南アフリカ・・・白人虐殺の現実

  • 2018.09.16 Sunday
  • 21:28

我々は平和で豊かで安定した生活が未来永劫続くと思いがちである。だがそのような生活が徐々に変容し、瓦解し、いつの間にか消滅するのをなすすべもなく見つめなければならないとしたらどうであろうか。

貧困と殺戮の大地アフリカ大陸において、かつては唯一スイスのような存在であった南アフリカ共和国において、恐ろしいことが起きている。

先月ドナルド・トランプ大統領が放ったあるツイートでこの問題に注目が集まった。南アフリカにおいて、農場が強制接収され、農家の人々が殺戮の対象になっていることについての調査をポンペイオ国務長官へ指示した、という内容のツイートである。この農家というのは白人の農家のことである。

Tucker responds to backlash over South Africa report



1994年にアパルトヘイトが終了して以来黒人が政権を握っている。その時から現在まで、白人の立ち位置は弱まる一方である。弱まるどころか生存の権利さえ否定されようとしている。

2016年に南アフリカ政府(与党ANC)は白人の所有する土地を政府が決めた価格で接収し、それを黒人に分配するという法を可決した。アパルトヘイト終了後20年以上が経つにも関わらずいまだに3分の2の農場が白人に所有されていることに業を煮やした政府は、「政府は補償無しで土地を接収できる」ことを定めるべく憲法を改正しようという動きを進めている(参考)。

収奪を着々と法制化する一方、黒人政権や黒人の政治家は白人に対する黒人の敵愾心を扇動する。

「白人ののどを切っちゃえ!」



これを叫んでいるのはジュリアス・マレーマという政治家でEconomic Freedom Fightersという極左の有力政党党首である。それを聞く群衆が興奮で沸き立つ。この党は野党だが、与党のANCにしても言辞はやや抑えめだが基本的に思想は同じである。

この扇動に乗った暴徒が白人の農家を襲撃する。襲撃は既に起きている。

夜物音がする。見に行くと、自分の家族が恐ろしい姿で殺されている。そんなことがあちこちで起きている。白人であるから、という理由で狙われ、殺される。

その全容を正確に知るのは困難である。なぜならばこのような殺人を政府は「強盗事件」と分類するからである。それによって人種的動機による殺人をもとより異様に多い黒人間の殺人事件に埋もれさせることができるからである。

カナダのローレン・サザンというジャーナリストが南アフリカに2週間滞在してドキュメンタリーを撮影した。一人でも多くの人々の目にとまるようにと、インターネット上で無料公開されている。

FARMLANDS (2018) Official Documentary



「命が危ないなら、白人なんだからヨーロッパやアメリカやカナダにでも逃げればよいではないか」

彼らは既に代々その土地に住み、その土地と共に生きてきた人間達である。その土地には彼らの祖先の血と汗と涙がしみ込んでいる。代々受け継いできた家には思い出がつまっている。なんとかコーポ何号室からなんとかハイツ何号室に引っ越す、という話ではないのである。

また、一般的に「差別される側」と認識されている黒人には難民というステータスが与えられるが、「差別する側」と認識される白人に慈悲をかける国は少ない。

「昔はアパルトヘイトで酷いことやってたんだろ。罰が当たったんだよ」

人種隔離政策は素晴らしいものではない。我々の社会に導入したいと願うものではない。だが、事はそう単純ではない。

アパルトヘイトが導入されたのは1948年で、廃止されたのは1994年である。その間に人口はどのように推移したか。

 

 

人種

1965

1994

増加率

黒人

13,869

29,464

212%

カラード

1,782

3,447

193%

アジア人

548

1,008

184%

白人

3,408

4,349

128%

Population of South Africa by population group
http://www.nda.agric.za/docs/abstract04/Population.pdf

カラードというのは主に白人(オランダ系、英国系)や黒人(バンツー族)よりも前からいたコイ・サン族(ブッシュマン)である。肌の色はいわゆる黒人よりも明るい。

いわゆる「差別された」側の人口は著しく増加している。それとともに平均余命も年々上がっている(参照)。

人口が増え、平均余命が上がるということは、少なくとも白人による非白人の殺戮は行われていなかったということである。

国際社会で孤立しながらも南アフリカは発展を続け、アフリカの誇りと呼ばれるまでになった。70〜80年代には徐々にアパルトヘイト政策が緩和され、移動の自由が認められるようになった。一部の黒人の所得も次第に上がっていった。

素晴らしいものではなかったにせよ、アパルトヘイトはそれなりに社会の安定を維持するのに役立っていた。アパルトヘイト自体も時代とともに改革を経ていた。

しかしアパルトヘイト廃止後に治安は急激に悪化し、ケープタウンやヨハネスブルクは世界でも有数の危険な犯罪都市に変貌した。

ANCの黒人政権によって本当の人種差別政策が実行されるようになった。白人のアパルトヘイトを断罪していた人々は黒人政権による人種差別政策は見てみぬふりである。BBCもCNNもABCもニューヨークタイムズもワシントンポストもである。

共産党をルーツとする与党ANCは次々と社会主義的な政策を実行しているが、この土地の強制接収はその一つに過ぎない。経済環境は日々悪化している。

社会実験の結果はすぐには現出しない。数年〜数十年が経過してからようやく目に見える形となって出てくる。社会の変容が明らかになった時には、往々にして手遅れである。時計はもとに戻らないのである。


【参考】
A Brief History of South Africa, with Dave Steward



White Farmers Slaughtered in South Africa | Lauren Southern and Stefan Molyneux

 

フォン・ミーゼス「Human Action」読了

  • 2018.09.13 Thursday
  • 12:28


今日の自由主義経済学の始祖的存在であるオーストリア経済学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの金字塔的大作、「ヒューマン・アクション」英語版を読了した。今年の2月頃から読みはじめたから半年以上を費やしたことになる。

ミーゼスは本書において経済というものが数学や物理学のような定数を対象とする学問ではなく、人間という強さと弱さ、感情と情熱、心と思考を持つ動的な存在を対象とする人間行動学であると位置づけて解説する。

前半はこの人間行動学とは何かを延々と述べているのだが、これがミーゼスの母国語であるドイツ語を直訳したような英語でサッパリ意味不明であった。そこで挫折し、1カ月くらい放置していたのだが、やはりこの大作を読まずして経済を知ったつもりになることを恥じて気を取り直して読み進めた次第である。

途中から次第にいわゆる「経済の話し」になっていくわけだが、相変わらずサクサク読める気軽な文体的ではないためある程度の読みにくさはあるものの、そこらへんから徐々に面白味が出てくる。

現時点の理解度でこの大作を簡潔に要約するのは不可能であるため、特筆すべき部分をコメントしながら抜き出していきたい。

【政府の役割について】

ミーゼスはロン・ポールをはじめとする米国リバタリアンの教祖的な存在である。そして日本ではなぜか無政府主義の始祖と誤解されることが多いようである。しかし本書を読めば分かることであるが、ミーゼスは政府の転覆を主張するものではない。むしろ逆で、ミーゼスは政府の役割を明確に認めていることが分かる。ロナルド・レーガン大統領はミーゼスの著書に親しんでいたという。本書から受けた印象としては、リバタリアンというよりもむしろ保守本流に近いのではないか、というものである。

 

The maintenance of a government apparatus of courts, police officers, prisons, and of armed forces requires considerable expenditure. To levy taxes for these purposes is fully compatible with the freedom the individual enjoys in a free market economy. 

Every step a government takes beyond the fulfillment of its essential functions of protecting the smooth operation of the market economy against aggression, whether on the part of domestic or foreign disturbers, is a step forward on a road that directly leads into the totalitarian system where there is no freedom at all. 


司法、警察、刑務所及び軍隊を維持するには相応の原資が必要である。このための課税は自由な経済における個人の自由となんら矛盾するものではない。ただし、政府として必要不可欠な活動である内外の敵からの防衛という一線を越えた活動は、自由が完全に欠如した専制的システムへと直接つながるものである。


そしてミーゼスは、次において防衛に関しては左翼と同じである世の泡沫リバタリアンと完全に袂を分かつ。
 

But as conditions are in our age, a free nation is continually threatened by the aggressive schemes of totalitarian autocracies. If it wants to preserve its freedom, it must be prepared to defend its independence. If the government of a free country forces every citizen to cooperate fully in its designs to repel the aggressors and every able-bodied man to join the armed forces, it does not impose upon the individual a duty that would step beyond the tasks the praxeological law dictates. 

In a world full of unswerving aggressors and enslavers, integral unconditional pacifism is tantamount to unconditional surrender to the most ruthless oppressors. He who wants to remain free, must fight unto death those who are intent upon depriving him of his freedom. 

As isolated attempts on the part of each individual to resist are doomed to failure, the only workable way is to organize resistance by the government. The essential task of government is defense of the social system not only against domestic gangsters but also against external foes. 

He who in our age opposes armaments and conscription is, perhaps unbeknown to himself, an abettor of those aiming at the enslavement of all. 


今日、我々自由国家は専制国家による侵略に脅かされている。我々が自由を維持しようとするならば、独立を防衛する備えをせねばならない。政府が全国民に対して防衛への協力を要請する場合、それは人間行動学の法則に反するものではない。侵略者が跳梁跋扈するこの世界において、平和主義は無条件降伏と同義である。自由であろうとする者は、これら侵略者と死をもってしてでも戦う決意を持たねばならない。侵略者に対する個人の抵抗は不毛であり、政府による集団的自衛のみが有効である。必要不可欠な政府の役割は国内外の敵対勢力からの防衛である。今日、軍備増強と徴兵に反対する者は、我々を隷属させんとする勢力に加担する者に他ならない。

 


【経済学について】

ミーゼスは経済学とは何か、市場とは何かを説く。

 

 

Economics is not, as ignorant positivists repeat again and again, backward because it is not “quantitative.” It is not quantitative and does not measure because there are no constants. 

経済学というものは定量的ではないから後進的だと言う無知の徒がいるが、経済学が定量的ではないのは定数が無いからに他ならない。

Economics is not intent upon pronouncing value judgments. It aims at a cognition of the consequences of certain modes of acting. 

経済学は価値観を表明するためのものではない。それは一定の行動がもたらす結末を認識するためのものである。

The market is not a place, a thing, or a collective entity. The market is a process, actuated by the interplay of the actions of the various individuals cooperating under the division of labor. 

市場とはある場所、あるモノ、ある物体・団体をさすものではない。それは分業において様々な個人が人々と協力しながら交わり合うことによって形成されるプロセスなのである。


ミーゼスは市場経済における分業の重要性を説く。
 

The division of labor splits the various processes of production into minute tasks, many of which can be performed by mechanical devices. It is this fact that made the use of machinery possible and brought about the amazing improvements in technical methods of production. Mechanization is the fruit of the division of labor, its most beneficial achievement, not its motive and fountain spring.

分業によって生産工程は機械でも可能な単純作業に細かく分割される。これによって機械化が進むと同時に生産手段の驚くべき技術的発展をもたらした。機械化は分業の成果であって動機ではない。


社会主義者は市場経済はしばしば「弱肉強食の世界」と揶揄し、多くの人々がその俗説に囚われている。ミーゼスはその俗説をひっくり返す。
 

The regular scheme of arguing is this: A man arbitrarily calls anything he dislikes “capitalistic,” and then deduces from this appellation that the thing is bad. 

とにかくこの世で嫌なものを片っ端から全て集めてはそれを「資本主義のせいだッ」と言うのが定番である。

This faulty nomenclature becomes understandable only if we realize that the pseudo-economists and the politicians who apply it want to prevent people from knowing what the market economy really is. They want to make people believe that all the repulsive manifestations of restrictive government policies are produced by “capitalism.” 

彼ら(似非経済学者)が望むのは、政府政策による規制が生む全ての悪しき結果を人々が資本主義のせいであると信じ込むことである。

In the pitiless biological competition the stronger was always right, and the weaker was left no choice except unconditional surrender. Primitive man was certainly not born free. Only within the frame of a social system can a meaning be attached to the term freedom. 

非情な物理的な競争化において、物理的に強い者が常に正しく、物理的に弱い者が与えられた選択肢は無条件降伏のみである。原始人は決して自由ではなかった。社会の枠組みにおいてのみ、自由という概念が存在しうるのである。

One of the privileges which society affords to the individual is the privilege of living in spite of sickness or physical disability. Sick animals are doomed. Their weakness handicaps them in their attempts to find food and to repel aggression on the part of other animals. Deaf, nearsighted, or crippled savages must perish. But such defects do not deprive a man of the opportunity to adjust himself to life in society. 

動物の世界と違い、人間社会においては病気や物理的欠陥にも関わらず生きる権利を有することである。動物は病気になったら終わりである。病気になれば食糧を得たり他の動物からの攻撃に対抗するにあたりハンディを負う。目や耳や手足が不自由な野獣は死ぬしかない。しかし人間社会において、そのような欠陥を持つ人間は適応すればすむのである。

There is no kind of freedom and liberty other than the kind which the market economy brings about. In a totalitarian hegemonic society the only freedom that is left to the individual, because it cannot be denied to him, is the freedom to commit suicide.

市場経済が与える自由こそが唯一の自由である。専制的な階級社会において個人に残された唯一の自由は、自殺する自由だけである。

 


【利益について】

利益というものを白眼視するのは古今東西を問わず人類の病気である。ミーゼスはその病気に対しても直言する。

 

Profit and loss are the devices by means of which the consumers exercise their supremacy on the market. 

利益と損失は消費者が市場において最高位に君臨するための手段である。

The driving force of the market process is provided neither by the consumers nor by the owners of the means of production—land, capital goods, and labor—but by the promoting and speculating entrepreneurs. These are people intent upon profiting by taking advantage of differences in prices. Quicker of apprehension and farther-sighted than other men, they look around for sources of profit. They buy where and when they deem prices too low, and they sell where and when they deem prices too high. They approach the owners of the factors of production, and their competition sends the prices of these factors up to the limit corresponding to their anticipation of the future prices of the products. They approach the consumers, and their competition forces prices of consumers’ goods down to the point at which the whole supply can be sold. Profit-seeking speculation is the driving force of the market as it is the driving force of production. 

市場プロセスの推進者は消費者でもなければ生産手段の保有者でもなく、気概と山っ気のある起業家である。彼らは価格の違いを利用して利益を得んとする人々である。周囲の人間よりも機を見るに敏で先見の明がある彼らは利益の源泉を探し回る。彼らは価格が過度に安い時と場面で買い、過度に高い時と場面で売る。彼らは生産手段の保有者に競ってアプローチし、その競争によって生産手段の価格は最終製品の予想される将来の価格に従ってギリギリまで引き上げられる。一方彼らは消費者に競ってアプローチし、その競争によって商品がきれいに売りさばけるくらいまでに引き下げられる。利益を求める行為こそが生産を促すものであり、市場の原動力なのである。

The entrepreneur is the agency that prevents the persistence of a state of production unsuitable to fill the most urgent wants of the consumers in the cheapest way. 

起業家というのは、消費者の抱える最も火急な必要性を最も安く解決することが妨げられるような状況が長引くのを防止する者達である。※簡単に言い直すと、人々が一番困っていることを一番お安く解決するのが起業家だ、ということである。

The mentality of the promoters, speculators, and entrepreneurs is not different from that of their fellow men. They are merely superior to the masses in mental power and energy. They are the leaders on the way toward material progress. They are the first to understand that there is a discrepancy between what is done and what could be done. 

商売人、山師、起業家と呼ばれる人々は精神性が一般人と違うわけではない。彼らは一般大衆よりも精神力と活力に優れているだけである。彼らは物質的発展におけるリーダーである。成された事と成しうる事との間にある乖離を最初に見出すのが彼らなのである。

The competition among the entrepreneurs is ultimately a competition among the various possibilities open to men to remove their uneasiness as far as possible by the acquisition of consumers’ goods.

起業家同士の競争とは、つまるところ、消費財が不便さを除去することが可能な複数の選択肢同士の競争である。

 


【労働について】

マルクスは社会を労働者階級と資本家階級とに分断して描いた。それは事実と反する。だからプロパガンダなのであり、そのプロパガンダを体現したソビエト連邦帝国は崩壊したのである。だがその基本思想は結局のところ人類の持病であり、姿を変えて人々の心に巣食っている。ミーゼスは労働を特別視する人々の誤解を直撃する。手を動かして働く人間だけが富を創出するのではないのだ、と。

 

Yet bare labor produces very little if not aided by the employment of the outcome of previous saving and accumulation of capital. The products are the outgrowth of a cooperation of labor with tools and other capital goods directed by provident entrepreneurial design. The savers, whose saving accumulated and maintains the capital, and the entrepreneurs, who channel the capital into those employments in which it best serves the consumers, are no less indispensable for the process of production than the toilers. It is nonsensical to impute the whole product to the purveyors of labor and to pass over in silence the contribution of the purveyors of capital and of entrepreneurial ideas. 

実際のところ、貯蓄と財の蓄積の結果を活用することによる恩恵無しに肉体労働が生産できるものはほとんど無い。製品というものは、先見の明に裏打ちされた起業家の計画によって手配される道具や財が人々の労働と協働することによって実現化される。財を蓄積し維持する貯蓄者、そしてその財を消費者へ最大のサービスを提供するために活用する起業家の、生産活動における不可欠性は、いわゆる労働者と比べていささかも劣るものではない。いわゆる労働者だけが製品を製造するものであるとし、財や事業構想による貢献を無視するのは無意味である。

The selective function of the market works also with regard to labor. The worker is attracted by that kind of work in which he can expect to earn most. As is the case with material factors of production, the factor labor too is allocated to those employments in which it best serves the consumers. There prevails the tendency not to waste any quantity of labor for the satisfaction of less urgent demand if more urgent demand is still unsatisfied. 

市場の選定機能は労働に関してもその役割を果たす。労働者個人は、最も稼げそうな仕事に惹かれる。労働という要素も、生産の物的要素がそうであるのと同様に消費者へ最大のサービスを提供するという目的に沿って分配される。この機能によって、消費者が抱える最大の問題を優先的に対処されることに労働(という有限の資源)が使われ、些細な問題に浪費されないよう促されるのである。
 


【価格について】
価格を理解するものは経済を理解する。

 

The ultimate source of the determination of prices is the value judgments of the consumers. Prices are the outcome of the valuation preferring a to b.

価格の最終決定要因は消費者の価値判断である。価格はAかBのどちらが望ましいかの判断の結果である。

Each individual, in buying or not buying and in selling or not selling, contributes his share to the formation of the market prices. But the larger the market is, the smaller is the weight of each individual’s contribution. Thus the structure of market prices appears to the individual as a datum to which he must adjust his own conduct. 

買うか買わないかによって、また売るか売らないかによって、個人は市場価格の決定に個人としての貢献をする。しかし市場が大きければ大きいほど、個人の持つウェイトは小さくなる。よって市場価格の構造は個人にとっては自身の行動を調整しなければならない基準のように見えるのである。

A government can no more determine prices than a goose can lay hen’s eggs. 

ガチョウが鶏の卵を産むことができないように政府は価格を決定することができない。

However, precisely because we want to examine these problems it is necessary clearly to distinguish between prices and government decrees. Prices are by definition determined by peoples’ buying and selling or abstention from buying and selling. They must not be confused with fiats issued by governments or other agencies enforcing their orders by an apparatus of coercion and compulsion.[ 191] 

しかし、我々はこの問題を正確に検証したいと望むがゆえに、価格と政府の法令との違いを明確に区分する必要がある。価格とは、人々の売買、あるいは売買の欠如によって決定されるものと定義される。政府や他の集団が人々に強制、強要するために公布する命令と混同されてはならない。

 


【教育について】
教育というサービスを特別視するがために、その役割が政府に飲み込まれて制度化され、我々はその制度の囚人と化している。今日の高等教育無償化の議論などまさにこれである。

 

It is often asserted that the poor man’s failure in the competition of the market is caused by his lack of education. Equality of opportunity, it is said, could be provided only by making education at every level accessible to all. There prevails today the tendency to reduce all differences among various peoples to their education and to deny the existence of inborn inequalities in intellect, will power, and character. It is not generally realized that education can never be more than indoctrination with theories and ideas already developed. Education, whatever benefits it may confer, is transmission of traditional doctrines and valuations; it is by necessity conservative. It produces imitation and routine, not improvement and progress. Innovators and creative geniuses cannot be reared in schools. They are precisely the men who defy what the school has taught them. 

しばしば、貧しき者が競争で負けるのは教育が足りないからであると主張する者がいる。あらゆる階層の教育を万人に提供することによって機会の平等が実現する、と彼らは言う。今日、人々の間の教育に関する違いを減らし、生まれながらの知力、気力、性格の違いといったものを否定しようとする傾向が優勢である。教育は、すでに確立された思想や想念による洗脳になりうる、ということは一般的に認識されていない。教育というものは、それがどのような利益があるにせよ、伝統的な思想と価値観を伝えるものであり、それは必然的に保守的なものである。それは改善と発展ではなく模倣と繰り返しを生産する。革新する者や創造的な天才を学校で育てることはできない。彼らはまさに学校で教わったことに逆らう者達である。
 


【政府が支出することについて】

日本では、人々がお金を使えるように再分配しましょうという考えがほぼ全ての政治的議論の前提となっている。誰が、誰に、どうやって、どのくらい分配するか、の議論が延々と続いている。それがいかにバカげたことか、この例をもって木っ端みじんである。

 

This paralogism can easily be exploded by referring to the well-known anecdote of the man who asks an innkeeper for a gift of ten dollars; it will not cost him anything because the beggar promises to spend the whole amount in his inn. 

ある男が旅館の主に対してこう言ったらどうであろうか。「私に10ドル下さい。貴方は何も失うものはありません。私は貴方の旅館でこの10ドルを全部使うと約束しますから」
 


【インフレ政策について】
歴史のある政府の経済政策の代表がインフレ政策である。歴史上、各国でそれが行われ、人々は様々な辛酸をなめ、時が経ち、忘れ、また繰り返す。今日の日本でもそれが現在進行中である。人はそれをアベノミクスと呼ぶ。インフレ政策は安倍さんの発明品ではないのだが、人はそう呼ぶ。歴史を忘れた証拠である。

 

Yet, men are not infallible. A certain amount of malinvestment is unavoidable. What has to be done is to shun policies that like credit expansion artificially foster malinvestment. 

人というものは完全無欠ではない。一定の誤投資は不可避である。避けねばならないのは、量的緩和のような誤投資を人為的に促進する政策である。

It was not realized that changes in the quantity of money can never affect the prices of all goods and services at the same time and to the same extent. 

貨幣量の変化は全ての商品、サービスの価格に同時に同じ程度影響を与えるわけではない、ということは一般的に理解されていない。

In the course of a monetary expansion (inflation) the first reaction is not only that the prices of some of them rise more quickly and more steeply than others. It may also occur that some fall at first as they are for the most part demanded by those groups whose interests are hurt. 

金融拡大(インフレ)の進行において、あるものが他のものよりも急激に、そして大幅に値上がりするだけでなく、値上がりがある集団の利益を失するような場合、その集団に需要のあるものがまずは値下がりする場合もある。

If an inflationary movement and a deflationary one occur at the same time or if an inflation is temporally followed by a deflation in such a way that prices finally are not very much changed, the social consequences of each of the two movements do not cancel each other. To the social consequences of an inflation those of a deflation are added. There is no reason to assume that all or even most of those favored by one movement will be hurt by the second one, or vice versa.

インフレとデフレが同時に起きた場合、あるいはインフレに続いてデフレが生じ、価格がそれほど変わらない場合、インフレとデフレのそれぞれによる社会的悪影響は相殺されるものではない。インフレによる悪影響にデフレの悪影響が加わるのである。一方によって得をする人々が他方によって損をするとは限らないのである。

Money is an element of change not because it “circulates,” but because it is kept in cash holdings. Only because people expect changes about the kind and extent of which they have no certain knowledge whatsoever, do they keep money.

貨幣は変化の要素であるが、それは「世を回る」からではなく、ため込まれるからである。人々が将来の動向に対して見通しが立てられない時、不透明さの分だけ人々は金をため込む。

First: Inflationary or expansionist policy must result in overconsumption on the one hand and in malinvestment on the other. It thus squanders capital and impairs the future state of want-satisfaction.

Second: The inflationary process does not remove the necessity of adjusting production and reallocating resources. It merely postpones it and thereby makes it more troublesome. 

Third: Inflation cannot be employed as a permanent policy because it must, when continued, finally result in a breakdown of the monetary system. 


インフレの害悪:
第一:インフレもしくは金融緩和政策は過度な消費と誤投資につながる。それによって財が浪費され、将来の需要満足を阻害する。

第二:インフレの進行によって生産と資源配分の必要性が除去されるわけではない。その必要性はただ単に先送りされるだけであり、状況は悪化するのみである。

第三:インフレは持続可能な政策ではない。なぜならばいつかは金融システムの崩壊につながるからである。


A retailer or innkeeper can easily fall prey to the illusion that all that is needed to make him and his colleagues more prosperous is more spending on the part of the public. In his eyes the main thing is to impel people to spend more. But it is amazing that this belief could be presented to the world as a new social philosophy. Lord Keynes and his disciples make the lack of the propensity to consume responsible for what they deem unsatisfactory in economic conditions. What is needed, in their eyes, to make men more prosperous is not an increase in production, but an increase in spending. 

特に小売業者や旅行業者などは彼らが豊かになるには公的支出を増やせばよいという幻想に陥りやすい。彼らの目には、必要なのは人々がもっと金を使うことだ、と見える。しかしこの信仰が斬新な社会哲学として全世界に広められている事実は驚くべきことである。ケインズと信徒達は経済における悪しき状況の原因は人々の消費に対する積極性の欠如であるとする。人々を豊かにするために必要なのは生産を増やすことではなく、消費を増やすことだ、と彼らは言う。

But even at the time liberalism enjoyed its highest prestige and governments were more eager to preserve peace and well-being than to foment war, death, destruction, and misery, people were biased in dealing with the problems of banking. Outside of the Anglo-Saxon countries public opinion was convinced that it is one of the main tasks of good government to lower the rate of interest and that credit expansion is the appropriate means for the attainment of this end.

自由主義が絶好調で、各国政府が戦争と死と破壊と惨めさを推進するかわりに平和と幸福の維持に努めていたかつての時代にあっても、人々はやはり金融に対する偏見に囚われていた。アングロサクソン以外の国々にあっては、金利を下げることは政府の重要な役割であり、金融拡大はその目的を達成するための適切な手段である、と大多数の人々は信じていた。
 


【特許、著作権について】
一部のリバタリアンは特許や著作権など無くしてしまえ、というだが、ミーゼスは少なくとも本書においてそのようなことは述べていない。一方、人々は独占・寡占というものを「行き過ぎた資本主義の悪」と勘違いする傾向がある。ミーゼスはその誤謬を正す。

 

The publisher of a copyright book is a monopolist. But he may not be able to sell a single copy, no matter how low the price he asks. Not every price at which a monopolist sells a monopolized commodity is a monopoly price.

著作権を有する本の出版者は寡占者である。だが、その出版者はその本の価格をどれほど安くしても一冊も売れない可能性があるのである。寡占者が寡占商品を売る価格は必ずしも寡占価格ではないのである。

As a rule the state of affairs that makes the emergence of monopoly prices possible is brought about by government policies, e.g., customs barriers.

寡占価格が出現する原因は他でもなく輸入規制のような政府の政策によるものである。

The important place that cartels occupy in our time is an outcome of the interventionist policies adopted by the governments of all countries. The monopoly problem mankind has to face today is not an outgrowth of the operation of the market economy. It is a product of purposive action on the part of governments. It is not one of the evils inherent in capitalism as the demagogues trumpet. It is, on the contrary, the fruit of policies hostile to capitalism and intent upon sabotaging and destroying its operation. 

今日の我々の社会において生じる寡占は各国政府の介入政策によるものである。我々が直面する独占は市場経済の運営による結果ではない。それは政府による意図的な行動の結果である。デマゴーグが吹聴する「資本主義の悪」でも何でもない。事実は完全に逆であり、それは資本主義に対する敵対的な政策と、その運営を阻害し破壊せんとする意思による成果である。
 


【政府介入、規制について】

長いこと国会ですったもんだした森本問題や加計問題など、そもそも政府の介入がなければ存在しえない現象である。国会で騒ぐ政治家連中のなかでその問題の根本を指摘する者はいない。
 

In an unhampered market economy the capitalists and entrepreneurs cannot expect an advantage from bribing officeholders and politicians. On the other hand, the officeholders and politicians are not in a position to blackmail businessmen and to extort graft from them.

自由な経済において、資本家や起業家は官僚や政治家に賄賂を渡すことでの利益は期待できない。同時に官僚も政治家も、ビジネスマンを脅すことも彼らにたかることもできない。

In many countries interventionism has so undermined the supremacy of the market that it is more advantageous for a businessman to rely upon the aid of those in political office than upon the best satisfaction of the needs of the consumers. 

多くの国々において、介入主義があまりにも浸透して市場の地位を貶めているがために、ビジネスマンにとっては消費者を最大限満足させることよりも政府の庇護を得ることのほうが利益になるに至ったのである。

 

やっとのことで最終頁まで辿り着いた。この歴史に残る大作をまたいつか読み直したい。

 

我が国は1949年にミーゼスが本書において歴史上の例を挙げつつ避けるべきこととして警告したことを「忠実に」実行してきた。アベノミクスはそれを加速している。ハイパーインフレーションをはじめとする猛烈なしっぺ返しがくるのか。来ないだろう、と希望的観測を持つ理由を探すほうが難しい。その事を実感し、将来への不安を強めた数ヵ月であった。

 

プロパガンダで始まるストロー宗教戦争

  • 2018.07.29 Sunday
  • 12:08

ここ数週間、毎日のように欧州や米国のリベラルな州におけるプラスチックストロー廃止に関するニュースが続いている。海外の左翼メディアの情報を翻訳して垂れ流すしか能のない日本のメディアはプラスチックストロー廃止の動きを日本でも受け入れるべき世界的な流れとして紹介している。

「意識の高い」リベラルな国や地域では既にプラスチック製ストローが禁止され、罰則も適用されている。全米で最もリベラルな州のひとつであるカリフォルニアのサンタ・バーバラではレストランが顧客にプラスチック製ストローを提供した場合1000ドルの罰金か6カ月の拘留という罰則を設けた。サンフランシスコでもストローが禁止され、違反者は100〜500ドルの罰金が科せられる。

健常者はストローが無くてもなんとか飲料が飲めるが、身体障害者にとってはたまったものではない。




また、コーヒーなどはストローが無くても飲めないことはないが、タピオカドリンクなどは無理である。スプーンですくって飲め、では面倒くさくて仕方がない。

プラスチック製でなくても他の素材がある・・・。紙や竹といった素材のストローのコストはプラスチック製の2〜3倍から5倍である。しかもコストは高くて品質(性能・耐久性)が低い。個人から見れば僅かな違いであろうが、それを仕事にしている事業者からすればとんでもないことである。

プラスチック製ストロー廃止を主導しているのは共産主義から衣替えした左翼・環境活動家達である。彼らは言う。ストロー廃止は環境との共生への一歩であると。

彼ら左翼は米国においては不法移民の容認・受入や薬物の使用や所持に対する罰則緩和といったリベラル政策を推進している。その結果、かつて米国で最も美しい街といわれたサンフランシスコはいまやホームレスと麻薬中毒者とゴミと人糞の街と化している。






サンフランシスコを廃棄場にした彼ら左翼と世界中の同類達が「地球を救うためにプラスチック製ストローを廃止」を叫んでいるのであるから笑止千万である。

プラスチックは20世紀初頭にこの世に登場し、その後の絶え間ない技術革新により人々の生活を革命的に改善した。重いものが軽くなり、割れやすいものが割れなくなり、曲がらないものが曲がりやすくなり、熱い/冷たいものが適温になり、分厚いものが薄くなり、高価なものが安価になった。

左翼が最も許せないのは一般大衆が豊かになることである。そのくせ彼ら自身は豊かさの恩恵を享受しながら高説を垂れる。「重要なのは”私一人”が豊かさを捨てることではなく、社会全体が”少しずつ”商業主義から脱却していくことだ」と。彼らはこう言いつつゲート付きの安全な住宅に住み、ジェット機で世界中を飛び回り、高額な講演料をせしめる。偽善者である。

先進諸国においてプラスチックストローを廃止したところで地球の環境は微塵たりとも改善されることはない。海洋に流れ込む全プラスチック廃棄物のうち、プラスチック製ストローが占める割合は0.02%に過ぎない(National Review 記事)。

海洋汚染を起こしているプラスチック廃棄物はほぼすべてが後進国の河川からくるものである。後進国では人々が現代文明の豊かさを享受する一方、市場経済が未発達で私有財産の概念が薄い。よって自分の生活空間以外はゴミ箱である。河川などはゴミ捨て場そのものである。先進国が自主的にストローを法規制したところでこれら後進国のゴミ捨て場からゴミが消えるわけではない。山のようなゴミはそのままである。

当然サンフランシスコの街に散乱するプラスチックのゴミや路上にこびりつく人糞もそのままである。

このプラスチック騒ぎの発端の一つはこの映像である。テキサスA&M大学の海洋生物学調査チームが中米コスタリカ近海で鼻に何かが詰まって苦しそうに呼吸するヒメウミガメをみつけ、ペンチで引っこ抜いてみたらなんとそれはプラスチック製ストローだった、という話である。



この映像が全世界の「意識高い」人々の心を揺さぶり、それほど「意識高くない」人々をも「目覚めさせ」ているわけであるが、よく考えれば極めて怪しいシロモノである。

なぜコスタリカなのか。プラスチック製ストローが海洋環境に壊滅的な打撃を与えているのであれば、ストローを鼻に突っ込んだ哀れなカメさんを探しに行くのにコスタリカまで行かねばならんのは何故なのか、ということである。コスタリカまで行かずとも、カメならテキサスにも沢山いる。彼らテキサスガメはストローとどのように対峙しているのか。

世界にウミガメが何匹いるのか推測は極めて難しいが、全米では68,000〜90,000と言われている。しかも、このテキサスA&M大学の地元のテキサス(メキシコ湾)ではその数が近年増加しているという研究もある。増加するテキサスのウミガメのうちストローを鼻に突っ込んだカメが一体何匹いるのか。ゴミを捨てまくる後進国の海を漁るよりもそちらを調べるのが先ではないのか。

映像の4分くらいのところで、やっとのことでペンチで途中まで引き出した異物をわざわざ根本から切断している。そしてそこで研究員らしき人物が言う。「Don't fucking tell me it's a freaking straw(まさかストローじゃねぇよな)」と。そして「だからいつも言っているように、プラスチックのストローなんて要らないんだ」と続ける。

事の経緯は知る由もないが、この映像は最初から最期まで上のセリフを言いたいがために企画され、撮影されたものであると断じざるを得ない。プロパガンダ映像である。

世の名だたる企業が次々とプロパガンダに屈して「プラスチック製ストロー廃止」を決定するなか、プラスチック製ストローへの風当たりはきびしくなっている。ストロー製造は見た目からも想像できるくらい単純なものである。小規模な会社で工員がせっせと作業している。世論を扇動する環境活動家の前に無力な存在である。

彼らの犠牲など、反プラスチック教という新興宗教を布教し、反プラスチックの宗教戦争を戦う環境活動家からみれば取るに足らないものである。

悪しき宗教に染まる社会とオウム真理教

  • 2018.07.15 Sunday
  • 17:20


ビート・タケシというと「歯にもの着せずズバリ本質」のようなイメージがある。タケシはかつて麻原彰晃とテレビで対談したことがある。

タケシが麻原に聞く。

小さいころから悩んでいるんですけどね・・・モゴモゴ・・・人間て、こう・・・自分が動くために・・・でも形あるものを食って糞にしなきゃならないとか・・・繰り返しているなあと・・・ 原子とか分子レベルでは形は変わっていないとかあるんでしょうけど・・・どういうことなんだろうかと・・・モゴモゴ

麻原が答える。

このような問いを発するというのは普通の人ではないですね。まさに神の域に達していますね・・・ 明らかに前世では神のような存在を経験されているはずです。やはりタケシさんは芸能界のカリスマであり、指導者であられる。

この愚にもつかない質問と応答において喜びを隠しきれないタケシの恍惚とした表情を見るとよい。一見宗教的でない人間がオカルト宗教にコロリと騙される瞬間である。



人間は宗教と不可分である。宗教に興味があるとか、無いとか、そういう問題ではない。神を意識するとか、しないとか、そういう問題でもない。

日本でいえば、宗教に興味無し、という人は多い。大概の場合、そういう人々が信仰しているのは宗教の名を冠しない何かである。その何かとは、政府による金融政策や規制であったり、地球温暖化や反原発や太陽光発電といった似非科学であったりする。これらは宗教の名を冠しないだけで根拠のない信仰であるからには宗教である。

地下鉄サリン事件を起こしたテロリストを称揚した日本のテレビ番組の水準と現在の日本のテレビ番組の水準は同じである。オカルト怪奇現象番組も芸能人の運動会もクイズ番組も相変わらずである。多くの家庭ではテレビが神殿と化し、聖堂と化し、神棚と化している。芸能人が司教と化している。

オウム真理教がテロを起こしたのはなぜなのか、真相を解明してからでなければ死刑執行をしてはまずい、という笑止千万な人間がいる。逮捕された後の麻原は意味不明な言葉を口走ったりしていて精神状態が正常ではなく、治療を行い回復した後でなぜあのような事件を起こしたのかを聞き取りして原因解明することが再発防止につながるだろう、と佐藤優という自称インテリは言う。




原因解明もヘッタクレもない。この世には悪しき宗教と良き宗教がある。悪しき宗教に染まった人間は悪しきことをやる。悪しき人間は麻原こと松本のように徹底的に人を欺く。このような悪人は死刑に処すのが正義というものである。

良き宗教を持たない人間は悪しき宗教に簡単に染まる。悪しき宗教に染まらないための唯一の方法は良き宗教を信仰することである。

西日本災害 植林と太陽光政策への祟り

  • 2018.07.15 Sunday
  • 15:12

原発を止めて太陽光発電を推進する政府(民主・自民)の政策により、太陽光パネルが全国各地の山林に敷設された。その様子はまるで癌細胞が広がるかのようであり、不気味な様相を呈していた。

何か悪いことが起こるのではないか、という不穏な予感をさせるものであった。

その予感は200名を超える犠牲者を出した西日本災害という形で現実となった。

豪雨は天災である。だが土砂災害は人災である。

戦後の政府の植林政策によって山林はスギだらけとなり、林業が立ちゆかなくなるとそのまま花粉を放出するままに放置された。スギは成育が速い反面根が浅いため保水力がなく地盤を固める力も弱い。だから土砂崩れが起こるのは決まってスギ林である。

2011年の東北大震災に端を発した反原発運動により太陽光発電が政府主導で促進された。太陽光パネルというものは、地震がくればぐらつき、風が吹けば吹っ飛び、大雨が降れば崩れる。水没した状態でも有害化学物質を放出させながら発電し続け、人々を危険に晒す。火災時も厄介である。

アスクルの倉庫火災において来る日も来る日も火が燃え続けた原因は屋根に設置された太陽光パネルにあることが知られている(処理に入る消防隊員を感電の危険に晒す恐れとパネルの化学物質による水質汚染を起こす恐れのため水をかけられない)。

その脆さと発電効率の悪さと危険さはここに至るまでに全国各地で実証されている。

太陽光パネルを敷設するために木々を伐採した後の山は禿山と同然である。過去実際にパネルを敷設した部分が土砂崩れを起こしている。仙台の例であるが、ものの見事にパネル部分だけが崩れている。



今回の豪雨でも山肌に取り付けられた太陽光パネルが山陽新幹線の線路に崩れ落ちるという事故があった。高速で走る新幹線を直撃しなかっただけ不幸中の幸いである。



政府の短絡的な思考によって植林し、原発を止め、木々を伐採して太陽光パネルを敷きつめるという愚かな行為が神の怒りを買い、災害につながったのである。この責任は、民主党、そして民主党から政権を奪ったにも関わらず政策を転換しなかった自民党にある。

石油資源も原子力も神が人間に与えたものである。神が与えたものに背を向けて偶像を崇拝すれば祟りがある。その祟りが西日本災害である。

道徳の授業風景に見る我が国の惨状

  • 2018.07.01 Sunday
  • 13:59

大切なものを公(政府)に任せることのリスクを知ることは重要である。公(政府)というものは、間違いを認めない。どこかおかしい、と多くの人が感じても突っ走る。無尽蔵の財源を持ち、間違いが組織の存亡に関わるということがないため、自動修正というものが効かない。

教育、特に道徳教育はその最たるものである。

ここに、ある道徳教育の現場の様子が紹介されている。

「道徳の教科化は、これまで一貫して価値観の押し付けにつながるのではないかと、見送られてきたが、国はいじめ問題などを理由に教科化を進めた」のだという。

前提が間違っているとその後に続く思考も間違いである。そこで使われている教材もひどいものである。この記事ではある事例として二つの愚にもつかない話が紹介されている。

 
“ある朝、たかしがお母さんに1枚の紙切れを渡しました。それは、せいきゅう書でした。たかしは、「お使い代」「お掃除代」「お留守番代」として、500円を請求したのです。お昼どき、お母さんは500円と一緒に小さな紙切れを渡しました。お母さんからの請求書でした。「病気をしたときの看病代」「洋服や靴」そして「おもちゃ代」など、いずれも0円。それを目にした、たかしの目には涙があふれました…。”

これを読んでウルっとする人間は相当イカレていると自覚した方がよい。

家庭の一員として、家庭内の仕事を分担するのは子供の義務である。家事をする代わりに小遣いを与えるかどうかは親の教育的判断である。家族のために無償で何かを行うことも重要であるし、お金というものが必ず価値ある労働に対して与えられるものであるということを学ぶのも重要である。どちらをどのくらいに配分にするかは親が決めればよい。そして子供はそれに従えばよい。

親が決め、子が従う。その関係が重要なのである。子供が親に対して請求書を渡すということは、関係が対等であるという前提がある。対等であるからこそサービスに対する対価という概念が発生するわけである。子供が巣立って大人になればそのような場面も生じる可能性はあるが、子供が親の庇護下にあるうちはありえないことである。

このような思いあがった行為自体が言語道断なのであり、厳罰ものである。それを「あり得る事」のように紹介し、教材にするなどというのは狂気としかいいようがない。

また別の例ではこのような場面が紹介されている。

 
“星野君は少年野球の選手。チャンスで打席が回ってきたとき、監督に呼ばれました。監督は、確実に1点を取るため送りバントを指示。しかし、星野君は得意なコースにボールがきたため、監督の指示を守らず打ちました。結果は二るい打、勝利に貢献しました。ところが、試合の後、星野君は監督の指示に従うというチームの約束事を守らなかったとして、とがめられたのです。”

これを道徳の教材にしようと考えること自体、道徳の何たるかを理解していない証拠である。野球をはじめとするスポーツにはルールがある。そのルールを守ることが競技の前提である。そのルールを守って全力を出し、勝利せんとするから競技が成り立つのである。

「監督のいうことに従う」などというルールはどこにもない。監督の仕事は指導者としての役割を果たすことである。重要なのは監督が選手の信頼を勝ち得ているか否かである。監督がある指令を出し、選手が無心に、あるいは「そうだな」と思って従えば、それは監督が選手の信頼を勝ち得ているということである。逆に選手が監督の指示に対して「アホか。俺は俺のやり方でやる」と思えば、それは監督の力量がその程度だということである。

勝ちたい気持ちは分かる・・・
でも監督に従うことも大事・・・
自分を試したいという気持ちも分かる・・・
でも集団で動くことも大事・・・

などと悶々と悩みたいなら勝手に悩めばよい。だがそれは道徳とは完全に無関係な次元の話である。

道徳とは何か。端的に言えば、それはモーセの十戒に集約される。

その一:神は一つである。善悪の基準は一つである、と解釈してもよい。

その二:偶像を崇拝してはならない。勝手に都合よく善悪の基準を創造してはならない、と解釈してもよい。

その三:神の名を無為に使ってはならない。自分で勝手にデッチあげた”善の概念”を悪用してはならない、と解釈してもよい。

その四:安息日を守らなければならない。一週間に一度は立ち止まって静かに自分の行為を見直す時間を持たねばならない、と解釈してもよい。

その五:父と母を敬え。解釈は不要であろう。

その六:殺人をしてはならない。※戦争を禁じるものでないことは聖書を読み解けば明らかである。

その七:姦淫をしてはならない。解釈は不要であろう。

その八:盗んではならない。解釈は不要であろう。※実際この国では管制の盗みが壮大に横行しているが。

その九:隣人について偽証してはならない。解釈は不要であろう。

その十:隣人の財産を欲してはならない。解釈は不要であろう。※実際この国では人の財産をなんとも思わぬような社会主義思想が流布されているが。

これらの規範を、

日々の生活において実践すること

日々の生活においてどのように実践すべきかを考えること

日々の生活において実践しているかを反省すること

日々の生活において実践することの難しさを実感しつつ、日々向上せんと模索すること

これこそが、まさに道徳というものである。

道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者の、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者による、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者のための道徳教育。

それが我が国の公教育における道徳教育の現実である。


追記:
人類はモーセの十戒以上の道徳規範を未だかつて持ったことがない。モーセの十戒は神からの授かりものである。このモーセの十戒を神から受け取り、人類に授けたのがユダヤ民族である。故にユダヤ民族は選ばれし民なのである。

政府が介入して民泊はお陀仏

  • 2018.06.17 Sunday
  • 14:05
 

家主の不在は1時間まで 民泊、ビックリ規制で激減 6/10(日) 10:12配信 NIKKEI STYLE 住宅に旅行者などを有料で泊める民泊が6月15日に解禁されるが、事業者の登録届け出が低調だ。1カ月前の時点でも全国で約720件にとどまり、ゼロという地域さえある。数万件以上が営業していた従来とは様変わりだ。解禁を機に民泊をやめるという人たちに理由を聞いたところ、厳しい規制と煩雑な手続きが浮き彫りになった。きちんとルールを守ろうとする「真面目な人」ほど継続をあきらめる矛盾も垣間見える。


カーシェアも同様であるが、活用されていないものを有効活用する、というのは有意義な経済活動である。使われていない自分の家や部屋を民泊で人に貸して利益を得る。新たな設備投資も建設も不要。借りる側もネットで手軽に手続きができ、ホテルとは違う生活感を味わうことができるということで人気が上昇してきた。世の中の不足や過剰(旅行者の増加、ホテルの逼迫、空き家・空室の増加)はそういった人々の自発的な行動によって解消されていくものである。

貸し手と借り手が相互に自発的に取引し、どちらも満足感を得られればそのサービスは自然と拡大し、どちらかが不満を持てばそのサービスは自然と消滅する。

しかし政府が目をつけて介入した結果、その流れが断ち切られようとしている。

新しい法律では家主が2時間以上外出する場合には「家主不在型」と分類され、苦情対応などの管理業務の外部委託、ほかの部屋と無線で連動する火災報知設備や避難経路を示すための非常用照明器具の設置、建物が安全性についての建築士による証明といった義務が課される。

しばらく不在にするからその間人に貸そう、というような気軽な運営は不可で、そうするならば煩雑な手続きや出費を覚悟せねばならない。さもなければ観光客が朝から晩まで外で観光をしている間、家主はずっと家に居座らなければ違法になる、というわけである。

同法律では営業日数が年間180日までと決められている。口コミで人気が高まり、年間を通じて訪問者で賑わっていたようなところは民泊としては続けることができず、宿泊業を続けたいならば昭和23年に施行された旅館業法に則って運営しなければならない。さもなければ廃業である。

また、同法律では民泊業者は民泊をしていることが周辺住民に分かるように公衆の見やすい場所に標識を掲げなければならない。



自分の名前、住所、電話番号といった個人情報を公衆に晒せ、というわけである。日本全国、集合住宅地だらけで周辺にどこの誰が住んでいるのかも分からないこのご時世に、このような情報を公にするリスクは大きい。

結果として冒頭の記事にあるとおり政府による民泊「解禁」を前にして申請数は鳴かず飛ばずの状態である。これまで盛り上がりを見せてきた民泊市場に完全に冷水を浴びせた状態である。

政府が手を触れるとすべてはダメになる。これはもはや物理の原則になったといっても過言ではない。

「人材不足」なる蜃気楼・・・国破れて政府あり

  • 2018.06.17 Sunday
  • 12:51

政府も企業もメディアも一般大衆も、一億総出で蜃気楼を追いかけるという現象はよく見られるものである。

「人材不足」なる現象もその一つである。

人材不足を補うために高齢者にもっと働いてもらおう!シルバー人材活用だ!
人材不足を補うために女性にもっと働いてもらおう!「女性が輝く社会」だ!
人材不足を補うために外国人に働いてもらおう!移民受入だ!
人材不足を補うためにロボットに働いてもらおう!AI社会の到来だ!

ここまでメディアで騒がれると、一般大衆はもう思考停止である。人材不足は社会問題として人々の思考に定着する。

価格が需要と供給の調整機能を果たす自由な経済において、不足や過剰は局地的に発生するものの、即座に解消される。

需要曲線と供給曲線を見て考えれば簡単である。



ゞゝ襪減ると、一時的に不足が生じ・・・
価格が上がる。価格が上がると
需要量が減る。需要量が減れば
不足は解消する

経済の面白いところは、ここで話が終わらないということである。経済は常に動的であり、新しいアイデアを持つ人々によって息吹を与えられる。不足によって価格が上がれば、その商品やサービスを利用していた人々は何らかの影響を受ける。何らかの軋轢が生じる。何らかの不都合や不愉快が生じる。起業家精神に富む人々はそこを見逃さない。潜在的に見込まれる需要を目当てに創意工夫がなされ、やがては当初の不足を解消しつつも更に良い商品やサービスが市場に投入される。

一方、不足が解消されないということは、△鉢の動きが阻害されていると見るのが妥当である。次に考えるべきは、この動きを阻害するのは誰か、阻害出来うるのは誰か、ということである。

この動きを阻害できる存在は唯一つ、政府である。

「人材不足」という現象は、実際には人材が足りないのではなく、需要と供給のミスアロケーションである。政府政策によって人為的に作られた過剰と不足が経済のあちこちで発生し、それが人材不足という形で現出しているに過ぎないのである。

例えばオリンピック。これに向けて政府は税金を投入して競技会場や各種設備づくりを進める。「国の威信」がかかっているから迫りくる期限に向けて遮二無二強行する。建設関係をはじめとして関連する幅広い業界に対して人為的な需要が作りだされている。

例えば保育。政府が保育料を設定する一方、待機児童対策と称して税金を投じて保育施設づくりに励み、無償化と称して税金で経費を補てんしている。結果として限られた供給に対して需要(子供を預けようとする人の数)を人為的に増加させている。

例えば介護保険制度。少子高齢化で益々高齢者が増える最中、政府が「利用できるサービスの上限」を決め、サービス単位の点数を決めることで料金をコントロールしている。料金を低く抑えることによって供給を制限する一方で受益者の負担率を1割に抑えることによって需要を人為的に増加させている。

創意工夫で付加価値をつけて参入しようにもガチガチの規制で固められた業界に新規に入るのは難しい。供給は制限される。そこにもってきて需要が人為的に増えているのであるから不足がいつまでも解消されないのは当然である。

日本では少子化で人口が減少している。普通に考えれば総需要は減るのが当然である。もしも我々の経済が自由なものであれば、需給がバランスしたままで徐々に需要も供給も減少していくのが当然である。

だが現実は「人材不足」。政府の介入以外の理由がなければあり得ない現象である。

人材不足を補うためと称して移民を入れてしまえば当初の不足をもたらした政府の失態はそのまま温存される一方、日本人の、日本人による、日本人のための日本国は失われるであろう。

国破れて政府あり、である。

低機能、高価格なランドセル

  • 2018.06.16 Saturday
  • 23:01

ランドセルのカラーバリエーションや装飾が多様化し、ブランドとのコラボレーションによるものも出てきて目移りしそうなくらいのたくさんの選択肢の中から「たったひとつ」を選び出すのが大変・・・ 6年間使うなかで飽きのこないものを選んであげたい親としては、どうしてもキラキラしたものを欲しがる子供に対して納得のいく説明をどのようにしたらよいか・・・悩んでいる親が多い。さあどうしたらよいか・・・

という愚にもつかない記事を目にした。

子供に対して「納得のいく説明を」という愚かさがまず気になる。子供は親の保護下にある。子供には自分に必要なものが何かを判断する力はない。子供が分かるのは「今、何々が欲しい」だけである。子供に必要なものは何かを判断できるのも、「欲しい」と「必要」の違いを教えられるのも親だけである。「納得のいく説明」を試みたところで納得するはずがない。そもそも納得させる必要すらない。

それはさておき、このランドセルという前世紀の遺物はどうにかならないものか。

いまどき、高機能で大容量で軽量で頑丈なリュックサックがアマゾンでもより取り見取りである。高くても4000円から5000円程度である。

ランドセルという形状に融通性がなく、機能性も低く、重く、数年でボロくなるランドセルが安くても1万円前後、高いもので10万を超える。

世の中の進歩は、利便性向上、機能性向上、軽量化、低価格化であるが、その流れと真逆なのがランドセルという代物である。まさしく旧態依然とした公営教育の象徴である。

親が見栄をはって高額なものを買う。親が買えなければ祖父母が買う。買いたくない人も高級バッグ並みに高い「低価格ランドセル」を買う。他の子供が皆持っているのに自分の子供だけリュックサックだったら村八分にされる・・・という同調圧力に屈さざるを得ない。

子供を持つほぼ全ての家庭が無駄な出費を強要され、一部の人々が利益を得る。これを廃止すればその分だけでも経済が健全化するはずである。

南極から氷が消失?地球温暖化教の末路

  • 2018.06.16 Saturday
  • 22:04
 

南極の氷消失、1992年以降3兆トン 6/14(木) 19:41配信
【AFP=時事】南極では1992年以降、3兆トンに及ぶ膨大な量の氷が消失したとする画期的な研究結果が13日、発表された。地球温暖化の進行に歯止めがかからなければ、南極大陸の氷によって地球の海岸線が一変する可能性があることを、今回の結果は示唆しているという。


地球温暖化教が末期症状である。

一般大衆が大きな数字に弱いことにつけこんで、このような陳腐で姑息な嘘を流布する。

Anthony Wattsの記事によると;

南極の氷の総量は27,602兆トンである。この記事が言うには3兆トン減ったそうであるが、「減った」とされる氷のパーセンテージは幾らか。

答え: 0.011% 

100%-0.011%=99.989% 

四捨五入すると、100%

南極にはあまりにも莫大な量の氷があるため、1992年から3兆トン減ったところで誤差の範囲であり、ほぼ100%の氷量を維持している、ということである。

しかも、地球温暖化教徒にとっては”都合の悪い”ことに、実は南極の氷は減るどころか全体的には増えていることを示す証拠もある。

NASA glaciologist Jay Zwally puts the hammer down: ‘Antarctica is gaining ice’ 記事

「地球の海岸線が一変する可能性がある」

バカの一つ覚えのように、それを言い続けて何十年経っていることか。

バカというよりは痴呆症の域に達したのではないであろうか。

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