「男性保育士」 政府介入の産物としての社会問題

  • 2017.01.29 Sunday
  • 15:47

 

「男性保育士に娘の着替えや排せつの世話をやって欲しくない」。こんな保護者の意見は、男性保育士に対する「性差別」にあたるのか。千葉市の熊谷俊人市長(38)がツイッターで投げかけた問題提起が、いまインターネット上で盛んな議論を呼んでいる。千葉市幼保運営課によれば、市内の公立幼稚園・保育園では、男性保育士が幼児のオムツ交換や着替えの業務を「外される」ケースが目立つという。こうした状況について、熊谷市長は「女性なら社会問題になる事案です」と訴えている。  記事


本来問題となる必要がなかった「社会問題」という現象は珍しくない。

何十年も前に、我々は男女雇用機会均等法を制定した。雇用の機会という点において、男女間で差別があってはならない、という善意に基づく考えだったのであろう。この考え方は個人の考え方としては別に悪いものではない。本来はそこで留めておけばよかった。だがそれが法律となったことにより、この「考え」はその意図を超えて社会の変質をもたらした。

「男性保育士」なる存在は変質した社会の産物である。

私は別に男性保育士や保育士になろうとする男性を敵視しているわけではない。圧倒的大多数は善良な人々であろうと思う。だが「男性保育士」という問題はそれとは無関係である。この問題に対して彼らは一切責任がない。むしろ被害者である。

なぜならば、この問題は問題である必要はなかったからであり、彼らの存在、あるいは無存在は人々の意識を呼ぶ必要性すらなかったからである。

千葉市内の公立幼稚園・保育園において、保護者の要望によって男性保育士が幼児のオムツ交換や着替えの業務を外される事態が発生し、その事について千葉市の市長がツイッターで発言した。

この市長の発言にはこの問題を問題たらしめた根源が見え隠れするため、いかに紹介してコメントしたい。

 

|棒保育士の件について最後に。日本全体ではまだ不信を持つ方は少なくないでしょう。保育所、男性保育士を知らない人が多数です。しかし、実際に保育所に預けた経験がある方は保育士の専門職を理解し、反対の比率は減るでしょう。さらに男性保育士と接したことがある方はより理解が広がるでしょう。

 

男性保育士が増え、男性保育士と実際に接する保護者と保育された方が増えれば自然と解消していくでしょう。それまでは行政・保育所長などが保育士の職務への理解促進と信頼関係構築、不祥事防止に向けたシステム構築に努め、保護者の不安払しょくと志ある保育士を守る取り組みを進めていきます。


この発言からは、保育がサービス業であるという理解は微塵も見られない。保育というサービス業の顧客は親である。サービス業は顧客のニーズにこたえるものである。そのニーズは往々にして潜在的なものである。人は潜在的なニーズが満たされたとき、嬉しい驚きを感じる。逆にそれが外れたときは嫌な驚きとなり、事業者の試みは失敗となる。その反応に対して「まだ我が社の製品に不信があるだろうが、それは製品を知らない人が多数だからだ。キミたち顧客がきちんと我が社の製品を理解すればそれは自然と解消していくはずだ」などという対応をすれば会社そのものが市場撤退を迫られよう。

以下のコメントは極めて愚鈍である。

 

娘を男性保育士に着替えさせたくないと言う人は、同様に息子を女性保育士に着替えさせるべきではないわけですが、そんな人は見たことがありません。社会が考慮するに足る理由無しに性による区別をすることは差別です。女性活躍を進める中だからこそ、真剣に日本社会が議論し、乗り越えるべき課題です


これがサービス提供者(市として)が顧客もしくは潜在的に顧客となりうる市場一般に対して発する言葉であろうか。一般企業であれば一発で不適格者である。

女性の保育士に子供の着替えをさせたい、させたくない、あるいは男性の保育士に子供の着替えをさせたい、させたくない、というのは顧客の要望である。それを第三者が妥当と思おうが思うまいが関係はない。

女性の清掃員が男子トイレで掃除できるのだから男性の清掃員が女子トイレを清掃できなければ「職業差別」だ、と言うに等しい。男性と女性は非常に異なった生物である。男性トイレで女性の清掃員がいきなり入ってきても、トイレを利用中の男性は何とも感じない。一方女性トイレにいきなり男性の清掃員が入ってきたらトイレを利用中の女性はどのように反応するであろうか。

「理由無しに」というが顧客要望そのものが理由ではないのか。行政は我々一般市民の代わりに家族の日常生活の細事を考慮してくれるのか。「差別だ」というが消費者として選択することが差別ならばあらゆる消費活動が差別ではないのか。「社会が」というが具体的に社会とは誰なのか。曖昧かつ専制的である。

市長のツイッターに人々が否定的に反応し、それに対して市長が言い返す。

 

@○○○ なるほど、では乳幼児間の性的悪戯等も完全排除しなければいけませんね。こちらの方が確率は遥かに高いので。男児クラスと女児クラスに分け、トイレも完全分離しましょう。保育士不足・保育所不足に拍車をかけ、待機児童が大変増えますが、仕方がないですよね。


乳幼児同士のイタズラと大人の乳児に対するイタズラを完全に同列に語るこの人物は大丈夫であろうか。乳幼児は遠慮がないので他の乳幼児のちんちんをつついたり自分のちんちんをつついてみせたりする。それはありふれたことで記憶にも残らない。だが大人から乳幼児への悪戯は場合によっては生涯癒えない精神的な傷を残すこともある。この天と地ほどの違いを認識しない稚拙な人物が市長という地位に収まるとは恐ろしいことである。

顧客の要望に応えるとサービスの供給が不足する、とは恐れ入った見識である。そのようなことは物理的にあり得ないことである。「保育士不足」「待機児童」は規制の産物である。

この市長はツイートする。

 

大事な娘さんのかけがえのない日々の保育を代わりに託し、日々専門職として保育をしている目の前の保育士に対して犯罪予備軍の疑いをかけるのは悲しいですね。相互チェック体制などを確認するのは分かりますが、保育士個人の資質に問題が無いにも関わらずの要望であれば保護者側が対応すべきかと


我々は消費者として刻一刻と選択をする。どこのスーパーで買い物をするか。どこのブランドの商品を買うか。やや高い信頼性を確立したブランド品を買うか、安いが無名ブランドの商品を買うか。同じ商品でも鮮度や消費期限はどうか。それまでに蓄積した経験、知識、直観、そして母として、あるいは父として家族の利益を考えて熟慮して一つ一つの購買に際して決定を下す。

そのような消費者の決定プロセスを、ましてや「大事な娘のかけがえのない日々の保育を託す」相手を選ぶための決定プロセスを「犯罪予備軍の疑いをかける」などと形容する市長の存在ほど「悲しい」ものがあろうか。

私は男性保育士という存在そのものを問題視しているのではない。個人的な意見を言えば、男性保育士は不要である。それは「俺はビールはプレミアムモルツしか呑まん」という人にとって発泡酒が不要なものであるのと同じである。発泡酒がその人のニーズに合わないのと同様、男性保育士も私のニーズに合わないのである。

プレミアムモルツしか呑まないというのは発泡酒に対する差別だ、などと言われれば「大きなお世話だ」となる。あらゆる製品やサービスに関して言えることである。

市長は”ほいく男子会”@hoiku_mens という男性保育士を応援するアカウントのコメントをリツイートしている。

 

病院で男性医師に子どもの裸を見せることは問題にならないのに、保育園や幼稚園でで男性保育者に裸を見せることは問題になる。私がほいく男子会の活動をしていて憤りを感じるのはその点なんですけど…


これは稚拙な比較である。一般化して言うと、保育は昔から女性の仕事である。医者は昔から男性の仕事であると同時に女性の仕事である。男性の医師は当然ながら、女医という存在は珍しいものではない。明治時代から津田塾大学などから次々と有能な女医が輩出されてきた。

一般的に保育で必要とされる資質は母性と慈愛であり、これは女性の得意分野である。一方、医術で必要なのは高度な専門的医療知識と技術である。顧客が求める特性の違いは明白である。こんなことが直感的に分からずにこのような愚鈍なコメントをリツイートしている人間が市長であることのほうが問題であろう。

この市長のツイートは反応を呼び、その反応は更に反応を呼んだ。私のもとに別の人物から次のようなコメントが入った。市長のコメント同様に我々の社会における病理を表すものであるため紹介してコメントしたい。

 

なら、男性保育士のいる保育園の行かなきゃえーやん幼稚園入れたらええがな。男性保育士がダメなら男性小学校教師も女子高の男性教師もダメやんけ。無料の行政サービスに文句たれとらんで女性シッターでも雇えや。子供への性的犯罪は年間3000件程度で子供への虐待の方は年間10万件圧倒的に家族からの虐待の方が良いんですよね。しかも虐待をするのは母親である女」 


行政サービスと民間サービスとの比較は民間企業同士の比較、例えば「アサヒにするか、キリンにするか」「日産にするか、トヨタにするか」「ニトリにするかIKEAにするか」「パナソニックにするか、日立にするか」といった比較と同じではない。行政サービスというものは往々にして本来民間でやるべきことを政府(地方自治体・国を問わず)が行う事業のことである。

ある産業における行政サービスの存在は、行政によるその産業への規制と介入を意味する。それはその産業における市場性が歪められるということを意味する。ベビーシッターを雇えば一日で軽く万単位である。なぜベビーシッターは高額なのか。それは許認可等の規制があるからであり、対応をするためにコストがかかるからである。

政府の介入により、市場全体が影響を受け、現在の顧客のみならず、潜在的顧客を含めた多くの人々が多かれ少なかれ選択肢の減少とコスト増という影響を受ける。

「男性保育士が嫌なら男性小学校教師も女子高の男性教師も不可のはずだ」というのは極めて稚拙な議論である。まず、消費者の購買決定において他人による「〜のはずだ」はお門違いである。次に、一般的に教育保育の顧客である親が保育に求めるのは母性と慈愛に基づく「世話」であるに対し、学校教師に求めるものは「知識の伝授」である。 

最後に子育てに費やす時間が圧倒的に女性と企業等で働く時間が圧倒的に長い男性を比べるのは不毛である。子供を授かると、女性は本能的に子育てへと注意を傾け、男性は本能的に子供と子供を育てる妻を守るべく収入を安定させることに注意を傾ける。これは誰に意見でもなく、事実である。

「男性保育士」は問題が引き起こした現象であって問題そのものではない。

「男性保育士」は極左ジェンダーフリー思想と政府による社会実験的規制の産物である。とるべき対策は「男性保育士」を政府の力で普及させることではなく、規制なき自由な保育市場の創出である。自由な市場において、消費者の選択は様々な考慮によってなされる。直観も一つの重要な決定要素である。

雇用機会均等法等で規制された市場は自由な市場ではない。なぜならば、本来一般的に男性が適正を発揮する職場に女性を、また逆に女性が適性を発揮する職場に男性をあてがうことを企業や事業者は強制されることを意味し、そのためのコストは目に見えない形で我々全てにかかってきているからである。

まずは雇用機会均等法を撤廃しなければならない。

その環境において男性保育士が出てくるならば、問題にすらならないはずである。なぜならば、その男性保育士の存在は、選択肢がある上での確かな需要に支えられているからである。


追記:
男性の保育士が必要とされる可能性のある局面として考えられるのは母子家庭における男児の子育てである。母子家庭において決定的に欠如しているのは頼りになる男性の存在である。往々にして母親の男友達は頼りにならないだけでなく、子供に危険を及ぼす存在になりうる。男児には母親の慈愛だけでなく男性的なインプットも重要である。それを与えることができるのは男性だけである。

「氷河期世代を正社員化で助成」 新たな収奪

  • 2016.11.06 Sunday
  • 17:17
 

氷河期世代を正社員化、採用の企業に助成へ
政府は来年度、バブル崩壊後の就職氷河期(1990年代後半〜2000年代前半)に高校・大学などを卒業し、現在は無職や非正規社員の人を正社員として採用した企業に対し、助成金を支給する制度を創設する。少子高齢化に伴って生産年齢人口(15〜64歳)が減少する中、働き盛りの世代を活用する狙いがある。 読売新聞 10/31(月) 6:11配信 


ここまで不道徳かつ愚鈍なことを考えつき、思いつくだけにとどめず政策として推進してしまう安倍政権はある意味で見事である。

政府はこの日本に生きる全ての人々の代表である。男も女も老いも若きも持てるも持たざるも関係無く、全ての人々の共通の利益を守るために存在する。

そのように意図したところで実際には多かれ少なかれ恩恵を享受する程度には差が生じる。だが少なくとも公平性という前提があるからこそ国民は税金を納めるわけである。

もしもある人間が別の人間から財産を奪い、それをまた別の人間に渡せばそれは窃盗である。いかなる道義的理由を並べようが、それは犯罪である。そこには公平性の片りんも無い。

その犯罪的行為を政府が真顔で実施すると「政策」となる。

この世で働いているのはいわゆる「就職氷河期」に卒業した人々ばかりではない。また家計や収入面で困難を抱えているのは「就職氷河期」の人々ばかりではない。また「就職氷河期」を経験した、あるいは現在経験しているのは「就職氷河期」の人々ばかりではない。

いかなる年齢層にあろうとも、人は様々な困難に直面しながら人生を生きている。困難は金銭面だけではない。性格や人間関係もあれば家族関係や健康面等、我々が人生において直面する困難は多様である。

自分よりも良い、あるいは一見良いと思われる境遇の人々を眺めつつ、それでも多くの人々はひたむきに文句を言わず、あるいは多少は愚痴りながらも実直に一日一日を生きている。「俺は搾取されている。俺よりも収入の多い奴は俺の収入との差額を補てんする義務がある。俺はその補てんを受ける権利がある」などとゴネる人間は少数である。

だが政府がやろうとしているのはこれである。

政府は企業に対し、「ある特定の人々(1990年代後半〜2000年代前半に労働市場に出た人々)を雇用したら、政府がそれ以外の人々の金で彼らの給料を一部負担しますよ」と言っているのである。「その金は税金として既に政府の手中にあります。国民は税金だからしょうがない、と諦めているので、わざわざその使い道について了解を得る必要などないのです」と。

この道徳的な問題もさることながら経済的にも愚かである。

政府は「生産年齢人口が減少する中、働き盛りの世代を活用する狙いがある」としている。

「働きざかり世代」はそれまでに積み重ねた経験によって「働きざかり」となったのであって、35歳あるいは40歳の誕生日を境にいきなり「働きざかり」になったわけではない。働くに必要な業務経験の蓄積と、気力と体力が充実しているからこその「働きざかり」なわけである。年齢は40歳以上でもそれまでの業務経験が無ければ「働きざかり」ではないわけである。

「働きざかり世代」は雇用コストと人件費が一番高い。給料の安い若者を雇ってじっくりと育てるのとはわけが違う。企業は即戦力を求める。「働きざかり世代」の人が途中入社で入ってくれば、上司も同僚も「この人は何ができるのか」に注目する。「何も分かりませんので、一からいろいろと勉強します」では通用しない。

企業は人を採用する際にそこを見極めなければならないから試験や面接をやるのである。

政府が税金で給料を補てんしなければ雇用されない「現在働いていない働き盛り世代」の雇用コストは一般以上に高い。

企業はそのような高コストな労働者は雇わないであろうし、企業に雇わせるためにはそのコスト以上の補てん額を積まなければならない。すなわち、彼ら以外の人々が税金を通じて彼らの給料及び雇用する企業がメリットを感じる額を肩代わりすることを強いられるということである。

愚かな政策は愚かな前提から始まる。

「現在働いていない”働き盛り世代”」はなぜ働いていないのか。政府が考える原因はこれである。

「企業が雇用しないから」

「航空機が墜落した原因は飛行機がうまく飛べなかったから」と言っているようなもので、思考が途中で止まっているのである。

「企業が雇用しない」が原因ならば、「企業が雇用するようにさせればよい」となり、そのために「雇用した企業に助成金を出せばよい(給料補てん額プラスα)」が結論となる。

彼らが働いていないのは企業が雇用しないからであるが、その理由は雇用コストが高いからであり、雇用コストが高いのは雇用規制があるからである。長年にわたり雇用規制を築いてきたのは政府であり、現在の状況は長年の過ちの積み重ねである。現在40代の人々に関して言えば、20年前の1990年代の労働市場に影響を与えた規制の犠牲者である。真の原因を追究するためには時代を遡らなければならないのである。

政府の政策で「現在働いていない”働き盛り世代”」が雇用されるためにはそのコストを補てんする額がそれ以外の人々から収奪されなければならない。企業は助成金を目当てに本来ならば採用しないであろう人々を採用し、その結果業績は悪化し、悪化した業績を埋め合わせるために政府は更に助成金をつぎ込まなければならず、そのためにそれ以外の人々が更に収奪されなければならない、という不条理なサイクルへと突き進む。

政府は愚かな政策を小賢しく理論立てする。メディアは仰々しい言葉で報じ、国民は甘んじて受け入れる。

「政府は失業者を全員正式雇用する!仕事場は浜辺!二手に分かれ、一方は穴を掘る!一方は穴を埋める!財源は税金!」とでもやったほうが潔いくらいである。

そこまでやれば、メディアも国民も、その愚かさに気づかされる可能性は無きにしもあらずである。

「電通」に見るブラック国民の姿

  • 2016.10.16 Sunday
  • 18:55
 

電通の女性社員を労災認定=入社9カ月、過労で自殺
大手広告代理店電通の新入社員だった高橋まつりさん=当時(24)=が昨年12月に自殺し、三田労働基準監督署が労災認定していたことが7日、分かった。時事通信 10月7日(金)18時7分配信


若くして人が自殺するのは悲劇である。親、家族にしてみればこれほど無残なことはあるまい。日本の広告代理店を代表する大手の電通に関する出来事であるからこれほど大きく取り上げられるのも当然であろう。

しかしもっと大きな悲劇はこの出来事に対する国民の反応である。

見聞きするのは、やれ電通は酷い会社だ、ブラック企業だ、上司が悪い、はたまた日本の企業文化が悪い、といった企業を悪者にするものばかりである。

そしてその帰結は何かといえば、相も変わらず「企業への規制を強化せよ」だ。長時間労働や「パワハラ」を止めさせるために行政はもっと行動せよ、と。

そして早速行政は行動を始めている。東京労働局が電通に立ち入り強制捜査に乗り出している。電通の仕事は広告作成であり労働局の対応ではない。労働局のために報告や資料をまとめたりと普段の業務に上乗せして更なる緊急の対応業務に迫られているはずである。普段の残業どころではない。お上のための残業である。しかし「残業が増えますので」などという言い訳は通用しない。お上が強制する残業は断れないのである。

このような問題が起きるたびに企業が悪者になる。そして何も改善されない。それどころかこの見当違いな反応によって改善への道は閉ざされる。新たな法律や制度がつくられて世の中の仕組みが複雑化する。それによって問題は更に見えにくくなり、状況は更に改善から遠のく。

この世に命をかけるに値することは数多くない。命をかけるに値するのは危険に晒された自分と家族の命を守ろうとするときくらいである。会社で働くのは給料をもらって生活するためであるから命をかけるに値するものではない。

ではなぜ人は時として死ぬまで頑張ってしまうのか。

それは現在の職場で頑張らなければ後がないからである。少なくとも多くの人々にとってそれは現実的な感覚である。新卒で入った大手有名会社から脱落すれば同様の条件で仕事を見つけるのは難しい。一般公募で転職できるのは30代までで、それ以降は各段に条件が厳しくなる。実質的に一旦入った会社で頑張るしかない。

「いや、実力さえあれば自分を売り込んでいけるだろ」「強烈な意思があればどこからでも這い上がっていけるぞ」

と言える人間はそれでよい。個人の気持ちの持ちようとしては何ら問題はない。しかしこのようなスローガンを叫んだところで世の現実は何も変わらない。

なぜ我々は一旦入った会社にしがみつかなければならないのか。それは「嫌だったら辞めて他を探す」が難しいからである。

なぜ難しいのか。

それは労働三法(労働組合法、労働基準法、労働関係調整法)をはじめとする労働市場に対する規制によって企業は「労働者を雇いにくく、労働者を解雇しにくい」状況に置かれているからである。

企業にとって人を雇うというのは大変なことである。大手になればなるほど雇用に関する仕事を専門に行う部署が必要となる。健康保険、厚生年金、雇用保険といった労務手続きをはじめ、法律で定められている労働諸規定を満たすために対応しなければならない。

企業が人を解雇するのも同様に大変である。単に「能力が足りないから」では解雇できない。人を雇い続ける余裕がなく、人員を削減しなければ存続が難しい場合も「誰を切るか」が問題となり、「切る」のは簡単ではない。だから余裕のない企業では解雇したい社員に対して激しい叱責や空気による圧力を加えて「自発的退職」を促し、比較的余裕のある大手企業では社内他部署への異動といった手段で乗り切る。

つまりは問題の根本は政府であり、その政府に労働市場規制を要求しているのは誰かといえば、それは我々国民だということである。

労働三法というお節介な法律を撤廃し、雇用者と被雇用者が自由に契約することができるようにすればどうなるか。

「このような能力・資質を持った人をいくらで雇いたい」という企業に対し、「このような仕事でこのような給料で働きたい」という人々が縦横無尽に渡り合い、業務負荷、労働時間、賃金、福利厚生といったものについて自然と相場が形成される。そこから大きく外れれば「割に合わない」となる。割に合わないことをするのは特殊な人、ということになる。雇うにも解雇するも簡単であるため「空き」が常にある状態となる。昼で今の仕事を辞め、午後新し仕事を見つけて明日からそこで仕事をする、といったことが簡単にできるようになる。

そのような環境で誰が会社のために「連日朝の4時まで残業」などしようか。

だが世の大方の意見は「電通はブラック企業だ」止まりである。

「電通を罰せよ!」「電通を営業停止にせよ!」

滑稽なのはそのような人間がひとしきり電通をこき下ろした後で見るテレビのバカ番組のスポンサーのCMを作成しているのが電通だということである。

我々がある会社を「ブラック企業だ」というとき、我々は我々の姿を鏡で見て、いかに我々がブラック国民であるかを知らなければならない。

「企業を罰する」というとき、問題は誰が罰するかである。企業への制裁を叫ぶ人間は決して「市場経済によって制裁を受けるべし」とは言わない。彼らが言うのは「行政は何をしている!」「行政は何とかしろ!」である。

行政が動くということは規制の強化である。規制の強化は更なる労働市場の硬直化をもたらす。労働市場の硬直化は労働者の選択肢の減少をもたらす。選択肢の減少はこのような悲劇をもたらす。

ブラックな国民がブラックな政府を煽ってブラックな労働市場を形成し、ブラックな労働環境で労働者が死ぬとブラックな国民は更にブラックな規制を強化せよと叫ぶ。ブラック政府のブラックな強制査察を受ける企業の管理層はブラックな残業を迫られる。

喜劇というには悲しすぎ、悲劇というには愚かすぎである。

追記:
日本人は労働生産性を上げて労働時間を短縮すべき、という意見もある。これは個人的な心意気としてはよいが、問題の本質とは無関係である。海外を知る人間は日本人の労働生産性が非常に高いことを知っている。真面目さや勤勉さといったDNAは我々日本人が代々先人から受け継ぐものである。我々は集中して長時間働き、正確で完成度の高い仕事を丁寧に仕上げる。これは美徳であり、重要な経済インフラである。だが日本人は規制に対応するために無給で政府に奉仕することを強いられている。身の周りのモノで政府に規制されていないものが一つでもあるか見てみればよい。長時間労働の割に豊かさを享受できないのはそのためである。

「政教分離」なる専制のスローガン

  • 2016.09.18 Sunday
  • 15:49

 

今年の8月15日、安倍晋三は例のごとく靖国神社に参拝せず、鳴り物入りで入閣した稲田朋美も国外に出て参拝せずという結末となった。期待はしていなかったので憤りは感じないが、このような安倍政権を擁護する人間を見るにつけ、暗澹たる気持ちになるのは避けがたいものである。

それはさておき、靖国神社参拝というと必ずどこからか「政教分離の原則上やや問題あり」という声が聞こえてくる。

日本社会は実に多くの空虚なスローガンに満ち溢れている。この政教分離もその一つである。

政治は政治、宗教は宗教。宗教は政治に口を出すべきではない。政治は宗教に絡むべきではない。

もっともらしく聞こえるが、単なる危険思想である。

この「政教分離」という思想は共産主義の宗教弾圧に起源を持つ。共産主義はそれ自体が政府を至高の神とする宗教であるが、単に他の宗教を認めないということである。

共産主義は人間の性質を変えようと(政府に権限を集中させることで人間の持つ「個人の所有欲」という性質を無くさせる)する試みであった。その試みの前提は、人間の性質は変えられる、という思想であった。

だがその試みの結果は大量虐殺であり、独裁であり、飢餓であり、貧困であった。

人間の性質は変えることは出来ない。人間には所有欲があり、善意があり、悪意があり、良心があり、意地悪さがあり、克己心があり、自堕落である。それら性質をあるがままに受け入れ、それを正のエネルギーに変換し、富をもたらしたのが資本主義であった。

同じく人間には変えられない性質がある。それは宗教である。

人間に価値観を与えるもの。それが宗教である。その価値観が良きものであろうが、悪しきものであろうが、価値観は価値観である。

キリスト教は宗教である。仏教は宗教である。イスラム教は宗教である。無宗教は宗教である。無神論は宗教である。オウム真理教は宗教である。共産主義は宗教である。「地球温暖化!」は宗教である。「反原発!」は宗教である。「日本が世界に誇る国民皆保険!」は宗教である。

「自分は宗教とは関係無い!」と百万回言っても事実は不変である。人間は宗教から分離して存在することは出来ない。ある人はこのような価値観(宗教)を持っているが、ある人は別の価値観(宗教)を持っている、ということが言えるだけである。

故に政教分離という思想は「お前の体からお前の価値観を切り離せ」と言っているに等しい。政治家に政教分離を求める、というのは、政治家に人間を止めてロボットになれ、というのに等しい。貴方の価値観が好きで貴方に投票した、だが今や貴方は政治家なのだから、貴方は貴方の価値観を捨てなさい、と言っているに等しい。価値観を捨てろというならそもそもなぜ選ぶのか、という論理矛盾である。

政教分離が共産主義を起源とする専制思想である一方、自由闊達で繁栄する社会に必要なのは信仰や良心の自由である。

自由な社会の基礎は個人財産の保護である。有形、無形を問わず、個人の所有物が他人からの収奪の危機に常に晒されている社会には自由も繁栄も無い。

信仰や良心は個人の財産である。これは最も重要な財産であると言ってもよい。この財産は親から子へと代々受け継がれるものである。良き信仰(価値観)は良き行いをもたらし、良き行いは富の蓄積と豊かさをもたらす。悪しき信仰(価値観)は悪しき行いをもたらし、悪しき行いは貧困と不幸をもたらす。

「政教分離」なる思想が空気のように受け入れられる社会において、自由と繁栄の礎である信仰や良心の自由は置いてきぼりである。

「公人としての参拝ですか?それとも私人としてですか?」

このバカげた質問は、「貴方は貴方ですか?それとも別人ですか?」と聞いているに等しい。

国のために戦った英霊が祭られている靖国神社に参拝するというのは一つの価値観である。それは人間としての良心である。価値観や良心は人から離れたりくっついたりするものではない。常にその人と一緒である。その価値観と良心がその人を形成する。その価値観や良心無しにはその人はその人ではない。

我々は人間の性質を根本的に変えることは出来ない。良き信仰を持つ人がいて、悪しき信仰を持つ人がいる。良心を持つ人がいて、邪心を持つ人がいる。さまざまな組み合わせを持つ人々が様々な組み合わせで社会を構成する。これが現実であり、この現実を変えることは出来ない。

我々が出来るのは、人々が信仰と良心に従って行動する自由を守ることである。それは政教分離ではなく、信仰と良心の自由である。だが信仰と良心の自由は脆弱である。我々の社会にはあまりにも多くの邪教とそのスローガンがはびこっているからである。

 

「働き方改革で成長力底上げ」 洗脳された日本社会

  • 2016.09.18 Sunday
  • 11:21
 

働き方改革、税で後押し 仕事・育児両立促す
2017年度の税制改正に向けた各省庁の要望が出そろった。育児と仕事を両立できる社会をめざし、子育て世帯がベビーシッターを利用したり、企業が保育所を設けたりするのを税制面から後押しする。人口減が加速するなか、女性や高齢者が仕事に就きやすくする「働き方改革」を通じて成長力を底上げする。 2016/8/27 1:14日本経済新聞 電子版


我々はアリ地獄に生きている。もがけばもがくほどに砂の中に深く沈み込んでいく。

「人口減が加速するなか、女性や高齢者が仕事に就きやすくする」ことで「働き方を改革」して「成長力を底上げ」するという愚にもつかない冗談を真顔で人々が語る。冗談であるということにも気づかない。完全なる洗脳である。

人口減少は衰退の象徴である。豊かさは人口の増加をもたらし、人口の増加は活力を生み出す。人口の減少は人々が将来への希望を見出せない社会の産物である。

なぜ人々は将来への希望を見出せないのか。それは経済が成長を止め、縮小へと向かっているからである。なぜ経済が縮小するかといえば、それは社会福祉と規制によって現在と将来の富が国民全体から吸い取られているからである。

経済が硬直化しているから人口が減少する。だが政府の対策は「経済をくびきから解き放て」ではなくて「女性や高齢者を働かせろ」である。しかも国民から集めた税金を使ってである。

女性が働けば働くほど、当たり前だが結婚は減少する。結婚が減少すればするほど出産も減少する。出産が減少すればするほど将来の人口は減少する。

そこでまた政府が対策する。女性が子供を産みやすくするように「保育所を増やす」とか。だがそこで問題が起こる。保育士が足りない。なぜならば保育士の仕事がキツイわりに給料が安いから。すると政府が対策する。保育士の給料を月額6000円上げると。またもや税金を使ってである。仮に多くの人が納得して保育士になろうという人が増えるとしても他の分野で人手不足が生じる。

永遠の負のループである。それで最終的に「成長力が底上げできる」言い張るのであるから脳みそが腐っているとしか言いようがない。

政府のやることというのは自分で傷をこしらえておいて、バンドエイドを貼り、すぐ横にまた傷をつけてバンドエイドを貼り、バンドエイドが古くなればその上から新しいバンドエイドを次から次へと貼り付けるかの如くである。そのうちに、そもそもなぜバンドエイドを貼らなければならなかったのかは誰にも分からなくなり、古くなって外れかけているこのバンドエイドをどうやって修復して維持するか、だけが焦点となる。

育児も仕事も個人の領域である。個人の領域から政府が手を引いて規制を撤廃し、あちこちから高い税金を取らなければならない原因である社会福祉を撤廃すれば経済は息を吹き返す。経済が生き返れば出生率は上がる。出生率が上がれば人口は増加する。「人手不足」も「待機児童」も雲散霧消する。

だがその希望は無い。なぜならば、我々は洗脳されているからである。

「食料無駄捨てNO、欧州で対策強化」の危険

  • 2016.09.03 Saturday
  • 14:51

食料無駄捨てNO、欧州で対策強化 寄付促進へ税優遇・罰則
【ベルリン=宮下日出男】欧州で食料廃棄の削減に向けた動きが活発化してきた。税負担軽減や罰則導入で余剰食料の有効活用を促す。とくに先進国で売れ残りなど食料の「無駄捨て」が多いことが問題視されてきたが、国連が食料廃棄半減の世界目標を打ち出す中、対策を強化する。 産経新聞 8月22日(月)7時55分配信 


かつて冷蔵技術の無かった時代、ほとんどの食材は消費者の手元に届く前に腐ってしまった。だが近代からの冷蔵・運送技術の飛躍的な進歩により、生産されたものの多くが店頭に並び、消費者の手元に届くようになった。

これは資本主義経済の開花によるものである。資本主義経済において人々は利益を追求する。畑を耕して育てた野菜がその場で腐ってしまったり良い状態で販売できなければ単なる無駄働きである。野菜が輸送途中で腐ってしまったり良い状態で店舗に販売できなければ、農家から野菜を買い取った流通業者とって単なる無駄働きとなる。野菜が店に並んですぐにダメになってしまえば野菜を流通業者から買い取った小売業者にとっては単なる無駄働きとなる。

野菜という商品を消費者の胃袋に収めるために、畑から店頭に至るまで全ての局面において無駄を無くすための戦いが行われている。昨日よりも今日、今日よりも明日、と一般人には見えないところでたゆみない努力が行われている。

それもこれも、原動力となっているのは「利益」である。

物事は二律背反であり、有か無かではない。何かをもう少し得るためには何かをもう少し犠牲にしなければならない。何かをもう少し立てれば何かをもう少し下げなければならない。あっちを上げつつこっちを下げる。重要なのはバランスであって、バランスを取るせめぎ合いが現場では日々行われている。

小売業者にとっては野菜を消費者に売ることがまずは利益の源泉である。だが一方で、鮮度の落ちたものを売れば店のブランド低下をもたらし、それは客足の低下となって跳ね返ってくる。客足の低下は売上低下につながり、ひいては従業員への給料支払いにも影響する。更には腐敗したものが販売されればブランド低下にとどまらず、食中毒による訴訟にもつながる。それは事業継続をも危機に陥れる。

仕入れた野菜は全部売りたい。だから店は消費期限の近い食材は値下げしてでも売り切ろうとする。だが何でもかんでもただ売ればよいというものではない。実際に消費期限が来てしまった、あるいは「店のイメージを低下させること間違いし」と判断される程度の消費期限しか残っていない食材については廃棄せざるを得ない。

廃棄するのはタダではない。商品コストと廃棄コストは店の負担である。店は事業継続のため赤字を出すわけにはいかない。どこかから原資を得なければならない。その原資は「新鮮な野菜をより高い値段で売ったときの利益」から来る。

新鮮な野菜を売ったときの利益が100として、新鮮でない野菜を廃棄するコストが10とすれば、店は利益を100から90に下げることで客にも迷惑をかけず、店のイメージも低下させないギリギリのところで「事を収める」ことになる。

畑から店へのオペレーションが悪く、無駄が多ければ多いほど廃棄コストは上がり、消費者は高い買い物をすることになる。

一方オペレーションが良ければ無駄が少なく済み、コストは低く抑えられ、消費者は安い買い物をすることになる。

同じ品質の同じ商品を買うならば誰でも安いほうへ流れる。価格が同じくらいなら誰でもより品質が良い(新鮮で美味しそう)ほうに流れる。

利益を追求する市場経済の原理によって「無駄」は人知の限りを尽くして既に削減されているわけである。

「いや、まだまだ削減できる」というのであれば、

自分でやれ

ということである。

だが冒頭の規制は「まだ無駄を削減できるはずだからやってみる」ではなく、役人が一方的に小売業者に対して基準を設定し、「まだ無駄を削減できるはずだからやれ」と命令するものである。

それによって何が起こるかというと、無駄が増えるのである。

食品を扱うあらゆる業者が「あらかじめ設定された消費期限に従って小売業者が食品を廃棄することができない」という状況への対応を迫られる。それは法律だから逃げることができない。

もしもある食品会社の消費期限切れ商品が慈善団体を通じて生活困窮者に渡り、その人が食べて食中毒を起こせば必ずや「社会的問題」となる。それは表示や契約などで食品会社が事前の防衛手段を取っていたとしても避けることはできない。

消費期限の切れた自社製品がどのように扱われるか、といった未知の領域に対してどのような「社会的責任」が課されるのか。この限定しきれない責任領域に対して企業存続のために訴訟やメディアの報道といったリスクを経営に織り込んでいかなければならない。

リスクはコストである。リスクが低ければ低いほどコストは低くなり、コストが低くなればなるほど商品の価格は下がる。逆にリスクが高ければ高いほどコストは高くなり、コストが高くなればなるほど商品の価格は上がる。商品を買うのは消費者である。

価格が上がれば上がるほど商品は売れなくなり、商品が売れなくなればなるほど企業経営は難しくなる。故に価格を上げるにも限度がある。企業は存続のために価格はできるだけ据え置かなければならない。するとそのしわ寄せは従業員に来る。

コストは消えることは無い。誰かが負担しなければならない。

「食べ物を大事にしようよ」
「無駄を減らそうよ」

この「高邁な理想」を実現せんとする政府の関係者は彼らの政策によって発生したコストを負担することはない。コストを負担するのは消費者であり、関係する企業の従業員である。

他国の事例ながら、経済の原理を知らない理想ほど危険なものはない、という真理を思い出させる一件である。同記事のコメント(賛同者が多い)を見ればいつ日本で実施されてもおかしくはないことが分かろう。


 

「ブラック企業」と一億総フィクション社会

  • 2016.05.01 Sunday
  • 22:40

幻覚で急ブレーキ、眠らずハンドル握る… トラック運転手が過酷労働の実態を吐露
西日本に本社を置く大手運送会社で働く50代のベテラン運転手の男性は関西の営業所から首都圏の営業所への配送を担当している。3日かけて1往復の乗車をこなすが、その勤務実態からは、法令を無視した過酷さばかりが浮かび上がる。 産経新聞 4月30日(土)11時30分配信 


「一億総活躍社会」なる言葉がある。

我々の社会は「一億フィクション社会」というべきものである。

皆がフィクションを信じ、フィクションの登場人物となり、フィクションを語り継ぐ。

「ブラック企業」なる言葉がある。

それはフィクションである。だが誰もがそのフィクションを信じ、そのフィクションの登場人物となり、そのフィクションを語り継ぐ。

「ブラック企業」がフィクションとはどういう意味か?現実にブラック企業は存在するのではないか。

「ブラック企業」とは俗に「人の扱いが酷い会社」を意味する。そのような会社は程度の差はあれいくらでも存在する。冒頭の記事の会社もそのような会社の一つであろう。

だが問題は、「ブラック」なのは会社なのか、ということである。

会社というのは強制労働収容所ではない。誰も会社で働くことを強制されているわけではない。どれほど人使いの酷い会社であろうが同じである。「辞めたい」という人を無理やり拘束し、銃やナイフを突きつけて働かせる、などという光景は無い。働きたい人は働き、辞めたい人は辞める。ただ、会社で働いて給料を受け取るにあたっては相当の働きを求められるわけであるが、時としてそれが「強制的」と感じられるだけである。

どれほど社員が「俺の会社は酷い」と感じようが、一旦辞めるとなれば「去る者を追わず」である。

だが多くの人は、酷い会社だと感じつつも辞める決断がつかない。なぜならば、酷いながらも現在の会社でそれなりの給料をもらっていて、辞めたら同じ条件で雇ってくれる会社を探すのが非常に難しいことを知っているからである。

だから人は冒頭の記事のように「もうそろそろ限界だ」と知りつつもそのまま押し進んでしまう。他に選択肢が無いからである。

他に選択肢があれば、通常の判断力のある人間ならば「生きるためにはカネが要る。カネをもらうために仕事をするのだ。カネをもらうだけなら他にも手段はいくらでもある。ここで自分の身を危険に晒す意味が無い」と早々に見切りをつけて仕事を辞め、他の仕事を探すであろう。そして社員がどんどん辞めてしまうような会社は事業継続すら危うくなり、すみやかに淘汰されるか雇用条件の改善が促されよう。

なぜ選択肢が無いのか。それは雇用の機会が縮小しているからである。それは政府が規制と課税によって雇用創出を制限しているからである。

日本は先進国の中でも雇用規制が厳しく、雇いにくく解雇しにくい社会である。それは労働市場の硬直化と流動性の減少につながる。

日本はまた先進国の中でも法人税の高い国である。日本の工場は次々と工場をたたみ、海外へ生産を移転する。そして日本のような国に生産を移転しようとする海外の会社はない。

会社は辞めればそれっきりである。だが政府というものは、日本人として日本にいる限りは決して逃れることはできない。全国どこに行こうがその影響から脱することはできない。

ブラックなのは会社ではない。

ブラックなのは政府である。

だが我々は今日もフィクションを語る。明日もフィクションを語る。フィクションは世代を超えて語り継がれる。

メディアは「ブラック企業」という言葉を流し続ける。人はその言葉を毎日のように聞くなかで洗脳されている。

誰もブラックなのは政府だとは思わない。

それは我々は「一億総フィクション社会」に生きているからである。

 

穴を掘り、穴を埋め・・・

  • 2016.04.30 Saturday
  • 16:36
 

育児と介護「ダブルケア」推計25万人、深刻な影響
親の介護と子どもの育児を同時にしなければならない「ダブルケア」。全国で推計25万人にのぼり、仕事などに深刻な影響が出ていることが、国の初めての調査でわかりました。  TBS系(JNN) 4月28日(木)19時59分配信


せっせいと穴を掘り、せっせと穴を埋め、埋めたと思ったらすぐ隣に穴を掘り、そして穴を埋める。いくつ穴を掘ったか、いくつ穴を埋めたかを発表する。いかに効率的に穴を掘ったかを公表し、今後どのように効率的に穴を埋めるかを検討する。男性も女性も、老いも若きも、全ての人に穴掘りと穴埋めに参加しようと呼びかける。そしてあらゆる人々がそれに参加するよう促す。

そんなバカな社会があるのか。

それは我が日本社会である。

介護サービスが不足しているのも、育児サービスが不足しているのも、多くの女性が子育てを しながら仕事をしなければならないのも、全て政府が原因である。

政府が介護業界を規制しているから介護に従事する人々の給料が安く、人が集まらない。一方で参入規制によって競争が阻害され、介護業界全体の品質サービス工場と価格下落が起こらない。

政府が育児業界を規制しているから育児に従事する人々の給料が安く、人が集まらない。一方で参入規制によって競争が阻害され、育児業界全体の品質サービス工場と価格下落が起こらない。

政府があらゆる産業に対する規制と課税、金融政策によって健全な投資を阻害し、20年以上にもわたる景気後退を引き起こし、富の増大を妨げるとともに貧困を増大させる。それによって働けるものは皆働かなければならない状況に追い込まれる。政府はそれを「女性の社会進出」と称する。

それらの要因が、冒頭の記事のような「育児と介護のダブルケアによって推計25万人が深刻な影響を受けている」というような問題へと発展する。

しかもそれを調査発表しているのが当の政府であるというから笑わせる話である。

政府が人々に穴を掘らせ、穴を埋めさせ、それをやらされている人々が「いかに深刻な影響を被っているか」を調査発表する、というコメディーの誕生である。

しかし我々がそれを笑えないのはなぜか。

それは、

「もっと財源を投入して問題解決に取り組め(=もっと穴を掘れ!そしてもっと穴を埋めろ!)」

と政府に要求しているのが他でもなく、被害を被っているはずの我々自身だからである。



 

大きな政府がもたらす家族の断絶

  • 2016.04.24 Sunday
  • 18:29

世の中には様々な家庭があり、それぞれに事情がある。それでも一般的に家族は一緒にいるほうが精神的にも経済的にも良い。

しかし実際のところ、ずっと一緒に生活できる家族は稀であると言っても過言ではない。多かれ少なかれ、ほとんどの家庭で一定の時期バラバラにならざるを得ない状況が存在する。

家族が時間的、空間的、精神的に一緒でなければ、それは一種の断絶である。断絶をもたらす要因は様々である。

家族断絶の代表例が単身赴任である。

会社から地方、あるいは海外への赴任を命じられる。そもそも独身だったり子供がいなかったり小さかったりで身軽な家庭はそのまま家族で移動可能かもしれない。だが子供の学校の問題で家族としての移動をためらう場合がある。また国によっては安全面や衛生面から家族を連れていくのを憚られる場所もある。あるいは家族で移転するにあたって生じる経費や負担に対する補助が少ない会社もある。そのような場合、母子は現在の場所にとどまり、父だけが任地に赴くということはよくあることである。

赴任への会社の要請は、断れることもあれば非常に断りにくい場合がある。断りにくい場合というのは「それしか選択肢が無い」場合である。

「会社から強い赴任要請を受けているが、それを受けるのはイマイチ気が進まないので辞めて別の仕事を探すか」という選択肢が現実的でない場合である。

こう書くと「会社が家族を断絶させている」と主張したいのか、といえば全くそうではない。

会社は要因ではあるかもしれないが主因ではない。

「辞めて他の仕事を探す」

これが出来るのは20代〜30代前半までである。30代後半になれば、よほどの人脈やスキルがなければ、「辞めて他の仕事を探す」場合かなりの収入低下を覚悟せざるを得ない。

なぜならば世の中の会社にとって「人材を正式雇用する」というのはリスクもコストも高い事業だからである。

日本は会社が社員を解雇しにくい社会である。

「あ、キミキミ、ちょっと来て。あのね、キミの仕事は今日が最後だから、朝のうちに荷物まとめて午後は出てってくれる?」

というのは日本では起こりえない。なぜかというと、政府が雇用規制によって解雇を事実上禁止しているからである。

「雇ってみて、よけりゃそのまま行くし、ダメなら辞めてもらう」

が通らないため、会社は雇用する際にも慎重にならざるを得ない。何度もテストしたり面接したりして応募者を圧迫し、全人格的な能力を測る。一方、会社は解雇したい社員に対してあの手この手で「自主退社」させるという手段に出る。

雇用者にとっても被雇用者にとっても苦しみと負担である。会社にとってはコストとリスクである。

「辞めて他の仕事を探す」

これが気軽に出来る社会というのは、

「雇ってみて、ダメなら辞めてもらって他を募集する」

が気軽にできる社会である。

そしてそのような社会は人を雇うコストとリスクが低いため、世界中から投資が集まる。投資が集まれば次々と会社が生まれる。会社が生まれれば雇用が生まれる。雇用が生まれれば消費が始まる。消費が始まれば需要が生まれる。需要が生まれれば供給者が集まる。

すると、

「辞めて他の仕事を探す」

がもっと簡単になる。

我々の生きる日本社会において政府は肥大化する一方である。そして我々日本国民は社会の様々な問題に対して政府が積極的に関与し、「解決」のために主要な役割を果たすことを求める。

問題が起こると開口一番に出る言葉。

「政府は何やってんだ」「政府はちゃんと規制しろ」

その結果、家族としても個人としても、生きていく上での選択肢は狭められていくのである。

我々の社会において家族を断絶させるものがあるとするならば、それは会社ではなく政府である。

アベ・LGBT左翼ファシズムを許さない

  • 2016.01.24 Sunday
  • 18:44

【自民がLGBTのプロジェクトチームを設置へ】自民党は14日、レズビアンやゲイなどのLGBT(性的少数者)に関する課題を検討するプロジェクトチーム(PT)を近く党内に設置する方針を決めた。稲田朋美政調会長が同日の政調幹部会で「人権侵害や差別はなくさなければならない」とPTの設置を提案し、了承された。LGBTをめぐっては、東京都の渋谷区と世田谷区が同性カップルを男女間の結婚に相当する関係として認める証明書を発行するなど、自治体レベルでの対応が先行している。PTでは、LGBTへの差別をなくす法制度のあり方についても検討する方針だ。 産経新聞 1月14日(木)



なぜか日本では保守政党とされている自民党がこれ。

そして日本で保守メディアとされる産経の報道がこれ。

保守の空気が危機的に薄い日本。救いようがないとはこのことである。

LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)は性的少数者ではない。彼らは性的に異常を持った病人である。これは彼らへの差別ではない。心臓病を患った人を病人と呼ぶことが差別ではないのと同じである。

LGBTの人々は自ら選択して病人となったわけではない。心臓病患者が自ら選択して病人となったわけではないのと同じである。

LGBTという存在は進歩でも開放でもない。遺伝でも先天でもない。LGBTは文化の産物である。

なぜならば世界の歴史においてLGBTの存在は珍しいものではなく、ある時代のある文化ではLGBTが激増(古代ギリシャ・ローマのように)する一方、それ以外の時代・文化においては極少数にとどまるからである。性道徳が退廃する文化においては必然的にLGBTが増えるというのが歴史の法則である。

性道徳が退廃する文化とはまさに日本を含めた今の先進諸国のことである。昨今のLGBT活動家(そっとしておいてもらいたいだけのLGBTと区別して)による権利主張の激しさは退廃した世相を反映するものである。

一般的に言われる「LGBT差別」とは差別ではない。LGBTに結婚が認められないのはLGBTに対する差別ではない。幼児性愛者が幼児と結婚できないのが幼児性愛者に対する差別ではないのと同じである。動物愛者が犬や猫との結婚を認められないのが動物愛者に対する差別ではないのと同じである。親兄弟姉妹が結婚できないのが親兄弟姉妹差別ではないのと同じである。

男性が生来持つ衝動的で破壊的な性質を落ち着かせ、そのエネルギーを建設的で生産的な方向に向けるのが一男一女の結婚である。

将来成長すべき姿としての男性像を男児に教え、将来結婚相手として見出すべき男性像を女児に教える父親。将来成長すべき姿としての女性像を女児に教え、将来結婚相手として見出すべき女性像を男児に教える母親。この父親と母親を子供に与えられるのが一男一女の結婚である。

子供が経済的にも精神的にも安定して成長する環境を整えることができるのが一男一女の結婚である。

男性と女性には性差というものがある。これは差別ではなく事実である。この事実の上に社会が発展する基礎を築いてきたのが一男一女の結婚である。

その基礎を破壊しようとしているのが他ならぬ自称保守・安倍政権である。

保守を自称する政党がLGBTを取り巻く社会の風潮に迎合し、東京渋谷区と世田谷区のパートナーシップ条例を意識して法制度改変もほのめかす。そしてその政党よりも左翼な有象無象の政党がそれを「不十分である」として批判する。この気味悪い動きをけん制する勢力は無い。

ファシズムを予兆させる世の中である。あるいは既に我々はファシズムにどっぷり漬かっているのか・・・。


追記:
●性道徳に厳しいと思われているイスラム世界においてもホモセクシャルが多いことが知られている。イスラム教では一夫多妻を認めている。これは一男一女の契りという結婚観の否定である。本来あるべき男女関係を歪めるとホモセクシャルは必然的に増加するという法則が証明されているわけである。

●HIV・エイズはホモセクシャルの病気である。ホモ以外の人で罹患する人がいないわけではない。ホモの人々が大部分を占めるという統計的事実を述べたまでである。ある人が「HIV・エイズは道徳的な生活(誰もが結婚するまで純潔を守り、結婚してからは貞操を守る)をすれば撲滅可能な病気である。なぜそのために政府が我々の税金を使わなければならないのか?走っている車の前に飛び出すという変なクセのある人々がいるとして、これらの人々に関して政府が『皆でこの不幸な人達を助けよう』と言えば誰もが『バカなことを止めさせればすむことだ』と反応するだろう。同じことではないか?」と言ったが、けだし至言である。

●「ダイバーシティ(多様性)」なる言葉が氾濫する不気味な世の中である。多様性は善であり、正であり、力である、という思い込み・・・あるいはカルト宗教というべきか。多様性が善と発展をもたらしたことは歴史上において一度たりとも無い。多様性は有利性ではない。多様性は克服すべきものである。多様性の代名詞のように勘違いされるアメリカにおいても同様である。世界中から集まる人々は「神への信仰、多数から一つへ、自由」の理念のもと一つの国民である「アメリカ人」になる。それがアメリカの強さの秘密である。

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