる。宇宙線の増減と気温の上昇下降は反対方向に一致している。


地球温暖化説によると、地球温暖化が進むと(実際に小氷河期から近年まで気温は上昇している)気象災害が増えるとされている。だが、実際には頻度が減っている。


頻度だけでなく、嵐のつよさも減じている。


地球温暖化説によると、地球温暖化が進むと干ばつが進むともいわれている。だが、米国においては20世紀初頭から現在にかけて干ばつは減っていることが記録されている。


米国だけではなく、世界的にも干ばつは減っている。


地球温暖化説論者は「それはだな・・・激しい雨が大地を叩きつけるからだ」と反論する。だが、局所的な大雨はむしろ減っていることが分かる。


世界各国は二酸化炭素排出を減らすために風力・太陽光発電を推進している。原発を止めている国もある。そのコストはいかに・・・


まとめとして・・・

 

  • 科学的な手法やそれを適用する人々を敵視する動きを警戒しよう。
  • 地球の歴史において、気象変動は異常ではなく正常である。
  • 懐疑論者も警戒論者も地球が温暖化傾向にあり、人間の温暖化ガス排出が寄与していることには合意している。
  • 歴史的には現在の地球はやや寒冷である。
  • 気温上昇は国連の予測よりも遥かに遅く推移している。
  • 人間は温暖な気候によって健康と幸福を享受する。


以上、この内容は一人でも多くの人々に見てもらいたいと願う。

人間は温暖化がもたらす利益を享受し、来る可能性のある寒冷化に向けての備えをすべきなのである。一方、「地球温暖化対策待ったなし」を主張する人々の中には狂信性を先鋭化させている人々がいる。

 

ハーバード大学の研究者チームが進める「The Stratospheric Controlled Perturbation Experiment(SCoPEx:成層圏制御摂動実験)」と名付けられたプロジェクトでは、Stratospheric Aerosol Injection(SAI:成層圏エアロゾル投入)と呼ばれる手法の検証が行われます。実験では、建築用のセメントや胃腸の「制酸剤」などとして用いられることが多い炭酸カルシウムの粉末を空中に散布し、地域一帯の環境がどのように変化するのかを観測します。将来的には、高高度を飛行する航空機から粉末をまく方法を使うことで、年間100億ドル(約1兆1500億円)以下で地球の平均気温を1.5度程度下げることができると考えられています。記事


気違いである。化石燃料は人間の生活環境を爆発的に改善してきた。その発展を止めようとする共産主義者は環境の仮面をかぶって地球温暖化論にしがみつく。文明の発展を願う我々と文明の破壊を願う狂信者達との戦いが繰り広げられている。

米国のパリ協定の離脱はトランプ大統領の英断である。正しさが世界的に危機に瀕している現在、一縷の望みを託したい。

カルロス・ゴーン逮捕は日本凋落の一章

  • 2019.01.01 Tuesday
  • 12:43

日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン被告(64)=金融商品取引法違反罪で起訴=が、平成20年のリーマンショックで生じた私的な投資による損失約18億5千万円を日産に付け替えた疑いが強まったとして、東京地検特捜部は21日、会社法の特別背任容疑で再逮捕した。ゴーン容疑者は報酬過少記載事件で10日に再逮捕され、東京地裁が20日に勾留延長を認めない決定をしたため、近く保釈される可能性が高まっていた。今回の再逮捕で勾留は長期化する見通し。SankeiBiz 2018.12.21


カルロス・ゴーン氏の拘束がいまだに続いている。この国の金持ち引きずり降ろし体質は病的である。

東京地検特捜部はゴーン氏を金融商品取引法違反罪で逮捕し、それが法廷で却下されると今度は会社法の特別背任容疑で再逮捕した。

これは「罪を見つけて犯罪者を裁く」ではなく、「人を捕まえて罪を探す」という法治主義の基本をないがしろにするものである。現代の複雑化した法制度において、些細な過失を探そうと思えば何人も犯罪者にすることができる。今回の「事件」はまさにそれである。

ゴーン氏は自らの報酬額を過少に有価証券報告書に記載したとされて金融商品取引法違反罪に問われた。ゴーン氏くらいになると我々庶民のように月給とボーナスが全報酬という単純なものではない。退任後に「もらう予定」の報酬もある。予定だから額は未確定である。有価証券報告書というのは投資家向けの書類であるから脱税ではない。投資判断を左右するものですらないから騙しでもない。

更に地検はゴーン氏がその立場を利用して自宅購入や改装等の私的目的の出費を会社経費につけかえることで会社に損失を与えたとして特別背任容疑で再逮捕した。

仕事領域と私的領域を完全に分けられる人間は皆無である。仕事のレベルが上がれば上がるほどにその両領域を隔てる境目は薄くなる。朝起きてから寝るまで、寝ている間も仕事のことを考え続ける。人と会って飯を食ったり酒を飲んだり遊びに行ったりするのも仕事との関係性を排除することはできない。ゴーン氏くらいの立場になればあらゆる時間を業績向上につなげることが求められる。

そうなると必然的に私的な時間に仕事の領域を、仕事の時間に私的な領域を混ぜ込まざるを得なくなる。あらゆる人には1日の時間は24時間しかないからであり、体力と知力を2倍、3倍にすることはできないからである。私的領域が仕事領域になり、仕事領域が指摘領域になるのである。それは悪いことでも何でもない。現実というものである。

そして、日産ほどの会社を崖っぷちから回復させるにはそれ相応の能力が必要である。だからこそ国内ではなく国外からゴーン氏という人材を得たのである。人材はタダではない。稀有な人材であればあるほどそれなりの報酬が必要なのである。こういう人材は日々の生活に困っているわけではない。このような人材に特有なニーズがある。行動範囲は常人を遥かに超えるためかかる経費も莫大になる。様々な都市に豪邸を買って別荘にするというのもその一つである。その経費を会社で負担するというのも、必要な人材を確保するために必要なコストである。

もしもそのコストが会社の利益を上回っており、会社に損失を与えているというのであれば、会社がゴーン氏を解任すればよいのである。もしも経費の使い方が不当であると、多くの幹部が感じるのであれば、幹部は会社内でそられを阻止すればよいのである。幹部が阻止することができず、多くの社員が不満を爆発させているのであれば、幹部も社員も会社を去ればよいのである。それで自然と自浄作用が働くのである。

日産はカルロス・ゴーン氏を絶対君主にいただく帝国ではないし、公官庁でもない。日産は株式会社である。会社としてゴーン氏の処遇を決定すればよいのであって政府がしゃしゃり出る必要はない。

些細なことでも人々が「会社を利用して個人的なニーズを充足させている」例は沢山ある。海外出張によく行く人間がマイルをためてそれで買い物をしたり家族旅行に行ったりするのもそれである。出張は会社経費である。マイルを買い物や家族旅行に使うのは個人用途である。人はそのようなことには目くじらを立てないが、カルロス・ゴーン氏は許せない。それは氏が金持ちだからである。

金持ちを引きずり下ろして人々が豊かになるか。考えてみれば分かることであるが、社会主義に脳をやられた人間にはやはり分からないのであろう。

あの国で活躍すれば大儲けできる、と思えば潰れる寸前の会社をV字回復させ、世界に冠たる企業に変貌させられるほどの有能な人材がやってくる。あの国で活躍し、儲けられたと思ったら引きずり降ろされて牢獄に入れられ、財産も没収される、となればどうなるか。バカバカしくて来る気にもなるまい。

インターネット上では「乾いた雑巾を絞るようにぎゅうぎゅうに締め上げてやれ」と息巻いている人間を見かける。この一件で溜飲を下げたつもりになっている人間は束の間の楽しみを享受すればよい。この結果は来月、再来月、来年、再来年といった近い時間軸で来るわけではない。10年〜20年といった時間軸でじわじわと効いてくる。その時にはこの件など遠い過去になってしまっている。人々の記憶にも残っておるまい。

"Spygate" 読了

  • 2018.10.28 Sunday
  • 19:43

「トランプ・ロシアゲート疑惑」の何たるかを追い続けてきた保守ポッドキャスターのダン・ボンジーノが集大成を出版した。

「スパイゲート・・・ドナルド・J・トランプ追い落とし作戦」



メディアが世間に流布するいわゆる「疑惑」の内容はこうである。

『トランプはビジネスマン時代からロシアとロシアとつながりがあり、プーチン大統領を尊敬していた。2013年にロシアを訪問した際、ホテルで売春婦と乱交し、それをクレムリンに握られていた。トランプは2016年の大統領選においてクリントンと対峙することになった。トランプはロシアのコネを使い、ロシアに民主党本部をハッキングさせると同時にクリントンに不利な情報をロシア情報機関から仕入れた。ポール・マナフォート、マイケル・フリン、カーター・ペイジ、ジョージ・パパダポラスといった親露的でロシアと繋がりの深い人物を起用し、ロシアから仕入れた情報を有利に使ってトランプは大統領選挙に勝利した。だがトランプのロシアとの共謀が徐々に露呈し、トランプ本人と選挙戦を支えた側近達の国家反逆的な違法行為が次々と白日の下に晒されることになった』

それに対し、本書はロシアゲート疑惑の本質をこのように説明する。

オバマ大統領やクリントン候補、民主党はトランプは共和党内での選挙戦で消えていくものと考えた。だが意外なことに生き残っただけでなく、ヒラリー・クリントンを脅かす存在となった。トランプを阻止しなければならない。それが至上課題となった。

トランプが公言する政策はそれまでの民主党政権においてオバマ大統領とクリントンが行ってきた政策をひっくり返すものであった。そしてトランプが政権につくということは、オバマ大統領とクリントン国務長官(当時)のイラン核開発容認、ロシアのイラン核開発支援の容認、ロシアのウラン確保容認、クリントンの個人メールサーバー使用とオバマの関与、こういった問題行為の数々が裁かれるということを意味した。彼らにとってトランプは危険人物であった。

ヒラリー・クリントンは法律事務所を隠れ蓑にし、ロシアに情報網を持つイギリスのスパイに「ロシア疑惑文書」を作成させる。ジョン・ブレナンCIA長官はそれにお墨付きを与え、ジェームズ・コーミーFBI長官はそれに基づいてトランプ陣営を盗聴する許可を裁判所に申請する。トランプ陣営を罠にはめる作戦が始動する。トランプ阻止の目的を共有する様々な人物がトランプ陣営に入れ代わり立ち代わり近づき、「ロシアが握るクリントンに不利な情報」をチラつかせては「情報に食いついた」証拠をデッチあげ、その報告をFBIに上げる。FBIはそれをもって「トランプ陣営はロシアと共謀している」と裁判所に訴え盗聴許可を得る。

FBIは犯罪行為を発見してその行為の主を捜査するのではなく、特定の人物をターゲットにして罪を探すという法治国家としてあるまじき捜査を繰り広げる。

しかし彼らの作戦は失敗し、トランプは大統領になってしまった。いよいよ憎しみに燃える彼らは「トランプ引き下ろし作戦」に移行する。

オバマ時代からFBI長官を務め、この疑惑の形成に重要な役割を果たしていたジェームズ・コーミーはトランプ大統領に解任される。メディアと民主党は「疑惑の捜査を妨害している!」とトランプ大統領を非難。オバマ時代の残党が牛耳る司法省はロバート・ムラー特別捜査官を任命し、トランプ大統領追い落とし作戦が始まる。ロバート・ムラーはトランプ選挙陣営とトランプ政権に関わる人物を片っ端から狙い撃ちにし、選挙に関係あるなしに関わらずあらゆる手を使ってトランプ大統領の政権運営を妨害しにかかる。

この「疑惑捜査」は大統領選の最中に始まり、トランプが大統領就任後1年が経過しようとしている。

しかし今にいたるまで「疑惑」を証明するものは、何一つ見つかっていない。トランプ大統領の支持率は益々上がる一方、この「疑惑」の本質が日を追うごとに明らかになる。それに関わる人物達の欺瞞と偽善と不道徳が暴かれつつある。彼らは窮地に追い込まれている。本書の出版がとどめを刺す。

本書ではこの疑惑に関わってきた人物を軸に、一連の詳細な流れを時系列でまとめている。

この「疑惑」には複数の国々にまたがる人々がそれぞれの思惑をもって関わっている。ウクライナはクリントンに肩入れした。イギリス情報部とオーストラリアの元外相は疑惑を形成する上で主要な役割を果たした。なぜ彼らが「トランプ阻止」に動いたのか、彼らの思惑とは何だったのか、なぜアメリカのCIAがイギリスの諜報機関に米国民をスパイさせたのか、疑惑の当人であるロシアがアメリカ大統領選をどのように見ていたのか。これらの疑問の答えは本書で明らかにされている。

現職の民主党政権が国家権力を動員するとともに外国の諜報機関をも使って対立政党の共和党の候補者を阻止する作戦を実行し、それが失敗した後にも政府機関とメディアを使って妨害を続ける、という前代未聞のスキャンダルとして、この「ロシアゲート疑惑」は後世に伝えられることになろう。

南アフリカ・・・白人虐殺の現実

  • 2018.09.16 Sunday
  • 21:28

我々は平和で豊かで安定した生活が未来永劫続くと思いがちである。だがそのような生活が徐々に変容し、瓦解し、いつの間にか消滅するのをなすすべもなく見つめなければならないとしたらどうであろうか。

貧困と殺戮の大地アフリカ大陸において、かつては唯一スイスのような存在であった南アフリカ共和国において、恐ろしいことが起きている。

先月ドナルド・トランプ大統領が放ったあるツイートでこの問題に注目が集まった。南アフリカにおいて、農場が強制接収され、農家の人々が殺戮の対象になっていることについての調査をポンペイオ国務長官へ指示した、という内容のツイートである。この農家というのは白人の農家のことである。

Tucker responds to backlash over South Africa report



1994年にアパルトヘイトが終了して以来黒人が政権を握っている。その時から現在まで、白人の立ち位置は弱まる一方である。弱まるどころか生存の権利さえ否定されようとしている。

2016年に南アフリカ政府(与党ANC)は白人の所有する土地を政府が決めた価格で接収し、それを黒人に分配するという法を可決した。アパルトヘイト終了後20年以上が経つにも関わらずいまだに3分の2の農場が白人に所有されていることに業を煮やした政府は、「政府は補償無しで土地を接収できる」ことを定めるべく憲法を改正しようという動きを進めている(参考)。

収奪を着々と法制化する一方、黒人政権や黒人の政治家は白人に対する黒人の敵愾心を扇動する。

「白人ののどを切っちゃえ!」



これを叫んでいるのはジュリアス・マレーマという政治家でEconomic Freedom Fightersという極左の有力政党党首である。それを聞く群衆が興奮で沸き立つ。この党は野党だが、与党のANCにしても言辞はやや抑えめだが基本的に思想は同じである。

この扇動に乗った暴徒が白人の農家を襲撃する。襲撃は既に起きている。

夜物音がする。見に行くと、自分の家族が恐ろしい姿で殺されている。そんなことがあちこちで起きている。白人であるから、という理由で狙われ、殺される。

その全容を正確に知るのは困難である。なぜならばこのような殺人を政府は「強盗事件」と分類するからである。それによって人種的動機による殺人をもとより異様に多い黒人間の殺人事件に埋もれさせることができるからである。

カナダのローレン・サザンというジャーナリストが南アフリカに2週間滞在してドキュメンタリーを撮影した。一人でも多くの人々の目にとまるようにと、インターネット上で無料公開されている。

FARMLANDS (2018) Official Documentary



「命が危ないなら、白人なんだからヨーロッパやアメリカやカナダにでも逃げればよいではないか」

彼らは既に代々その土地に住み、その土地と共に生きてきた人間達である。その土地には彼らの祖先の血と汗と涙がしみ込んでいる。代々受け継いできた家には思い出がつまっている。なんとかコーポ何号室からなんとかハイツ何号室に引っ越す、という話ではないのである。

また、一般的に「差別される側」と認識されている黒人には難民というステータスが与えられるが、「差別する側」と認識される白人に慈悲をかける国は少ない。

「昔はアパルトヘイトで酷いことやってたんだろ。罰が当たったんだよ」

人種隔離政策は素晴らしいものではない。我々の社会に導入したいと願うものではない。だが、事はそう単純ではない。

アパルトヘイトが導入されたのは1948年で、廃止されたのは1994年である。その間に人口はどのように推移したか。

 

 

人種

1965

1994

増加率

黒人

13,869

29,464

212%

カラード

1,782

3,447

193%

アジア人

548

1,008

184%

白人

3,408

4,349

128%

Population of South Africa by population group
http://www.nda.agric.za/docs/abstract04/Population.pdf

カラードというのは主に白人(オランダ系、英国系)や黒人(バンツー族)よりも前からいたコイ・サン族(ブッシュマン)である。肌の色はいわゆる黒人よりも明るい。

いわゆる「差別された」側の人口は著しく増加している。それとともに平均余命も年々上がっている(参照)。

人口が増え、平均余命が上がるということは、少なくとも白人による非白人の殺戮は行われていなかったということである。

国際社会で孤立しながらも南アフリカは発展を続け、アフリカの誇りと呼ばれるまでになった。70〜80年代には徐々にアパルトヘイト政策が緩和され、移動の自由が認められるようになった。一部の黒人の所得も次第に上がっていった。

素晴らしいものではなかったにせよ、アパルトヘイトはそれなりに社会の安定を維持するのに役立っていた。アパルトヘイト自体も時代とともに改革を経ていた。

しかしアパルトヘイト廃止後に治安は急激に悪化し、ケープタウンやヨハネスブルクは世界でも有数の危険な犯罪都市に変貌した。

ANCの黒人政権によって本当の人種差別政策が実行されるようになった。白人のアパルトヘイトを断罪していた人々は黒人政権による人種差別政策は見てみぬふりである。BBCもCNNもABCもニューヨークタイムズもワシントンポストもである。

共産党をルーツとする与党ANCは次々と社会主義的な政策を実行しているが、この土地の強制接収はその一つに過ぎない。経済環境は日々悪化している。

社会実験の結果はすぐには現出しない。数年〜数十年が経過してからようやく目に見える形となって出てくる。社会の変容が明らかになった時には、往々にして手遅れである。時計はもとに戻らないのである。


【参考】
A Brief History of South Africa, with Dave Steward



White Farmers Slaughtered in South Africa | Lauren Southern and Stefan Molyneux

 

フォン・ミーゼス「Human Action」読了

  • 2018.09.13 Thursday
  • 12:28


今日の自由主義経済学の始祖的存在であるオーストリア経済学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの金字塔的大作、「ヒューマン・アクション」英語版を読了した。今年の2月頃から読みはじめたから半年以上を費やしたことになる。

ミーゼスは本書において経済というものが数学や物理学のような定数を対象とする学問ではなく、人間という強さと弱さ、感情と情熱、心と思考を持つ動的な存在を対象とする人間行動学であると位置づけて解説する。

前半はこの人間行動学とは何かを延々と述べているのだが、これがミーゼスの母国語であるドイツ語を直訳したような英語でサッパリ意味不明であった。そこで挫折し、1カ月くらい放置していたのだが、やはりこの大作を読まずして経済を知ったつもりになることを恥じて気を取り直して読み進めた次第である。

途中から次第にいわゆる「経済の話し」になっていくわけだが、相変わらずサクサク読める気軽な文体的ではないためある程度の読みにくさはあるものの、そこらへんから徐々に面白味が出てくる。

現時点の理解度でこの大作を簡潔に要約するのは不可能であるため、特筆すべき部分をコメントしながら抜き出していきたい。

【政府の役割について】

ミーゼスはロン・ポールをはじめとする米国リバタリアンの教祖的な存在である。そして日本ではなぜか無政府主義の始祖と誤解されることが多いようである。しかし本書を読めば分かることであるが、ミーゼスは政府の転覆を主張するものではない。むしろ逆で、ミーゼスは政府の役割を明確に認めていることが分かる。ロナルド・レーガン大統領はミーゼスの著書に親しんでいたという。本書から受けた印象としては、リバタリアンというよりもむしろ保守本流に近いのではないか、というものである。

 

The maintenance of a government apparatus of courts, police officers, prisons, and of armed forces requires considerable expenditure. To levy taxes for these purposes is fully compatible with the freedom the individual enjoys in a free market economy. 

Every step a government takes beyond the fulfillment of its essential functions of protecting the smooth operation of the market economy against aggression, whether on the part of domestic or foreign disturbers, is a step forward on a road that directly leads into the totalitarian system where there is no freedom at all. 


司法、警察、刑務所及び軍隊を維持するには相応の原資が必要である。このための課税は自由な経済における個人の自由となんら矛盾するものではない。ただし、政府として必要不可欠な活動である内外の敵からの防衛という一線を越えた活動は、自由が完全に欠如した専制的システムへと直接つながるものである。


そしてミーゼスは、次において防衛に関しては左翼と同じである世の泡沫リバタリアンと完全に袂を分かつ。
 

But as conditions are in our age, a free nation is continually threatened by the aggressive schemes of totalitarian autocracies. If it wants to preserve its freedom, it must be prepared to defend its independence. If the government of a free country forces every citizen to cooperate fully in its designs to repel the aggressors and every able-bodied man to join the armed forces, it does not impose upon the individual a duty that would step beyond the tasks the praxeological law dictates. 

In a world full of unswerving aggressors and enslavers, integral unconditional pacifism is tantamount to unconditional surrender to the most ruthless oppressors. He who wants to remain free, must fight unto death those who are intent upon depriving him of his freedom. 

As isolated attempts on the part of each individual to resist are doomed to failure, the only workable way is to organize resistance by the government. The essential task of government is defense of the social system not only against domestic gangsters but also against external foes. 

He who in our age opposes armaments and conscription is, perhaps unbeknown to himself, an abettor of those aiming at the enslavement of all. 


今日、我々自由国家は専制国家による侵略に脅かされている。我々が自由を維持しようとするならば、独立を防衛する備えをせねばならない。政府が全国民に対して防衛への協力を要請する場合、それは人間行動学の法則に反するものではない。侵略者が跳梁跋扈するこの世界において、平和主義は無条件降伏と同義である。自由であろうとする者は、これら侵略者と死をもってしてでも戦う決意を持たねばならない。侵略者に対する個人の抵抗は不毛であり、政府による集団的自衛のみが有効である。必要不可欠な政府の役割は国内外の敵対勢力からの防衛である。今日、軍備増強と徴兵に反対する者は、我々を隷属させんとする勢力に加担する者に他ならない。

 


【経済学について】

ミーゼスは経済学とは何か、市場とは何かを説く。

 

 

Economics is not, as ignorant positivists repeat again and again, backward because it is not “quantitative.” It is not quantitative and does not measure because there are no constants. 

経済学というものは定量的ではないから後進的だと言う無知の徒がいるが、経済学が定量的ではないのは定数が無いからに他ならない。

Economics is not intent upon pronouncing value judgments. It aims at a cognition of the consequences of certain modes of acting. 

経済学は価値観を表明するためのものではない。それは一定の行動がもたらす結末を認識するためのものである。

The market is not a place, a thing, or a collective entity. The market is a process, actuated by the interplay of the actions of the various individuals cooperating under the division of labor. 

市場とはある場所、あるモノ、ある物体・団体をさすものではない。それは分業において様々な個人が人々と協力しながら交わり合うことによって形成されるプロセスなのである。


ミーゼスは市場経済における分業の重要性を説く。
 

The division of labor splits the various processes of production into minute tasks, many of which can be performed by mechanical devices. It is this fact that made the use of machinery possible and brought about the amazing improvements in technical methods of production. Mechanization is the fruit of the division of labor, its most beneficial achievement, not its motive and fountain spring.

分業によって生産工程は機械でも可能な単純作業に細かく分割される。これによって機械化が進むと同時に生産手段の驚くべき技術的発展をもたらした。機械化は分業の成果であって動機ではない。


社会主義者は市場経済はしばしば「弱肉強食の世界」と揶揄し、多くの人々がその俗説に囚われている。ミーゼスはその俗説をひっくり返す。
 

The regular scheme of arguing is this: A man arbitrarily calls anything he dislikes “capitalistic,” and then deduces from this appellation that the thing is bad. 

とにかくこの世で嫌なものを片っ端から全て集めてはそれを「資本主義のせいだッ」と言うのが定番である。

This faulty nomenclature becomes understandable only if we realize that the pseudo-economists and the politicians who apply it want to prevent people from knowing what the market economy really is. They want to make people believe that all the repulsive manifestations of restrictive government policies are produced by “capitalism.” 

彼ら(似非経済学者)が望むのは、政府政策による規制が生む全ての悪しき結果を人々が資本主義のせいであると信じ込むことである。

In the pitiless biological competition the stronger was always right, and the weaker was left no choice except unconditional surrender. Primitive man was certainly not born free. Only within the frame of a social system can a meaning be attached to the term freedom. 

非情な物理的な競争化において、物理的に強い者が常に正しく、物理的に弱い者が与えられた選択肢は無条件降伏のみである。原始人は決して自由ではなかった。社会の枠組みにおいてのみ、自由という概念が存在しうるのである。

One of the privileges which society affords to the individual is the privilege of living in spite of sickness or physical disability. Sick animals are doomed. Their weakness handicaps them in their attempts to find food and to repel aggression on the part of other animals. Deaf, nearsighted, or crippled savages must perish. But such defects do not deprive a man of the opportunity to adjust himself to life in society. 

動物の世界と違い、人間社会においては病気や物理的欠陥にも関わらず生きる権利を有することである。動物は病気になったら終わりである。病気になれば食糧を得たり他の動物からの攻撃に対抗するにあたりハンディを負う。目や耳や手足が不自由な野獣は死ぬしかない。しかし人間社会において、そのような欠陥を持つ人間は適応すればすむのである。

There is no kind of freedom and liberty other than the kind which the market economy brings about. In a totalitarian hegemonic society the only freedom that is left to the individual, because it cannot be denied to him, is the freedom to commit suicide.

市場経済が与える自由こそが唯一の自由である。専制的な階級社会において個人に残された唯一の自由は、自殺する自由だけである。

 


【利益について】

利益というものを白眼視するのは古今東西を問わず人類の病気である。ミーゼスはその病気に対しても直言する。

 

Profit and loss are the devices by means of which the consumers exercise their supremacy on the market. 

利益と損失は消費者が市場において最高位に君臨するための手段である。

The driving force of the market process is provided neither by the consumers nor by the owners of the means of production—land, capital goods, and labor—but by the promoting and speculating entrepreneurs. These are people intent upon profiting by taking advantage of differences in prices. Quicker of apprehension and farther-sighted than other men, they look around for sources of profit. They buy where and when they deem prices too low, and they sell where and when they deem prices too high. They approach the owners of the factors of production, and their competition sends the prices of these factors up to the limit corresponding to their anticipation of the future prices of the products. They approach the consumers, and their competition forces prices of consumers’ goods down to the point at which the whole supply can be sold. Profit-seeking speculation is the driving force of the market as it is the driving force of production. 

市場プロセスの推進者は消費者でもなければ生産手段の保有者でもなく、気概と山っ気のある起業家である。彼らは価格の違いを利用して利益を得んとする人々である。周囲の人間よりも機を見るに敏で先見の明がある彼らは利益の源泉を探し回る。彼らは価格が過度に安い時と場面で買い、過度に高い時と場面で売る。彼らは生産手段の保有者に競ってアプローチし、その競争によって生産手段の価格は最終製品の予想される将来の価格に従ってギリギリまで引き上げられる。一方彼らは消費者に競ってアプローチし、その競争によって商品がきれいに売りさばけるくらいまでに引き下げられる。利益を求める行為こそが生産を促すものであり、市場の原動力なのである。

The entrepreneur is the agency that prevents the persistence of a state of production unsuitable to fill the most urgent wants of the consumers in the cheapest way. 

起業家というのは、消費者の抱える最も火急な必要性を最も安く解決することが妨げられるような状況が長引くのを防止する者達である。※簡単に言い直すと、人々が一番困っていることを一番お安く解決するのが起業家だ、ということである。

The mentality of the promoters, speculators, and entrepreneurs is not different from that of their fellow men. They are merely superior to the masses in mental power and energy. They are the leaders on the way toward material progress. They are the first to understand that there is a discrepancy between what is done and what could be done. 

商売人、山師、起業家と呼ばれる人々は精神性が一般人と違うわけではない。彼らは一般大衆よりも精神力と活力に優れているだけである。彼らは物質的発展におけるリーダーである。成された事と成しうる事との間にある乖離を最初に見出すのが彼らなのである。

The competition among the entrepreneurs is ultimately a competition among the various possibilities open to men to remove their uneasiness as far as possible by the acquisition of consumers’ goods.

起業家同士の競争とは、つまるところ、消費財が不便さを除去することが可能な複数の選択肢同士の競争である。

 


【労働について】

マルクスは社会を労働者階級と資本家階級とに分断して描いた。それは事実と反する。だからプロパガンダなのであり、そのプロパガンダを体現したソビエト連邦帝国は崩壊したのである。だがその基本思想は結局のところ人類の持病であり、姿を変えて人々の心に巣食っている。ミーゼスは労働を特別視する人々の誤解を直撃する。手を動かして働く人間だけが富を創出するのではないのだ、と。

 

Yet bare labor produces very little if not aided by the employment of the outcome of previous saving and accumulation of capital. The products are the outgrowth of a cooperation of labor with tools and other capital goods directed by provident entrepreneurial design. The savers, whose saving accumulated and maintains the capital, and the entrepreneurs, who channel the capital into those employments in which it best serves the consumers, are no less indispensable for the process of production than the toilers. It is nonsensical to impute the whole product to the purveyors of labor and to pass over in silence the contribution of the purveyors of capital and of entrepreneurial ideas. 

実際のところ、貯蓄と財の蓄積の結果を活用することによる恩恵無しに肉体労働が生産できるものはほとんど無い。製品というものは、先見の明に裏打ちされた起業家の計画によって手配される道具や財が人々の労働と協働することによって実現化される。財を蓄積し維持する貯蓄者、そしてその財を消費者へ最大のサービスを提供するために活用する起業家の、生産活動における不可欠性は、いわゆる労働者と比べていささかも劣るものではない。いわゆる労働者だけが製品を製造するものであるとし、財や事業構想による貢献を無視するのは無意味である。

The selective function of the market works also with regard to labor. The worker is attracted by that kind of work in which he can expect to earn most. As is the case with material factors of production, the factor labor too is allocated to those employments in which it best serves the consumers. There prevails the tendency not to waste any quantity of labor for the satisfaction of less urgent demand if more urgent demand is still unsatisfied. 

市場の選定機能は労働に関してもその役割を果たす。労働者個人は、最も稼げそうな仕事に惹かれる。労働という要素も、生産の物的要素がそうであるのと同様に消費者へ最大のサービスを提供するという目的に沿って分配される。この機能によって、消費者が抱える最大の問題を優先的に対処されることに労働(という有限の資源)が使われ、些細な問題に浪費されないよう促されるのである。
 


【価格について】
価格を理解するものは経済を理解する。

 

The ultimate source of the determination of prices is the value judgments of the consumers. Prices are the outcome of the valuation preferring a to b.

価格の最終決定要因は消費者の価値判断である。価格はAかBのどちらが望ましいかの判断の結果である。

Each individual, in buying or not buying and in selling or not selling, contributes his share to the formation of the market prices. But the larger the market is, the smaller is the weight of each individual’s contribution. Thus the structure of market prices appears to the individual as a datum to which he must adjust his own conduct. 

買うか買わないかによって、また売るか売らないかによって、個人は市場価格の決定に個人としての貢献をする。しかし市場が大きければ大きいほど、個人の持つウェイトは小さくなる。よって市場価格の構造は個人にとっては自身の行動を調整しなければならない基準のように見えるのである。

A government can no more determine prices than a goose can lay hen’s eggs. 

ガチョウが鶏の卵を産むことができないように政府は価格を決定することができない。

However, precisely because we want to examine these problems it is necessary clearly to distinguish between prices and government decrees. Prices are by definition determined by peoples’ buying and selling or abstention from buying and selling. They must not be confused with fiats issued by governments or other agencies enforcing their orders by an apparatus of coercion and compulsion.[ 191] 

しかし、我々はこの問題を正確に検証したいと望むがゆえに、価格と政府の法令との違いを明確に区分する必要がある。価格とは、人々の売買、あるいは売買の欠如によって決定されるものと定義される。政府や他の集団が人々に強制、強要するために公布する命令と混同されてはならない。

 


【教育について】
教育というサービスを特別視するがために、その役割が政府に飲み込まれて制度化され、我々はその制度の囚人と化している。今日の高等教育無償化の議論などまさにこれである。

 

It is often asserted that the poor man’s failure in the competition of the market is caused by his lack of education. Equality of opportunity, it is said, could be provided only by making education at every level accessible to all. There prevails today the tendency to reduce all differences among various peoples to their education and to deny the existence of inborn inequalities in intellect, will power, and character. It is not generally realized that education can never be more than indoctrination with theories and ideas already developed. Education, whatever benefits it may confer, is transmission of traditional doctrines and valuations; it is by necessity conservative. It produces imitation and routine, not improvement and progress. Innovators and creative geniuses cannot be reared in schools. They are precisely the men who defy what the school has taught them. 

しばしば、貧しき者が競争で負けるのは教育が足りないからであると主張する者がいる。あらゆる階層の教育を万人に提供することによって機会の平等が実現する、と彼らは言う。今日、人々の間の教育に関する違いを減らし、生まれながらの知力、気力、性格の違いといったものを否定しようとする傾向が優勢である。教育は、すでに確立された思想や想念による洗脳になりうる、ということは一般的に認識されていない。教育というものは、それがどのような利益があるにせよ、伝統的な思想と価値観を伝えるものであり、それは必然的に保守的なものである。それは改善と発展ではなく模倣と繰り返しを生産する。革新する者や創造的な天才を学校で育てることはできない。彼らはまさに学校で教わったことに逆らう者達である。
 


【政府が支出することについて】

日本では、人々がお金を使えるように再分配しましょうという考えがほぼ全ての政治的議論の前提となっている。誰が、誰に、どうやって、どのくらい分配するか、の議論が延々と続いている。それがいかにバカげたことか、この例をもって木っ端みじんである。

 

This paralogism can easily be exploded by referring to the well-known anecdote of the man who asks an innkeeper for a gift of ten dollars; it will not cost him anything because the beggar promises to spend the whole amount in his inn. 

ある男が旅館の主に対してこう言ったらどうであろうか。「私に10ドル下さい。貴方は何も失うものはありません。私は貴方の旅館でこの10ドルを全部使うと約束しますから」
 


【インフレ政策について】
歴史のある政府の経済政策の代表がインフレ政策である。歴史上、各国でそれが行われ、人々は様々な辛酸をなめ、時が経ち、忘れ、また繰り返す。今日の日本でもそれが現在進行中である。人はそれをアベノミクスと呼ぶ。インフレ政策は安倍さんの発明品ではないのだが、人はそう呼ぶ。歴史を忘れた証拠である。

 

Yet, men are not infallible. A certain amount of malinvestment is unavoidable. What has to be done is to shun policies that like credit expansion artificially foster malinvestment. 

人というものは完全無欠ではない。一定の誤投資は不可避である。避けねばならないのは、量的緩和のような誤投資を人為的に促進する政策である。

It was not realized that changes in the quantity of money can never affect the prices of all goods and services at the same time and to the same extent. 

貨幣量の変化は全ての商品、サービスの価格に同時に同じ程度影響を与えるわけではない、ということは一般的に理解されていない。

In the course of a monetary expansion (inflation) the first reaction is not only that the prices of some of them rise more quickly and more steeply than others. It may also occur that some fall at first as they are for the most part demanded by those groups whose interests are hurt. 

金融拡大(インフレ)の進行において、あるものが他のものよりも急激に、そして大幅に値上がりするだけでなく、値上がりがある集団の利益を失するような場合、その集団に需要のあるものがまずは値下がりする場合もある。

If an inflationary movement and a deflationary one occur at the same time or if an inflation is temporally followed by a deflation in such a way that prices finally are not very much changed, the social consequences of each of the two movements do not cancel each other. To the social consequences of an inflation those of a deflation are added. There is no reason to assume that all or even most of those favored by one movement will be hurt by the second one, or vice versa.

インフレとデフレが同時に起きた場合、あるいはインフレに続いてデフレが生じ、価格がそれほど変わらない場合、インフレとデフレのそれぞれによる社会的悪影響は相殺されるものではない。インフレによる悪影響にデフレの悪影響が加わるのである。一方によって得をする人々が他方によって損をするとは限らないのである。

Money is an element of change not because it “circulates,” but because it is kept in cash holdings. Only because people expect changes about the kind and extent of which they have no certain knowledge whatsoever, do they keep money.

貨幣は変化の要素であるが、それは「世を回る」からではなく、ため込まれるからである。人々が将来の動向に対して見通しが立てられない時、不透明さの分だけ人々は金をため込む。

First: Inflationary or expansionist policy must result in overconsumption on the one hand and in malinvestment on the other. It thus squanders capital and impairs the future state of want-satisfaction.

Second: The inflationary process does not remove the necessity of adjusting production and reallocating resources. It merely postpones it and thereby makes it more troublesome. 

Third: Inflation cannot be employed as a permanent policy because it must, when continued, finally result in a breakdown of the monetary system. 


インフレの害悪:
第一:インフレもしくは金融緩和政策は過度な消費と誤投資につながる。それによって財が浪費され、将来の需要満足を阻害する。

第二:インフレの進行によって生産と資源配分の必要性が除去されるわけではない。その必要性はただ単に先送りされるだけであり、状況は悪化するのみである。

第三:インフレは持続可能な政策ではない。なぜならばいつかは金融システムの崩壊につながるからである。


A retailer or innkeeper can easily fall prey to the illusion that all that is needed to make him and his colleagues more prosperous is more spending on the part of the public. In his eyes the main thing is to impel people to spend more. But it is amazing that this belief could be presented to the world as a new social philosophy. Lord Keynes and his disciples make the lack of the propensity to consume responsible for what they deem unsatisfactory in economic conditions. What is needed, in their eyes, to make men more prosperous is not an increase in production, but an increase in spending. 

特に小売業者や旅行業者などは彼らが豊かになるには公的支出を増やせばよいという幻想に陥りやすい。彼らの目には、必要なのは人々がもっと金を使うことだ、と見える。しかしこの信仰が斬新な社会哲学として全世界に広められている事実は驚くべきことである。ケインズと信徒達は経済における悪しき状況の原因は人々の消費に対する積極性の欠如であるとする。人々を豊かにするために必要なのは生産を増やすことではなく、消費を増やすことだ、と彼らは言う。

But even at the time liberalism enjoyed its highest prestige and governments were more eager to preserve peace and well-being than to foment war, death, destruction, and misery, people were biased in dealing with the problems of banking. Outside of the Anglo-Saxon countries public opinion was convinced that it is one of the main tasks of good government to lower the rate of interest and that credit expansion is the appropriate means for the attainment of this end.

自由主義が絶好調で、各国政府が戦争と死と破壊と惨めさを推進するかわりに平和と幸福の維持に努めていたかつての時代にあっても、人々はやはり金融に対する偏見に囚われていた。アングロサクソン以外の国々にあっては、金利を下げることは政府の重要な役割であり、金融拡大はその目的を達成するための適切な手段である、と大多数の人々は信じていた。
 


【特許、著作権について】
一部のリバタリアンは特許や著作権など無くしてしまえ、というだが、ミーゼスは少なくとも本書においてそのようなことは述べていない。一方、人々は独占・寡占というものを「行き過ぎた資本主義の悪」と勘違いする傾向がある。ミーゼスはその誤謬を正す。

 

The publisher of a copyright book is a monopolist. But he may not be able to sell a single copy, no matter how low the price he asks. Not every price at which a monopolist sells a monopolized commodity is a monopoly price.

著作権を有する本の出版者は寡占者である。だが、その出版者はその本の価格をどれほど安くしても一冊も売れない可能性があるのである。寡占者が寡占商品を売る価格は必ずしも寡占価格ではないのである。

As a rule the state of affairs that makes the emergence of monopoly prices possible is brought about by government policies, e.g., customs barriers.

寡占価格が出現する原因は他でもなく輸入規制のような政府の政策によるものである。

The important place that cartels occupy in our time is an outcome of the interventionist policies adopted by the governments of all countries. The monopoly problem mankind has to face today is not an outgrowth of the operation of the market economy. It is a product of purposive action on the part of governments. It is not one of the evils inherent in capitalism as the demagogues trumpet. It is, on the contrary, the fruit of policies hostile to capitalism and intent upon sabotaging and destroying its operation. 

今日の我々の社会において生じる寡占は各国政府の介入政策によるものである。我々が直面する独占は市場経済の運営による結果ではない。それは政府による意図的な行動の結果である。デマゴーグが吹聴する「資本主義の悪」でも何でもない。事実は完全に逆であり、それは資本主義に対する敵対的な政策と、その運営を阻害し破壊せんとする意思による成果である。
 


【政府介入、規制について】

長いこと国会ですったもんだした森本問題や加計問題など、そもそも政府の介入がなければ存在しえない現象である。国会で騒ぐ政治家連中のなかでその問題の根本を指摘する者はいない。
 

In an unhampered market economy the capitalists and entrepreneurs cannot expect an advantage from bribing officeholders and politicians. On the other hand, the officeholders and politicians are not in a position to blackmail businessmen and to extort graft from them.

自由な経済において、資本家や起業家は官僚や政治家に賄賂を渡すことでの利益は期待できない。同時に官僚も政治家も、ビジネスマンを脅すことも彼らにたかることもできない。

In many countries interventionism has so undermined the supremacy of the market that it is more advantageous for a businessman to rely upon the aid of those in political office than upon the best satisfaction of the needs of the consumers. 

多くの国々において、介入主義があまりにも浸透して市場の地位を貶めているがために、ビジネスマンにとっては消費者を最大限満足させることよりも政府の庇護を得ることのほうが利益になるに至ったのである。

 

やっとのことで最終頁まで辿り着いた。この歴史に残る大作をまたいつか読み直したい。

 

我が国は1949年にミーゼスが本書において歴史上の例を挙げつつ避けるべきこととして警告したことを「忠実に」実行してきた。アベノミクスはそれを加速している。ハイパーインフレーションをはじめとする猛烈なしっぺ返しがくるのか。来ないだろう、と希望的観測を持つ理由を探すほうが難しい。その事を実感し、将来への不安を強めた数ヵ月であった。

 

プロパガンダで始まるストロー宗教戦争

  • 2018.07.29 Sunday
  • 12:08

ここ数週間、毎日のように欧州や米国のリベラルな州におけるプラスチックストロー廃止に関するニュースが続いている。海外の左翼メディアの情報を翻訳して垂れ流すしか能のない日本のメディアはプラスチックストロー廃止の動きを日本でも受け入れるべき世界的な流れとして紹介している。

「意識の高い」リベラルな国や地域では既にプラスチック製ストローが禁止され、罰則も適用されている。全米で最もリベラルな州のひとつであるカリフォルニアのサンタ・バーバラではレストランが顧客にプラスチック製ストローを提供した場合1000ドルの罰金か6カ月の拘留という罰則を設けた。サンフランシスコでもストローが禁止され、違反者は100〜500ドルの罰金が科せられる。

健常者はストローが無くてもなんとか飲料が飲めるが、身体障害者にとってはたまったものではない。




また、コーヒーなどはストローが無くても飲めないことはないが、タピオカドリンクなどは無理である。スプーンですくって飲め、では面倒くさくて仕方がない。

プラスチック製でなくても他の素材がある・・・。紙や竹といった素材のストローのコストはプラスチック製の2〜3倍から5倍である。しかもコストは高くて品質(性能・耐久性)が低い。個人から見れば僅かな違いであろうが、それを仕事にしている事業者からすればとんでもないことである。

プラスチック製ストロー廃止を主導しているのは共産主義から衣替えした左翼・環境活動家達である。彼らは言う。ストロー廃止は環境との共生への一歩であると。

彼ら左翼は米国においては不法移民の容認・受入や薬物の使用や所持に対する罰則緩和といったリベラル政策を推進している。その結果、かつて米国で最も美しい街といわれたサンフランシスコはいまやホームレスと麻薬中毒者とゴミと人糞の街と化している。






サンフランシスコを廃棄場にした彼ら左翼と世界中の同類達が「地球を救うためにプラスチック製ストローを廃止」を叫んでいるのであるから笑止千万である。

プラスチックは20世紀初頭にこの世に登場し、その後の絶え間ない技術革新により人々の生活を革命的に改善した。重いものが軽くなり、割れやすいものが割れなくなり、曲がらないものが曲がりやすくなり、熱い/冷たいものが適温になり、分厚いものが薄くなり、高価なものが安価になった。

左翼が最も許せないのは一般大衆が豊かになることである。そのくせ彼ら自身は豊かさの恩恵を享受しながら高説を垂れる。「重要なのは”私一人”が豊かさを捨てることではなく、社会全体が”少しずつ”商業主義から脱却していくことだ」と。彼らはこう言いつつゲート付きの安全な住宅に住み、ジェット機で世界中を飛び回り、高額な講演料をせしめる。偽善者である。

先進諸国においてプラスチックストローを廃止したところで地球の環境は微塵たりとも改善されることはない。海洋に流れ込む全プラスチック廃棄物のうち、プラスチック製ストローが占める割合は0.02%に過ぎない(National Review 記事)。

海洋汚染を起こしているプラスチック廃棄物はほぼすべてが後進国の河川からくるものである。後進国では人々が現代文明の豊かさを享受する一方、市場経済が未発達で私有財産の概念が薄い。よって自分の生活空間以外はゴミ箱である。河川などはゴミ捨て場そのものである。先進国が自主的にストローを法規制したところでこれら後進国のゴミ捨て場からゴミが消えるわけではない。山のようなゴミはそのままである。

当然サンフランシスコの街に散乱するプラスチックのゴミや路上にこびりつく人糞もそのままである。

このプラスチック騒ぎの発端の一つはこの映像である。テキサスA&M大学の海洋生物学調査チームが中米コスタリカ近海で鼻に何かが詰まって苦しそうに呼吸するヒメウミガメをみつけ、ペンチで引っこ抜いてみたらなんとそれはプラスチック製ストローだった、という話である。



この映像が全世界の「意識高い」人々の心を揺さぶり、それほど「意識高くない」人々をも「目覚めさせ」ているわけであるが、よく考えれば極めて怪しいシロモノである。

なぜコスタリカなのか。プラスチック製ストローが海洋環境に壊滅的な打撃を与えているのであれば、ストローを鼻に突っ込んだ哀れなカメさんを探しに行くのにコスタリカまで行かねばならんのは何故なのか、ということである。コスタリカまで行かずとも、カメならテキサスにも沢山いる。彼らテキサスガメはストローとどのように対峙しているのか。

世界にウミガメが何匹いるのか推測は極めて難しいが、全米では68,000〜90,000と言われている。しかも、このテキサスA&M大学の地元のテキサス(メキシコ湾)ではその数が近年増加しているという研究もある。増加するテキサスのウミガメのうちストローを鼻に突っ込んだカメが一体何匹いるのか。ゴミを捨てまくる後進国の海を漁るよりもそちらを調べるのが先ではないのか。

映像の4分くらいのところで、やっとのことでペンチで途中まで引き出した異物をわざわざ根本から切断している。そしてそこで研究員らしき人物が言う。「Don't fucking tell me it's a freaking straw(まさかストローじゃねぇよな)」と。そして「だからいつも言っているように、プラスチックのストローなんて要らないんだ」と続ける。

事の経緯は知る由もないが、この映像は最初から最期まで上のセリフを言いたいがために企画され、撮影されたものであると断じざるを得ない。プロパガンダ映像である。

世の名だたる企業が次々とプロパガンダに屈して「プラスチック製ストロー廃止」を決定するなか、プラスチック製ストローへの風当たりはきびしくなっている。ストロー製造は見た目からも想像できるくらい単純なものである。小規模な会社で工員がせっせと作業している。世論を扇動する環境活動家の前に無力な存在である。

彼らの犠牲など、反プラスチック教という新興宗教を布教し、反プラスチックの宗教戦争を戦う環境活動家からみれば取るに足らないものである。

悪しき宗教に染まる社会とオウム真理教

  • 2018.07.15 Sunday
  • 17:20


ビート・タケシというと「歯にもの着せずズバリ本質」のようなイメージがある。タケシはかつて麻原彰晃とテレビで対談したことがある。

タケシが麻原に聞く。

小さいころから悩んでいるんですけどね・・・モゴモゴ・・・人間て、こう・・・自分が動くために・・・でも形あるものを食って糞にしなきゃならないとか・・・繰り返しているなあと・・・ 原子とか分子レベルでは形は変わっていないとかあるんでしょうけど・・・どういうことなんだろうかと・・・モゴモゴ

麻原が答える。

このような問いを発するというのは普通の人ではないですね。まさに神の域に達していますね・・・ 明らかに前世では神のような存在を経験されているはずです。やはりタケシさんは芸能界のカリスマであり、指導者であられる。

この愚にもつかない質問と応答において喜びを隠しきれないタケシの恍惚とした表情を見るとよい。一見宗教的でない人間がオカルト宗教にコロリと騙される瞬間である。



人間は宗教と不可分である。宗教に興味があるとか、無いとか、そういう問題ではない。神を意識するとか、しないとか、そういう問題でもない。

日本でいえば、宗教に興味無し、という人は多い。大概の場合、そういう人々が信仰しているのは宗教の名を冠しない何かである。その何かとは、政府による金融政策や規制であったり、地球温暖化や反原発や太陽光発電といった似非科学であったりする。これらは宗教の名を冠しないだけで根拠のない信仰であるからには宗教である。

地下鉄サリン事件を起こしたテロリストを称揚した日本のテレビ番組の水準と現在の日本のテレビ番組の水準は同じである。オカルト怪奇現象番組も芸能人の運動会もクイズ番組も相変わらずである。多くの家庭ではテレビが神殿と化し、聖堂と化し、神棚と化している。芸能人が司教と化している。

オウム真理教がテロを起こしたのはなぜなのか、真相を解明してからでなければ死刑執行をしてはまずい、という笑止千万な人間がいる。逮捕された後の麻原は意味不明な言葉を口走ったりしていて精神状態が正常ではなく、治療を行い回復した後でなぜあのような事件を起こしたのかを聞き取りして原因解明することが再発防止につながるだろう、と佐藤優という自称インテリは言う。




原因解明もヘッタクレもない。この世には悪しき宗教と良き宗教がある。悪しき宗教に染まった人間は悪しきことをやる。悪しき人間は麻原こと松本のように徹底的に人を欺く。このような悪人は死刑に処すのが正義というものである。

良き宗教を持たない人間は悪しき宗教に簡単に染まる。悪しき宗教に染まらないための唯一の方法は良き宗教を信仰することである。

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