"Spygate" 読了

  • 2018.10.28 Sunday
  • 19:43

「トランプ・ロシアゲート疑惑」の何たるかを追い続けてきた保守ポッドキャスターのダン・ボンジーノが集大成を出版した。

「スパイゲート・・・ドナルド・J・トランプ追い落とし作戦」



メディアが世間に流布するいわゆる「疑惑」の内容はこうである。

『トランプはビジネスマン時代からロシアとロシアとつながりがあり、プーチン大統領を尊敬していた。2013年にロシアを訪問した際、ホテルで売春婦と乱交し、それをクレムリンに握られていた。トランプは2016年の大統領選においてクリントンと対峙することになった。トランプはロシアのコネを使い、ロシアに民主党本部をハッキングさせると同時にクリントンに不利な情報をロシア情報機関から仕入れた。ポール・マナフォート、マイケル・フリン、カーター・ペイジ、ジョージ・パパダポラスといった親露的でロシアと繋がりの深い人物を起用し、ロシアから仕入れた情報を有利に使ってトランプは大統領選挙に勝利した。だがトランプのロシアとの共謀が徐々に露呈し、トランプ本人と選挙戦を支えた側近達の国家反逆的な違法行為が次々と白日の下に晒されることになった』

それに対し、本書はロシアゲート疑惑の本質をこのように説明する。

オバマ大統領やクリントン候補、民主党はトランプは共和党内での選挙戦で消えていくものと考えた。だが意外なことに生き残っただけでなく、ヒラリー・クリントンを脅かす存在となった。トランプを阻止しなければならない。それが至上課題となった。

トランプが公言する政策はそれまでの民主党政権においてオバマ大統領とクリントンが行ってきた政策をひっくり返すものであった。そしてトランプが政権につくということは、オバマ大統領とクリントン国務長官(当時)のイラン核開発容認、ロシアのイラン核開発支援の容認、ロシアのウラン確保容認、クリントンの個人メールサーバー使用とオバマの関与、こういった問題行為の数々が裁かれるということを意味した。彼らにとってトランプは危険人物であった。

ヒラリー・クリントンは法律事務所を隠れ蓑にし、ロシアに情報網を持つイギリスのスパイに「ロシア疑惑文書」を作成させる。ジョン・ブレナンCIA長官はそれにお墨付きを与え、ジェームズ・コーミーFBI長官はそれに基づいてトランプ陣営を盗聴する許可を裁判所に申請する。トランプ陣営を罠にはめる作戦が始動する。トランプ阻止の目的を共有する様々な人物がトランプ陣営に入れ代わり立ち代わり近づき、「ロシアが握るクリントンに不利な情報」をチラつかせては「情報に食いついた」証拠をデッチあげ、その報告をFBIに上げる。FBIはそれをもって「トランプ陣営はロシアと共謀している」と裁判所に訴え盗聴許可を得る。

FBIは犯罪行為を発見してその行為の主を捜査するのではなく、特定の人物をターゲットにして罪を探すという法治国家としてあるまじき捜査を繰り広げる。

しかし彼らの作戦は失敗し、トランプは大統領になってしまった。いよいよ憎しみに燃える彼らは「トランプ引き下ろし作戦」に移行する。

オバマ時代からFBI長官を務め、この疑惑の形成に重要な役割を果たしていたジェームズ・コーミーはトランプ大統領に解任される。メディアと民主党は「疑惑の捜査を妨害している!」とトランプ大統領を非難。オバマ時代の残党が牛耳る司法省はロバート・ムラー特別捜査官を任命し、トランプ大統領追い落とし作戦が始まる。ロバート・ムラーはトランプ選挙陣営とトランプ政権に関わる人物を片っ端から狙い撃ちにし、選挙に関係あるなしに関わらずあらゆる手を使ってトランプ大統領の政権運営を妨害しにかかる。

この「疑惑捜査」は大統領選の最中に始まり、トランプが大統領就任後1年が経過しようとしている。

しかし今にいたるまで「疑惑」を証明するものは、何一つ見つかっていない。トランプ大統領の支持率は益々上がる一方、この「疑惑」の本質が日を追うごとに明らかになる。それに関わる人物達の欺瞞と偽善と不道徳が暴かれつつある。彼らは窮地に追い込まれている。本書の出版がとどめを刺す。

本書ではこの疑惑に関わってきた人物を軸に、一連の詳細な流れを時系列でまとめている。

この「疑惑」には複数の国々にまたがる人々がそれぞれの思惑をもって関わっている。ウクライナはクリントンに肩入れした。イギリス情報部とオーストラリアの元外相は疑惑を形成する上で主要な役割を果たした。なぜ彼らが「トランプ阻止」に動いたのか、彼らの思惑とは何だったのか、なぜアメリカのCIAがイギリスの諜報機関に米国民をスパイさせたのか、疑惑の当人であるロシアがアメリカ大統領選をどのように見ていたのか。これらの疑問の答えは本書で明らかにされている。

現職の民主党政権が国家権力を動員するとともに外国の諜報機関をも使って対立政党の共和党の候補者を阻止する作戦を実行し、それが失敗した後にも政府機関とメディアを使って妨害を続ける、という前代未聞のスキャンダルとして、この「ロシアゲート疑惑」は後世に伝えられることになろう。

フォン・ミーゼス「Human Action」読了

  • 2018.09.13 Thursday
  • 12:28


今日の自由主義経済学の始祖的存在であるオーストリア経済学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの金字塔的大作、「ヒューマン・アクション」英語版を読了した。今年の2月頃から読みはじめたから半年以上を費やしたことになる。

ミーゼスは本書において経済というものが数学や物理学のような定数を対象とする学問ではなく、人間という強さと弱さ、感情と情熱、心と思考を持つ動的な存在を対象とする人間行動学であると位置づけて解説する。

前半はこの人間行動学とは何かを延々と述べているのだが、これがミーゼスの母国語であるドイツ語を直訳したような英語でサッパリ意味不明であった。そこで挫折し、1カ月くらい放置していたのだが、やはりこの大作を読まずして経済を知ったつもりになることを恥じて気を取り直して読み進めた次第である。

途中から次第にいわゆる「経済の話し」になっていくわけだが、相変わらずサクサク読める気軽な文体的ではないためある程度の読みにくさはあるものの、そこらへんから徐々に面白味が出てくる。

現時点の理解度でこの大作を簡潔に要約するのは不可能であるため、特筆すべき部分をコメントしながら抜き出していきたい。

【政府の役割について】

ミーゼスはロン・ポールをはじめとする米国リバタリアンの教祖的な存在である。そして日本ではなぜか無政府主義の始祖と誤解されることが多いようである。しかし本書を読めば分かることであるが、ミーゼスは政府の転覆を主張するものではない。むしろ逆で、ミーゼスは政府の役割を明確に認めていることが分かる。ロナルド・レーガン大統領はミーゼスの著書に親しんでいたという。本書から受けた印象としては、リバタリアンというよりもむしろ保守本流に近いのではないか、というものである。

 

The maintenance of a government apparatus of courts, police officers, prisons, and of armed forces requires considerable expenditure. To levy taxes for these purposes is fully compatible with the freedom the individual enjoys in a free market economy. 

Every step a government takes beyond the fulfillment of its essential functions of protecting the smooth operation of the market economy against aggression, whether on the part of domestic or foreign disturbers, is a step forward on a road that directly leads into the totalitarian system where there is no freedom at all. 


司法、警察、刑務所及び軍隊を維持するには相応の原資が必要である。このための課税は自由な経済における個人の自由となんら矛盾するものではない。ただし、政府として必要不可欠な活動である内外の敵からの防衛という一線を越えた活動は、自由が完全に欠如した専制的システムへと直接つながるものである。


そしてミーゼスは、次において防衛に関しては左翼と同じである世の泡沫リバタリアンと完全に袂を分かつ。
 

But as conditions are in our age, a free nation is continually threatened by the aggressive schemes of totalitarian autocracies. If it wants to preserve its freedom, it must be prepared to defend its independence. If the government of a free country forces every citizen to cooperate fully in its designs to repel the aggressors and every able-bodied man to join the armed forces, it does not impose upon the individual a duty that would step beyond the tasks the praxeological law dictates. 

In a world full of unswerving aggressors and enslavers, integral unconditional pacifism is tantamount to unconditional surrender to the most ruthless oppressors. He who wants to remain free, must fight unto death those who are intent upon depriving him of his freedom. 

As isolated attempts on the part of each individual to resist are doomed to failure, the only workable way is to organize resistance by the government. The essential task of government is defense of the social system not only against domestic gangsters but also against external foes. 

He who in our age opposes armaments and conscription is, perhaps unbeknown to himself, an abettor of those aiming at the enslavement of all. 


今日、我々自由国家は専制国家による侵略に脅かされている。我々が自由を維持しようとするならば、独立を防衛する備えをせねばならない。政府が全国民に対して防衛への協力を要請する場合、それは人間行動学の法則に反するものではない。侵略者が跳梁跋扈するこの世界において、平和主義は無条件降伏と同義である。自由であろうとする者は、これら侵略者と死をもってしてでも戦う決意を持たねばならない。侵略者に対する個人の抵抗は不毛であり、政府による集団的自衛のみが有効である。必要不可欠な政府の役割は国内外の敵対勢力からの防衛である。今日、軍備増強と徴兵に反対する者は、我々を隷属させんとする勢力に加担する者に他ならない。

 


【経済学について】

ミーゼスは経済学とは何か、市場とは何かを説く。

 

 

Economics is not, as ignorant positivists repeat again and again, backward because it is not “quantitative.” It is not quantitative and does not measure because there are no constants. 

経済学というものは定量的ではないから後進的だと言う無知の徒がいるが、経済学が定量的ではないのは定数が無いからに他ならない。

Economics is not intent upon pronouncing value judgments. It aims at a cognition of the consequences of certain modes of acting. 

経済学は価値観を表明するためのものではない。それは一定の行動がもたらす結末を認識するためのものである。

The market is not a place, a thing, or a collective entity. The market is a process, actuated by the interplay of the actions of the various individuals cooperating under the division of labor. 

市場とはある場所、あるモノ、ある物体・団体をさすものではない。それは分業において様々な個人が人々と協力しながら交わり合うことによって形成されるプロセスなのである。


ミーゼスは市場経済における分業の重要性を説く。
 

The division of labor splits the various processes of production into minute tasks, many of which can be performed by mechanical devices. It is this fact that made the use of machinery possible and brought about the amazing improvements in technical methods of production. Mechanization is the fruit of the division of labor, its most beneficial achievement, not its motive and fountain spring.

分業によって生産工程は機械でも可能な単純作業に細かく分割される。これによって機械化が進むと同時に生産手段の驚くべき技術的発展をもたらした。機械化は分業の成果であって動機ではない。


社会主義者は市場経済はしばしば「弱肉強食の世界」と揶揄し、多くの人々がその俗説に囚われている。ミーゼスはその俗説をひっくり返す。
 

The regular scheme of arguing is this: A man arbitrarily calls anything he dislikes “capitalistic,” and then deduces from this appellation that the thing is bad. 

とにかくこの世で嫌なものを片っ端から全て集めてはそれを「資本主義のせいだッ」と言うのが定番である。

This faulty nomenclature becomes understandable only if we realize that the pseudo-economists and the politicians who apply it want to prevent people from knowing what the market economy really is. They want to make people believe that all the repulsive manifestations of restrictive government policies are produced by “capitalism.” 

彼ら(似非経済学者)が望むのは、政府政策による規制が生む全ての悪しき結果を人々が資本主義のせいであると信じ込むことである。

In the pitiless biological competition the stronger was always right, and the weaker was left no choice except unconditional surrender. Primitive man was certainly not born free. Only within the frame of a social system can a meaning be attached to the term freedom. 

非情な物理的な競争化において、物理的に強い者が常に正しく、物理的に弱い者が与えられた選択肢は無条件降伏のみである。原始人は決して自由ではなかった。社会の枠組みにおいてのみ、自由という概念が存在しうるのである。

One of the privileges which society affords to the individual is the privilege of living in spite of sickness or physical disability. Sick animals are doomed. Their weakness handicaps them in their attempts to find food and to repel aggression on the part of other animals. Deaf, nearsighted, or crippled savages must perish. But such defects do not deprive a man of the opportunity to adjust himself to life in society. 

動物の世界と違い、人間社会においては病気や物理的欠陥にも関わらず生きる権利を有することである。動物は病気になったら終わりである。病気になれば食糧を得たり他の動物からの攻撃に対抗するにあたりハンディを負う。目や耳や手足が不自由な野獣は死ぬしかない。しかし人間社会において、そのような欠陥を持つ人間は適応すればすむのである。

There is no kind of freedom and liberty other than the kind which the market economy brings about. In a totalitarian hegemonic society the only freedom that is left to the individual, because it cannot be denied to him, is the freedom to commit suicide.

市場経済が与える自由こそが唯一の自由である。専制的な階級社会において個人に残された唯一の自由は、自殺する自由だけである。

 


【利益について】

利益というものを白眼視するのは古今東西を問わず人類の病気である。ミーゼスはその病気に対しても直言する。

 

Profit and loss are the devices by means of which the consumers exercise their supremacy on the market. 

利益と損失は消費者が市場において最高位に君臨するための手段である。

The driving force of the market process is provided neither by the consumers nor by the owners of the means of production—land, capital goods, and labor—but by the promoting and speculating entrepreneurs. These are people intent upon profiting by taking advantage of differences in prices. Quicker of apprehension and farther-sighted than other men, they look around for sources of profit. They buy where and when they deem prices too low, and they sell where and when they deem prices too high. They approach the owners of the factors of production, and their competition sends the prices of these factors up to the limit corresponding to their anticipation of the future prices of the products. They approach the consumers, and their competition forces prices of consumers’ goods down to the point at which the whole supply can be sold. Profit-seeking speculation is the driving force of the market as it is the driving force of production. 

市場プロセスの推進者は消費者でもなければ生産手段の保有者でもなく、気概と山っ気のある起業家である。彼らは価格の違いを利用して利益を得んとする人々である。周囲の人間よりも機を見るに敏で先見の明がある彼らは利益の源泉を探し回る。彼らは価格が過度に安い時と場面で買い、過度に高い時と場面で売る。彼らは生産手段の保有者に競ってアプローチし、その競争によって生産手段の価格は最終製品の予想される将来の価格に従ってギリギリまで引き上げられる。一方彼らは消費者に競ってアプローチし、その競争によって商品がきれいに売りさばけるくらいまでに引き下げられる。利益を求める行為こそが生産を促すものであり、市場の原動力なのである。

The entrepreneur is the agency that prevents the persistence of a state of production unsuitable to fill the most urgent wants of the consumers in the cheapest way. 

起業家というのは、消費者の抱える最も火急な必要性を最も安く解決することが妨げられるような状況が長引くのを防止する者達である。※簡単に言い直すと、人々が一番困っていることを一番お安く解決するのが起業家だ、ということである。

The mentality of the promoters, speculators, and entrepreneurs is not different from that of their fellow men. They are merely superior to the masses in mental power and energy. They are the leaders on the way toward material progress. They are the first to understand that there is a discrepancy between what is done and what could be done. 

商売人、山師、起業家と呼ばれる人々は精神性が一般人と違うわけではない。彼らは一般大衆よりも精神力と活力に優れているだけである。彼らは物質的発展におけるリーダーである。成された事と成しうる事との間にある乖離を最初に見出すのが彼らなのである。

The competition among the entrepreneurs is ultimately a competition among the various possibilities open to men to remove their uneasiness as far as possible by the acquisition of consumers’ goods.

起業家同士の競争とは、つまるところ、消費財が不便さを除去することが可能な複数の選択肢同士の競争である。

 


【労働について】

マルクスは社会を労働者階級と資本家階級とに分断して描いた。それは事実と反する。だからプロパガンダなのであり、そのプロパガンダを体現したソビエト連邦帝国は崩壊したのである。だがその基本思想は結局のところ人類の持病であり、姿を変えて人々の心に巣食っている。ミーゼスは労働を特別視する人々の誤解を直撃する。手を動かして働く人間だけが富を創出するのではないのだ、と。

 

Yet bare labor produces very little if not aided by the employment of the outcome of previous saving and accumulation of capital. The products are the outgrowth of a cooperation of labor with tools and other capital goods directed by provident entrepreneurial design. The savers, whose saving accumulated and maintains the capital, and the entrepreneurs, who channel the capital into those employments in which it best serves the consumers, are no less indispensable for the process of production than the toilers. It is nonsensical to impute the whole product to the purveyors of labor and to pass over in silence the contribution of the purveyors of capital and of entrepreneurial ideas. 

実際のところ、貯蓄と財の蓄積の結果を活用することによる恩恵無しに肉体労働が生産できるものはほとんど無い。製品というものは、先見の明に裏打ちされた起業家の計画によって手配される道具や財が人々の労働と協働することによって実現化される。財を蓄積し維持する貯蓄者、そしてその財を消費者へ最大のサービスを提供するために活用する起業家の、生産活動における不可欠性は、いわゆる労働者と比べていささかも劣るものではない。いわゆる労働者だけが製品を製造するものであるとし、財や事業構想による貢献を無視するのは無意味である。

The selective function of the market works also with regard to labor. The worker is attracted by that kind of work in which he can expect to earn most. As is the case with material factors of production, the factor labor too is allocated to those employments in which it best serves the consumers. There prevails the tendency not to waste any quantity of labor for the satisfaction of less urgent demand if more urgent demand is still unsatisfied. 

市場の選定機能は労働に関してもその役割を果たす。労働者個人は、最も稼げそうな仕事に惹かれる。労働という要素も、生産の物的要素がそうであるのと同様に消費者へ最大のサービスを提供するという目的に沿って分配される。この機能によって、消費者が抱える最大の問題を優先的に対処されることに労働(という有限の資源)が使われ、些細な問題に浪費されないよう促されるのである。
 


【価格について】
価格を理解するものは経済を理解する。

 

The ultimate source of the determination of prices is the value judgments of the consumers. Prices are the outcome of the valuation preferring a to b.

価格の最終決定要因は消費者の価値判断である。価格はAかBのどちらが望ましいかの判断の結果である。

Each individual, in buying or not buying and in selling or not selling, contributes his share to the formation of the market prices. But the larger the market is, the smaller is the weight of each individual’s contribution. Thus the structure of market prices appears to the individual as a datum to which he must adjust his own conduct. 

買うか買わないかによって、また売るか売らないかによって、個人は市場価格の決定に個人としての貢献をする。しかし市場が大きければ大きいほど、個人の持つウェイトは小さくなる。よって市場価格の構造は個人にとっては自身の行動を調整しなければならない基準のように見えるのである。

A government can no more determine prices than a goose can lay hen’s eggs. 

ガチョウが鶏の卵を産むことができないように政府は価格を決定することができない。

However, precisely because we want to examine these problems it is necessary clearly to distinguish between prices and government decrees. Prices are by definition determined by peoples’ buying and selling or abstention from buying and selling. They must not be confused with fiats issued by governments or other agencies enforcing their orders by an apparatus of coercion and compulsion.[ 191] 

しかし、我々はこの問題を正確に検証したいと望むがゆえに、価格と政府の法令との違いを明確に区分する必要がある。価格とは、人々の売買、あるいは売買の欠如によって決定されるものと定義される。政府や他の集団が人々に強制、強要するために公布する命令と混同されてはならない。

 


【教育について】
教育というサービスを特別視するがために、その役割が政府に飲み込まれて制度化され、我々はその制度の囚人と化している。今日の高等教育無償化の議論などまさにこれである。

 

It is often asserted that the poor man’s failure in the competition of the market is caused by his lack of education. Equality of opportunity, it is said, could be provided only by making education at every level accessible to all. There prevails today the tendency to reduce all differences among various peoples to their education and to deny the existence of inborn inequalities in intellect, will power, and character. It is not generally realized that education can never be more than indoctrination with theories and ideas already developed. Education, whatever benefits it may confer, is transmission of traditional doctrines and valuations; it is by necessity conservative. It produces imitation and routine, not improvement and progress. Innovators and creative geniuses cannot be reared in schools. They are precisely the men who defy what the school has taught them. 

しばしば、貧しき者が競争で負けるのは教育が足りないからであると主張する者がいる。あらゆる階層の教育を万人に提供することによって機会の平等が実現する、と彼らは言う。今日、人々の間の教育に関する違いを減らし、生まれながらの知力、気力、性格の違いといったものを否定しようとする傾向が優勢である。教育は、すでに確立された思想や想念による洗脳になりうる、ということは一般的に認識されていない。教育というものは、それがどのような利益があるにせよ、伝統的な思想と価値観を伝えるものであり、それは必然的に保守的なものである。それは改善と発展ではなく模倣と繰り返しを生産する。革新する者や創造的な天才を学校で育てることはできない。彼らはまさに学校で教わったことに逆らう者達である。
 


【政府が支出することについて】

日本では、人々がお金を使えるように再分配しましょうという考えがほぼ全ての政治的議論の前提となっている。誰が、誰に、どうやって、どのくらい分配するか、の議論が延々と続いている。それがいかにバカげたことか、この例をもって木っ端みじんである。

 

This paralogism can easily be exploded by referring to the well-known anecdote of the man who asks an innkeeper for a gift of ten dollars; it will not cost him anything because the beggar promises to spend the whole amount in his inn. 

ある男が旅館の主に対してこう言ったらどうであろうか。「私に10ドル下さい。貴方は何も失うものはありません。私は貴方の旅館でこの10ドルを全部使うと約束しますから」
 


【インフレ政策について】
歴史のある政府の経済政策の代表がインフレ政策である。歴史上、各国でそれが行われ、人々は様々な辛酸をなめ、時が経ち、忘れ、また繰り返す。今日の日本でもそれが現在進行中である。人はそれをアベノミクスと呼ぶ。インフレ政策は安倍さんの発明品ではないのだが、人はそう呼ぶ。歴史を忘れた証拠である。

 

Yet, men are not infallible. A certain amount of malinvestment is unavoidable. What has to be done is to shun policies that like credit expansion artificially foster malinvestment. 

人というものは完全無欠ではない。一定の誤投資は不可避である。避けねばならないのは、量的緩和のような誤投資を人為的に促進する政策である。

It was not realized that changes in the quantity of money can never affect the prices of all goods and services at the same time and to the same extent. 

貨幣量の変化は全ての商品、サービスの価格に同時に同じ程度影響を与えるわけではない、ということは一般的に理解されていない。

In the course of a monetary expansion (inflation) the first reaction is not only that the prices of some of them rise more quickly and more steeply than others. It may also occur that some fall at first as they are for the most part demanded by those groups whose interests are hurt. 

金融拡大(インフレ)の進行において、あるものが他のものよりも急激に、そして大幅に値上がりするだけでなく、値上がりがある集団の利益を失するような場合、その集団に需要のあるものがまずは値下がりする場合もある。

If an inflationary movement and a deflationary one occur at the same time or if an inflation is temporally followed by a deflation in such a way that prices finally are not very much changed, the social consequences of each of the two movements do not cancel each other. To the social consequences of an inflation those of a deflation are added. There is no reason to assume that all or even most of those favored by one movement will be hurt by the second one, or vice versa.

インフレとデフレが同時に起きた場合、あるいはインフレに続いてデフレが生じ、価格がそれほど変わらない場合、インフレとデフレのそれぞれによる社会的悪影響は相殺されるものではない。インフレによる悪影響にデフレの悪影響が加わるのである。一方によって得をする人々が他方によって損をするとは限らないのである。

Money is an element of change not because it “circulates,” but because it is kept in cash holdings. Only because people expect changes about the kind and extent of which they have no certain knowledge whatsoever, do they keep money.

貨幣は変化の要素であるが、それは「世を回る」からではなく、ため込まれるからである。人々が将来の動向に対して見通しが立てられない時、不透明さの分だけ人々は金をため込む。

First: Inflationary or expansionist policy must result in overconsumption on the one hand and in malinvestment on the other. It thus squanders capital and impairs the future state of want-satisfaction.

Second: The inflationary process does not remove the necessity of adjusting production and reallocating resources. It merely postpones it and thereby makes it more troublesome. 

Third: Inflation cannot be employed as a permanent policy because it must, when continued, finally result in a breakdown of the monetary system. 


インフレの害悪:
第一:インフレもしくは金融緩和政策は過度な消費と誤投資につながる。それによって財が浪費され、将来の需要満足を阻害する。

第二:インフレの進行によって生産と資源配分の必要性が除去されるわけではない。その必要性はただ単に先送りされるだけであり、状況は悪化するのみである。

第三:インフレは持続可能な政策ではない。なぜならばいつかは金融システムの崩壊につながるからである。


A retailer or innkeeper can easily fall prey to the illusion that all that is needed to make him and his colleagues more prosperous is more spending on the part of the public. In his eyes the main thing is to impel people to spend more. But it is amazing that this belief could be presented to the world as a new social philosophy. Lord Keynes and his disciples make the lack of the propensity to consume responsible for what they deem unsatisfactory in economic conditions. What is needed, in their eyes, to make men more prosperous is not an increase in production, but an increase in spending. 

特に小売業者や旅行業者などは彼らが豊かになるには公的支出を増やせばよいという幻想に陥りやすい。彼らの目には、必要なのは人々がもっと金を使うことだ、と見える。しかしこの信仰が斬新な社会哲学として全世界に広められている事実は驚くべきことである。ケインズと信徒達は経済における悪しき状況の原因は人々の消費に対する積極性の欠如であるとする。人々を豊かにするために必要なのは生産を増やすことではなく、消費を増やすことだ、と彼らは言う。

But even at the time liberalism enjoyed its highest prestige and governments were more eager to preserve peace and well-being than to foment war, death, destruction, and misery, people were biased in dealing with the problems of banking. Outside of the Anglo-Saxon countries public opinion was convinced that it is one of the main tasks of good government to lower the rate of interest and that credit expansion is the appropriate means for the attainment of this end.

自由主義が絶好調で、各国政府が戦争と死と破壊と惨めさを推進するかわりに平和と幸福の維持に努めていたかつての時代にあっても、人々はやはり金融に対する偏見に囚われていた。アングロサクソン以外の国々にあっては、金利を下げることは政府の重要な役割であり、金融拡大はその目的を達成するための適切な手段である、と大多数の人々は信じていた。
 


【特許、著作権について】
一部のリバタリアンは特許や著作権など無くしてしまえ、というだが、ミーゼスは少なくとも本書においてそのようなことは述べていない。一方、人々は独占・寡占というものを「行き過ぎた資本主義の悪」と勘違いする傾向がある。ミーゼスはその誤謬を正す。

 

The publisher of a copyright book is a monopolist. But he may not be able to sell a single copy, no matter how low the price he asks. Not every price at which a monopolist sells a monopolized commodity is a monopoly price.

著作権を有する本の出版者は寡占者である。だが、その出版者はその本の価格をどれほど安くしても一冊も売れない可能性があるのである。寡占者が寡占商品を売る価格は必ずしも寡占価格ではないのである。

As a rule the state of affairs that makes the emergence of monopoly prices possible is brought about by government policies, e.g., customs barriers.

寡占価格が出現する原因は他でもなく輸入規制のような政府の政策によるものである。

The important place that cartels occupy in our time is an outcome of the interventionist policies adopted by the governments of all countries. The monopoly problem mankind has to face today is not an outgrowth of the operation of the market economy. It is a product of purposive action on the part of governments. It is not one of the evils inherent in capitalism as the demagogues trumpet. It is, on the contrary, the fruit of policies hostile to capitalism and intent upon sabotaging and destroying its operation. 

今日の我々の社会において生じる寡占は各国政府の介入政策によるものである。我々が直面する独占は市場経済の運営による結果ではない。それは政府による意図的な行動の結果である。デマゴーグが吹聴する「資本主義の悪」でも何でもない。事実は完全に逆であり、それは資本主義に対する敵対的な政策と、その運営を阻害し破壊せんとする意思による成果である。
 


【政府介入、規制について】

長いこと国会ですったもんだした森本問題や加計問題など、そもそも政府の介入がなければ存在しえない現象である。国会で騒ぐ政治家連中のなかでその問題の根本を指摘する者はいない。
 

In an unhampered market economy the capitalists and entrepreneurs cannot expect an advantage from bribing officeholders and politicians. On the other hand, the officeholders and politicians are not in a position to blackmail businessmen and to extort graft from them.

自由な経済において、資本家や起業家は官僚や政治家に賄賂を渡すことでの利益は期待できない。同時に官僚も政治家も、ビジネスマンを脅すことも彼らにたかることもできない。

In many countries interventionism has so undermined the supremacy of the market that it is more advantageous for a businessman to rely upon the aid of those in political office than upon the best satisfaction of the needs of the consumers. 

多くの国々において、介入主義があまりにも浸透して市場の地位を貶めているがために、ビジネスマンにとっては消費者を最大限満足させることよりも政府の庇護を得ることのほうが利益になるに至ったのである。

 

やっとのことで最終頁まで辿り着いた。この歴史に残る大作をまたいつか読み直したい。

 

我が国は1949年にミーゼスが本書において歴史上の例を挙げつつ避けるべきこととして警告したことを「忠実に」実行してきた。アベノミクスはそれを加速している。ハイパーインフレーションをはじめとする猛烈なしっぺ返しがくるのか。来ないだろう、と希望的観測を持つ理由を探すほうが難しい。その事を実感し、将来への不安を強めた数ヵ月であった。

 

"Hero: Being the Strong Father Your Children Need " 読了

  • 2017.11.12 Sunday
  • 16:54



「母親は父親の代わりができるが、父親は母親の代わりはできない」などという嘘が自称専門家によってまことしやかに語られる今日。父親がドラマや映画やアニメにおいて優柔不断で偽善で意地悪で無責任で愚かな存在として描かれる今日。政府から学界からメディアまでが父親を不要な存在とすべしとする今日。父親という存在は危機に直面している。

本書はこのような今日を生きる世の父親を励まし、鼓舞し、勇気づけるために書かれた。

著者は父親の存在の重要性を説明する。子供が育つ上で、感情、心理、身体、知性、あらゆる面において父親の果たす役割は大きい。父親不在の子供の心には父親の形をした穴がぽっかりと開いたままである。

父親が自分自身をどうとらえようが、子供が見る父親の姿はヒーローである。

著者は世の父親に対し、ヒーローとしてあるべき姿に立ち返るよう呼びかける。それは社会的地位や収入とは関係がない。それは大人の男性としてのあるべき姿を示すこと。家庭における道徳的指導者となること。良いことと悪いことを知ることを、生き方によって示すこと。規律と基準を明確にし、それを実行すること。人間としての良き見本を示すこと。

良きこと、それは例えば他者への尊敬、勤勉、親切さ、優しさ、家庭第一、正直、誠実、自己制御、信心深さ。

悪しきこと、それは例えば他者への非礼、他者への攻撃、利己主義、思いやりの無さ、汚い言葉遣い、怠惰、不正直、不誠実、偏見。

著者はこれらの基準を自分自身に対してだけでなく子供に対しても明確にし、基準を高く設定して子供を導くことを勧める。

感情を高ぶらせて騒ぐ子供を汚い言葉で怒鳴り返すのではなく、静かな落ち着いた態度で自制心を示す。社会の風潮に惑わされずに必要な時には「否」と言う。テレビゲームを唯々諾々と買い与える親が主流だが青少年の問題を引き起こしている主因は”スクリーン”である。幼少から父親と良好な意思疎通をもった子供は青年期に問題を起こす確率は低い。

世の父親達は自信喪失している。著者は完璧な父親である必要はないという。良き父親になろうとするならば、とにかく子供のために沢山の時間を使うことだという。何もしゃべらなくてもよい。一緒に釣りをしたりして遊ぶだけでよい。父親が発する心無い言葉は子供の心に突き刺さる。父親が発する暖かい言葉は子供を勇気づけ、鼓舞する。

著者はキリスト教徒として祈りの重要性に触れる。小さな子供は人が考える以上に精神的であり、神や天使といった存在に敏感である。父親が家族の祈りを主導することによって家族の親密さと結束は強くなる。

子供は成長するに従い扱いにくくなる。触れ合うのを拒否したり親への嫌悪を口にしたり引きこもったりすることもある。

だが著者は繰り返し言う。絶対にそういった態度を自分(親)に向けられたものとして受け取ってはならないと。ましてや、それがために「もう子供は自分を必要としないのだ」などと思ってはならない。子供は湧き上がる感情をうまく整理し制御することができないだけである。それは成長の過程である。決して子供を見捨ててはならない。父親はいつでも子供にとってのヒーローだからである。


"Darwin on Trial" 読了・・・進化論という宗教

  • 2017.11.05 Sunday
  • 17:37

「アメリカ南部の保守的な地域の学校ではいまだに進化論が教えられていない。なんと後進的なのか!」という類の意見を目にすることがある。日本では進化論が輸入され、無批判に科学として受け入れられ、学校で教えられ、人々は疑いの念を持たない。



本書はダーウィニズム(進化論)が実のところ科学の衣をまとった宗教に過ぎないことを明らかにする。

科学は宗教ではない。宗教というものは、神による地球、生物、人類の創造やキリストの蘇りといった通常我々の知識常識では考えられないことをも信じることである。科学というものは、仮説を立て、それを証明する証拠を集め、その証拠を批判的に検証して正しいことを実証することである。

ダーウィニズム(進化論)によると、まず地球上に無機物の浮遊する海があり、それが何らかの力によって有機物となり、それが何らかの力によってバクテリア(生物)となり、それが何らかの力によって徐々に進化して獣弓類(哺乳類型爬虫類)や始祖鳥となり、獣弓類から哺乳類となり、その中からサルへ、サルの一部が人間となった、というものである。

ダーウィニズムが科学であるためにはこれらの流れを証拠によって裏付け、更にその証拠が妥当であるか否かを批判に晒さねばならない。

進化論の最大の敵は考古学である。なぜならば、ダーウィンの時代から今まで次々と発掘される化石はダーウィンの理論を証明するどころか、逆にダーウィンの理論の誤謬を示すもの以外の何ものでもないからである。

40億年前から存在し始めたバクテリアや藻類、6億年前のカンブリア大爆発によって突如として大量出現した様々な生物、数百年前から今まで何の進化も遂げずに存在し続けるオウム貝のような「化石生物」の存在・・・ これらが証明するのはダーウィンが唱えた進化ではなかった。

化石が示す事実は、生物はある時点で前触れもなく突如として出現し、その後何百年もの間変化もせずに存在し、そしてある時に突如として滅亡し、その後別の生物がやはり突如現れては変化せずに絶滅するまで生きるという繰り返しである。

ダーウィンの進化論は生物は徐々に進化を遂げたというものであるが、人間を含む生物の進化途中の状態を示す化石等の証拠は皆無である。例えば、無機物から有機物(アミノ酸)が生成され、そこから生物が誕生、というくだりを証明するために様々な科学実験が行われてきたが失敗に終わっている。生物のDNAは奇跡的ともいえるほど複雑である。「何らかの力で生物が誕生」という進化論の考え方を、本書では「まるで都市を襲った竜巻によって巻き上げられた様々なモノが偶然ボーイング747号機に組み立てられた」ようなものだと形容されている。

進化論は適者生存の理論であり、生存に適した特性を持つ生物が生き残り、それによって生物は徐々に進化していくという考え方であるが、ここでも矛盾を抱えている。本書では孔雀の例が挙げられている。孔雀のオスは目立つ派手な色彩の大きな羽を持つ。それはメスを引き寄せるためのものである。しかしその羽は飛行には全く適さず、逆に天敵をおびき寄せてしまう。このように「生存に適さない」羽を持つオスを求めるようなメスが「適者生存」によって生き残ってきたのは何故なのか、ということである。

また、例えば陸上生物が「長い期間を経て徐々に」鳥になったとすれば、かなりの期間、その生物は「手でもなく羽でもない」中途半端な突起物を持った状態で過ごすことになる。これはモノを掴むこともできず、さりとて飛ぶこともできない、という生存上非常に不利な状態を意味する。適者生存の考え方とは真っ向から矛盾するものである。

そして、そのような中間状態の化石証拠は皆無である。

証拠の欠如に対する進化論者の説明は「まだ見つかっていないだけだ」といった言い逃れに類するものばかりである。

更には「徐々に進化」が証明しえないがために「ある時点で大きく飛躍して進化した」という説を唱える亜流がダーウィンの後で出てきている。これはいわば「変身」であり、「神が人を作られた」という宗教と非科学という点では同じである。

著者は進化論者の持つ非科学性と宗教性について説明する。進化論者にとって、その説に疑問を呈する者は許されざる者である。信じぬものは呪われる。信じぬものは異端。それはマルクス主義やフロイトの心理学といったイデオロギーに通じるものである。主張が先にあり、それを裏付ける「証拠」が選定される。それを否定する証拠は「存在しない」あるいは「意味をなさない」。

本書を著した人物は宗教的な人物でもなく科学者でもない、中立な立場で論理によって説の確かさを検証しようとする法律家である。本書の目的は「神が人間を作った」という創造論を支持するためではない。

本書の目的は生物はどうやって生まれたのか、そして人間はどこからやってきたのか、それはまだ解き明かされていない謎なのだ、ということを証明し、科学を進化論という宗教から解放することである。

"Rediscovering Americanism"読了

  • 2017.09.17 Sunday
  • 12:15


Rediscovering Americanism and the Tyranny of Progressivism

アメリカ主義と進歩主義による専制の再発見、と題される本書は、たゆまぬ信念で全米に保守主義を啓蒙する言論人、マーク・レビンの最新の著書である。

生命、自由、そして幸福の追求を人々の神から与えられた権利であるとし、その権利を守るために英国から独立して政府を樹立すると謳った独立宣言、そしてその政府を樹立するための法的枠組みを記した合衆国憲法、これらに凝縮された精神をレビン氏は「アメリカ主義」と呼んでいる。

アメリカ主義とは米国においては伝統的な保守主義のことである。しかしトランプ政権の誕生に代表される国家主義やポピュリズムといった「何か違うもの」によって人々は米国の保守主義とその本質を見失いかけている。それに警鐘を鳴らし、保守主義とは米国建国のルーツそのもの(アメリカ主義)なのだということを示し、一方で保守主義・アメリカ主義に対する多方面からの攻撃が歴史的にどこからやってきたのかを解き明かすのが本書の目的である。

著者のレビン氏はアメリカ主義の根本は西洋文明の起源に遡るとしている。アリストテレス、キケロ、ジョン・ロック、シドニー、エドマンド・バーク、モンテスキュー、アダム・スミスといった人々の語った言葉を引用し、個人の自由と道徳は神が人間に与えた至高のものであるとする自然法こそがアメリカ主義の理念の源流であるとしている。これらの人物はそれぞれ生きた時代も宗派も考え方も異なっていたが、共通しているのは神あるいは創造主という存在に対する畏敬の念である。

そのアメリカ主義と対立する進歩主義はヨーロッパで育まれた。ルソー、ヘーゲル、ロベスピエール、カール・マルクスといった人物が進歩主義の哲学的基盤を作った。そしてそれは19世紀にアメリカに輸入され、ハーバート・クローリー、セオドア・ルーズベルト、ジョン・デュウィー、ウッドロー・ウィルソンといった言論人、哲学者、政治家によって徐々にアメリカにも浸透していった。進歩主義が敵視したのはまさにアメリカ主義とその源流である自然法であった。

アメリカ主義が消極法(negative law)を重視する一方で進歩主義は積極法(positive law)を推進する。本書は積極と消極という言葉に惑わされて間違いやすいこれらの概念を説明する。消極法とは「政府はこれこれをしてはならない」と政府の領域を限定し、同時に個人の領域を守るものである。積極法は「政府はこれこれをするべきである」と政府の領域を限定せず拡大を促進し、ひいては政府・官僚機構の肥大化、自由喪失、専制へとつながるものである。

人間の自由と生命は神が与えたものであり、神聖にして侵害してはならないという概念を普遍的な真理であるとする自然法、そしてその自然法を国家として成就させたアメリカ主義。一方普遍的な真理の存在を否定し、集団主義と中央集権によって人間社会は常に上昇していき、最終的には平等な理想社会が実現するとする進歩主義。

19世紀から20世紀はアメリカ主義が開花した時代であった。人類の歴史上類の無い規模で富が創出され、技術の進歩により人々は貧困を克服し、寿命を延ばし、生活を豊かにした。富創出の原動力は個人の自由と財産の保護による産業の勃興であった。

一方の進歩主義は社会主義、ナチズム、ファシズム、共産主義へと発展し、未曽有の殺戮をもたらした。ソ連崩壊後もその哲学は官僚組織として米国社会に深く根を下ろして生き長らえることになった。そして今、米国社会の持続と繁栄をもたらしてきたアメリカ主義は進歩主義の攻勢によって危機に直面している。

本書はアメリカ主義と進歩主義を歴史的なルーツから掘り起こして明確に対比させ、極左の民主党と非保守のトランプが争いと迎合を繰り返し、それを左右両側がスポーツ対決の感覚で囃し立てるばかりの現在の米国社会に「真面目になれ!」の鉄槌を下す。そして低劣で皮相な泥仕合に没頭するのか、無関心に逃げるのか、建国の理念に立ち返るのかの決断を迫る。

著者は米国のために本書を著した。だが日本人が読んでも読みごたえのある一冊である。絶え間ない政府領域の増大も真理・哲学・価値観の喪失も自由と繁栄の喪失もまさにわが日本の問題でもある。このような著者が存在しない我が国は更に危機的であると言わざるを得ない。



参照:ジム・デミント元上院議員のマーク・レビンへのインタビュー

金本位制・・・富よ再び

  • 2017.06.18 Sunday
  • 15:01



もしも今日の1センチが明日は0.9センチになり、明後日には0.8センチになったら。 もしも今日の1分が明日は1分8秒になり、明後日には1分12秒になったら。もしも同じ重さのものが日々それぞれの地域で尺度が変わったら。日々時間の単位が変動したら。

この世は混乱の極みである。「ここは25センチにしてください」 「はい、それは本日午後のレート換算でいいですよね・・・東京レートでいいですか、名古屋ですか、大阪ですか・・・名目レートですか、それとも実質ですか・・・」

計量の尺度は不変でなければ意味がない。不変でなければ信頼がない。信頼がなければ疑心暗鬼が生じる。疑心暗鬼はコストである。そのコストは社会のあらゆる商品・サービスの価格を引き上げ、人々の生活を脅かす。

貨幣も全く同じである。

ニクソン大統領による金本位制廃止後、貨幣は拠り所となる不変の尺度を失い、信頼と価値を失った。その結果がバブルであり、バブル崩壊であり、景気低迷であり、際限なき政府のインフレ政策であり、高騰する様々な商品サービスの価格である。

本書”Money: How the Destruction of the Dollar Threatens the Global Economy - and What We Can Do About It”の著者、フォーブス誌で有名なスティーブ・フォーブスは21世紀にあるべき金本位制を提唱する。本書は以下のことを明らかにする。

 
  • 貨幣の価値の尺度は金でなければならず、他の何ものもとってかわることはできない。
  • 金によって貨幣が制御されていた時代こそが爆発的な富の増大をもたらした。
  • 金本位制こそが輪転機を回そうとする政府を抑止し、インフレを撲滅する唯一の仕組みである。当然インフレ政策のみならず、その元となる野放図な政府支出を抑制する。
  • 金本位制によって中央銀行の権限は大幅に縮小され、恣意的な金融政策は根絶される。※黒田バズーカ砲は没収・解体。
  • 貨幣が金に制御される世界において、通貨間の交換レートは安定し、ジョージ・ソロスに代表される破壊的な投機屋は出番を失う。
  • 貨幣が安定した価値を持つ世界において、貨幣は資源や農産物といったコモディティ関連への投機から離れ、生産、勤労、創意工夫、起業家精神に対する投資へと向かう。
  • 金本位制によって再び富の創造が始まる。

本書は金本位制に対してありがちな誤解や不理解に対する明確な答えを与える。通貨発行量が金の保有量に限定されるため経済が縮小しデフレに陥る、などはその典型である。

1センチを規定するのは国家規格である。+/ーの交差の厳密に規定される。その規格があるがゆえに定規の供給量が制限されて定規不足に陥るなどということは発生しない。金本位制と貨幣も同じ関係である。

本書は世界に与える影響の大きなアメリカ経済に対する憂慮の念から書かれた。しかし本書を本当に必要としているのは経済を知る人間が政界にも経済界にも一人も存在しない我が日本であろう。





Smart Money Smart Kids 読了

  • 2017.04.23 Sunday
  • 18:40

デイブ・ラムゼーは全米を舞台にして「お金」にまつわるラジオ相談番組を展開する人物。レイチェル・クルーズはデイブ・ラムゼーの娘であり、父同様にパーソナル・ファイナンスについての著述家として活躍する人物である。

かつて、借金は恥であった。借金があることは後ろめたいことであった。借金は克服すべきものであった。

だが現代は借金の時代である。借りてナンボ、借りられるのが甲斐性の世の中である。政治はもとよりメディアから教育界まであらゆる局面において借金は称揚される。

本書の著者二人はそのような現代に蔓延する社会風潮に対して真っ向から否をつきつけ、
健全なる次世代のために現在子育て中の親に向けて「外れ者の生き方」を指南する。

著者曰く:
教育ローンは借金である。貯めてから進学すべし!
車のローンは借金である。貯めてから買うべし!
家のローンは借金である。貯めてから買うべし!
クレジットカードは借金である。捨てるべし!
あらゆる支払い義務は借金である。欺瞞を捨てるべし!

著者は借金は悪であり、その足かせからいち早く抜け出すべしであると断じる。そして親自身が現金主義の価値観をまずは身に着け、それを子供へと伝えていくべきであるという。

本書は勤勉、勤労、節制、規律といった価値観をいかに親から子へと受け継ぐべきかを説明する。本書は繰り返し強調する。子供は親を見ていると。子供は言われることよりも見ることから学ぶと。だからまずは親自身がしっかりすることが何よりも重要であると。

親が子へ「むやみに無駄遣いするんじゃないよ」と説教しながら自らは現金支払いできない高額商品を借金で買うということをやるならば、子は間違った価値観を学ぶことになる。親が子へ「ちゃんとお金は考えて使うんだよ」と説教しながら自らはその場の気分で買い物をしているならば、子は正しいお金の使い方を学ぶことは出来ない。

著者はひたすらケチケチとカネを貯めるのが好きなカネの亡者ではない。著者は「三通の袋」を推奨する。まず第一は「貯める」でも「使う」でもない。何かというと「与える」である。その後で「貯める」と「使う」が続く。著者は熱心なキリスト教徒である。キリスト教では収入の10%を教会に寄付したり恵まれない人々へ与えることが求められている。

著者は言う。この世の全てのものは神の創造物であり、神の持ち物であると。我々はその神の所有物を管理することを委託されているだけであると。だからカネにしがみつくことなく与えることが出来るのだと。本書はこの「与える」に関してかなりの紙面を割いて説明している。これは特筆すべきことである。彼らは自信をもって断言する。彼らの成功はこの信仰に根差した価値観が与えたものであると。

著者は子供に家事をやらせて対価としてお金を払い、そのお金を「三通の封筒」で管理させることで小さいうちから「与える、貯める、使う」の中でお金に対するスキルを磨かせることを推奨する。本書には子供時代から青年時代にかけてバイトも含めて徐々に扱う金を増やしつつスキルを磨かせ、立派にやりくりができる人物に育てるための哲学や手法がちりばめられている。

子供には自分で貯めた金で欲しいものを買わせるべし!
親は子供の将来の学費よりも先に自分の老後の資金を貯めろ!
子は必要ならば大学の学費を自分で工面すべし!

世の「常識」に挑戦するかのような言葉に目からうろこが落ちる。お金にまつわる状況が益々難しくなるこの世において、貴重な示唆を与えてくれる一冊である。

Smart Money, Smart Kids by Dave Ramsey and Rachel Cruze at Gateway Church

「ケインズはどこで間違えたのか」読了

  • 2017.03.19 Sunday
  • 21:23



Where Keynes Went Wrong = ケインズはどこで間違えたのか

カネを貯めるな!
カネを使え!
そのために政府はカネを市場に注入して金利を下げてやる!
それでも使わないなら、なりふり構わず政府がカネをつかってやる!
デフレは悪であり、脱却しなければならない!
そのために政府がインフレに持っていく!

我々がいつも聞いているこれらのスローガンは、実はジョン・メイナード・ケインズが提唱したケインズ経済学の理論に他ならない。

本書は、政府による景気刺激策に代表される重商主義的な経済政策こそがバブルとバブル崩壊、そして停滞、恐慌という景気の波を歴史上何度も発生させた原因であると解き明かす(ケインズが提唱した理論はなんら目新しいものはなく、重商主義を経済学に祭り上げただけであった)。

ケインズは非常に難解な言葉と難解な数式で冒頭の数行のスローガンを経済学に仕立て上げた。ケインズは詭弁で人々をそそのかすペテン師であった。そのケインズの破綻した経済理論をいまだに宗教的に信仰しているのが日本政府である。

本書はケインズ経済学の何たるかを平易な言葉で明瞭に示す。そして完膚なきまでに破壊する。そして何が富の増大と経済の発展をもたらすかを説明する。

人々の貯蓄が生産へとつながり、生産は富の創出へとつながる。富の創出によってそこで初めて人々は消費ができる。

この流れは絶対に逆行することはできない。それは本書を読めば明確となる。

「人生100の質問に答える聖書」

  • 2015.12.31 Thursday
  • 15:08

"The Bible's Answers to 100 of Life's Biggest Questions"



先進諸国においてキリスト教離れが進んでいる。

キリスト教徒が無神論者や世俗主義者が呈する疑問に対して有効な反論ができない姿やキリスト教徒の言行不一致を見て若い人々が信仰を維持するのを馬鹿らしいと感じるためである。

本書はキリスト教にまつわるよく見る様々な疑問をQ&A形式で挙げ、回答を与える。

神は存在するのか?
奇跡は起こるのか?
全能の神があるならなぜこの世に悪があるのか?
世界はどうやって始まったのか?
科学と聖書は両立するのか?
聖書は本当なのか?
全能の神はなぜ人に苦しみを与えるのか?
善悪は誰がどうやって決めるのか?
「キリストが唯一の救いの道」とはあまりに非寛容ではないか?
天国・地獄とは何なのか?
プロテスタントとカトリックの共通点・違いは?
中絶は殺人か?
同性婚はなぜ悪なのか?
親切心からの嘘はダメなのか?
安楽死はどう考えればよいのか?
死刑は「殺人」ではないのか?
キリスト教以外の宗教もそれぞれが真実なのか?
エホバの証人とは何なのか?
なぜキリスト教徒の家庭においても離婚が起こるのか?
信者と非信者との男女交際はどう考えるべきか?
家庭での教えはどうすべきなのか?
その他いろいろ

非信者はキリスト教徒に対してこのような質問をして挑戦する。

だがこういった質問に対して一般の多くのキリスト教徒は口ごもるか、話を逸らすか、逆切れするか、紋切り型の答えに終始するかのいずれかである。

その姿を見て非信者は嘲り笑う。

「やっぱりキリスト教なんてマヤカシじゃないか」と。

その反応を目の当たりにしたキリスト教徒自身も自らの信仰に自信を失う。そしてその様子を見た子供は失望して信仰を捨てる。

キリスト教徒が信仰を継承していくためにはこれらの質問に対して自信と優しさを持って的確に論理的に答えられなければならない。

本書はキリスト教徒のために書かれたものである。だがキリスト教に興味を持つ非信者や、キリスト教を敵視する者にとっても興味深い一冊であろう。

「同性婚 - 神の意志は如何に」読了

  • 2015.12.12 Saturday
  • 23:58



"Same-Sex Marriage: A Thoughtful Approach to God's Design for Marriage" Sean McDowell & John Stonestreet

本書の目的は、同性婚が先進各国において支持を得つつある今、LGBT活動家の勢いに押されて意気消沈したキリスト教徒達を目覚めさせ、勇気づけ、行動へと駆り立てることである。

過去数十年の間、社会は大きく変わった。1996年には27%だった同性婚への支持は、現在53%へと増加。しかも18歳〜29歳の若者による支持率は73%にもなる。

すっかり「古臭い価値観に頑迷にしがみつく時代遅れの差別主義者」のレッテルを貼られたキリスト教徒は苦々しい思いで孤立主義や逃げに走り、あるいは「寛容の精神は神の意志だ」とうそぶき同性婚を受け入れる。

著者はいずれの方向性も間違いであると言う。

結婚は政治家や官僚が考案した制度ではなく、神が創造したものである。神はまず天地を創造し、それから自らの代理として男性をつくり、世界をあまねく支配せよと命じる。世界を支配するためには子孫をつくり、増やさねばならない。そこで神は女性をつくり、男性に与え、それを結婚とした。

夫と妻は単なる「気の合う二人」あるいは「愛し合う二人」ではない。子孫を増やして世界を支配せよとの神の意志を実現することを目的とした共同体である。「気が合うこと」は大事である。お互いに憎みあっていては子孫を増やすのは難しい。

「気が合う」や「お互いの愛情」は子孫を増やすための強い動機を与える。だがそれはあくまで動機であって目的ではない。目的は神の意志を実現することである。

性行為も神の意志であり、その目的は結婚した男女の間に子孫を増やすことである。不貞は、それが異性間においても同性間においても、同様に神の意志に反する行為であり、罪である。ゆえに異性間での罪にまみれた「健常者」が一方的に同性愛者を指さして彼らの罪を糾弾するとすれば、それは偽善に他ならない。

自ら「健常者」としての罪を認めつつも、キリスト教徒は真実を語らなければならない。聖書の教えから逸脱することなく、神の意志に忠実であり、神の創造物である全ての人々に対して愛を持って接しなければならない。

同性愛者を断罪するのではなく、愛を持って接しなければならない。彼らに愛して結婚の真の意味を語り、罪なる行為である同性愛から引き離し、神の意志に従った姿へと導いていかなければならない。

著者は同性婚がどのような経緯で今日の姿に至ったかを説明する。

かつて社会で「道化」扱いされたLGBTは長い年月をかけて現在の「地位」を獲得した。LGBT活動家の動きは戦略的であった。まず彼らはLGBTを何かにつけてドラマ、映画、音楽等々に登場させる。LGBTの存在が珍しくなくなると、今度は「LGBTに対する差別」を訴え、健常者を差別主義者として描く。優しく善良で聡明なLGBTと粗野で邪悪で愚鈍な健常者という対比を強調することで論理ではなく感情で訴える。これらメッセージに日々晒された人々はついにLGBT活動家の軍門に下り、LGBTの地位はゆるぎないものとなる。

キリスト教徒にも責任の一端がある。彼らはLGBT活動家が次々と攻勢をかける間に有効なカウンターを撃つことができず、なすがままであった。しかも異性間での性の乱れを許容し、放置し、あるいは自ら放蕩に耽った。古くはプレイボーイからはじまりポルノ、不倫、安易な離婚、結婚前の性行為、妊娠中絶 - これら神の意志に反する行いは他でもなく健常者によるものであった。

このような健常者の行為によって徐々に結婚は生殖(子孫を増やして世界を支配するという神の意志の実現)から切り離されていった。結果として結婚は単なる「同居」へと形骸化していった。結婚が同居となった今、それは一男一女のものから「誰にでもできるもの」となり、当然の帰結として同性婚が出現した。

健常者の神の反逆がLGBTへと道を開いたのであった。健常者の性の堕落がLGBTをもたらし、そして同婚へと繋がった。同性婚は社会の堕落をもたらす「原因」ではなく、社会の堕落がもたらした「結果」である。

もう結婚は終わったのか?社会はもうもとには戻らないのか?キリスト教徒は敗退したのか?

著者はキリスト教徒に対して絶望するなかれと説く。

キリスト教徒には神の意志への回帰を主導する義務がある。それは困難であるが不可能ではない。

歴史上においても性の乱れが極限に達し、「神の意志による結婚」が危機に瀕した時代は存在した。古代ギリシャ・ローマ時代はその一つであり、そこでは女性や子供は「慰みもの」として扱われた。性の神聖性と人間の尊厳を教えて彼らを救ったのがキリスト教であった。

なぜ結婚が必要なのか?本書は4つの目的を挙げる。

1. 性行為を制御するため。
2. 男性を制御する(粗暴性を緩和して生産的行動へ向ける)ため。
3. 女性を保護するため(結婚制度の最大の受益者は女性である)。
4. 子供が成育する環境を整えるため。

これら4つを全て行うことが出来るのは伝統的な男女間の結婚だけである。それ以外のいかなる関係もこれらを全て満足することは不可能である。結婚の定義を人為的に変えたとしてもその事実は不変である。

結婚は社会に安定をもたらし、結婚の失敗は社会に不安定をもたらす。強い結婚文化を持つ社会は安定・発展し、結婚文化が廃れた社会は不安定化し衰退する(文化的にも経済的にも)。

ゆえに、キリスト教徒は「同性婚」を語るのではなく、「結婚」を語らなければならないのである。

キリスト教徒が置かれた環境は敵対的である。彼らは日々様々な試練に晒されている。

「私たちが同性婚したってあなた達の異性婚には影響ないでしょ?何が悪いの?」と言われたら?

もしもゲイの親友から同性婚すると言われたらどう反応したら?

彼らから結婚式に参加してもらいたいと言われたら?

それが勤務先の関係だったら?

同性婚のためのサービスを提供するよう求められたら?

それを断ったがために訴えられたら?

もし同性愛者の友人や知人に同性愛や同性婚についてどう思うかを聞かれたら?

もし知人のキリスト教徒がLGBT許容発言をしたら?


本書はこういったキリスト教徒を取り巻く現実の課題に対して明確な示唆を与える。勇気をもって、機知をもって、そして英知をもって対応しなさいと。

本書はキリスト教徒ではない者が読んでも面白い一冊である。キリスト教の結婚観に非キリスト教徒が同意するか否かは別としてもである。

我々現代の日本人は結婚について曖昧模糊とした観念しか持ち合わせていない。結婚の堕落が社会の堕落をもたらす、とはまさに日本のことである。現在我々が直面する少子化は結婚の減少がもたらしたものである。これは「結婚はコスパが悪い?」といった議論が交わされるシラケた社会ならではの現象である。

そのシラケはどこから来たのか。それは別の探求が必要であるが、信仰心の薄さと関係するように思えてならない。結婚が「神の意志」なら信仰による再興も可能であろう。だが結婚が「コスパ」ならまず無理である。

「同性パートナーシップ」が地方自治体で徐々に導入されている日本において、既に「流れ」は同性婚である。同性婚の法制化は時間の問題であろう。

我々は唯々諾々とその「流れ」を許容するのか。それともいくばくかの抵抗を試みるのか。

そのようなことを考えるキリスト教徒ではない日本人にも強い示唆を与える一冊である。

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