金本位制・・・富よ再び

  • 2017.06.18 Sunday
  • 15:01



もしも今日の1センチが明日は0.9センチになり、明後日には0.8センチになったら。 もしも今日の1分が明日は1分8秒になり、明後日には1分12秒になったら。もしも同じ重さのものが日々それぞれの地域で尺度が変わったら。日々時間の単位が変動したら。

この世は混乱の極みである。「ここは25センチにしてください」 「はい、それは本日午後のレート換算でいいですよね・・・東京レートでいいですか、名古屋ですか、大阪ですか・・・名目レートですか、それとも実質ですか・・・」

計量の尺度は不変でなければ意味がない。不変でなければ信頼がない。信頼がなければ疑心暗鬼が生じる。疑心暗鬼はコストである。そのコストは社会のあらゆる商品・サービスの価格を引き上げ、人々の生活を脅かす。

貨幣も全く同じである。

ニクソン大統領による金本位制廃止後、貨幣は拠り所となる不変の尺度を失い、信頼と価値を失った。その結果がバブルであり、バブル崩壊であり、景気低迷であり、際限なき政府のインフレ政策であり、高騰する様々な商品サービスの価格である。

本書”Money: How the Destruction of the Dollar Threatens the Global Economy - and What We Can Do About It”の著者、フォーブス誌で有名なスティーブ・フォーブスは21世紀にあるべき金本位制を提唱する。本書は以下のことを明らかにする。

 
  • 貨幣の価値の尺度は金でなければならず、他の何ものもとってかわることはできない。
  • 金によって貨幣が制御されていた時代こそが爆発的な富の増大をもたらした。
  • 金本位制こそが輪転機を回そうとする政府を抑止し、インフレを撲滅する唯一の仕組みである。当然インフレ政策のみならず、その元となる野放図な政府支出を抑制する。
  • 金本位制によって中央銀行の権限は大幅に縮小され、恣意的な金融政策は根絶される。※黒田バズーカ砲は没収・解体。
  • 貨幣が金に制御される世界において、通貨間の交換レートは安定し、ジョージ・ソロスに代表される破壊的な投機屋は出番を失う。
  • 貨幣が安定した価値を持つ世界において、貨幣は資源や農産物といったコモディティ関連への投機から離れ、生産、勤労、創意工夫、起業家精神に対する投資へと向かう。
  • 金本位制によって再び富の創造が始まる。

本書は金本位制に対してありがちな誤解や不理解に対する明確な答えを与える。通貨発行量が金の保有量に限定されるため経済が縮小しデフレに陥る、などはその典型である。

1センチを規定するのは国家規格である。+/ーの交差の厳密に規定される。その規格があるがゆえに定規の供給量が制限されて定規不足に陥るなどということは発生しない。金本位制と貨幣も同じ関係である。

本書は世界に与える影響の大きなアメリカ経済に対する憂慮の念から書かれた。しかし本書を本当に必要としているのは経済を知る人間が政界にも経済界にも一人も存在しない我が日本であろう。





Smart Money Smart Kids 読了

  • 2017.04.23 Sunday
  • 18:40

デイブ・ラムゼーは全米を舞台にして「お金」にまつわるラジオ相談番組を展開する人物。レイチェル・クルーズはデイブ・ラムゼーの娘であり、父同様にパーソナル・ファイナンスについての著述家として活躍する人物である。

かつて、借金は恥であった。借金があることは後ろめたいことであった。借金は克服すべきものであった。

だが現代は借金の時代である。借りてナンボ、借りられるのが甲斐性の世の中である。政治はもとよりメディアから教育界まであらゆる局面において借金は称揚される。

本書の著者二人はそのような現代に蔓延する社会風潮に対して真っ向から否をつきつけ、
健全なる次世代のために現在子育て中の親に向けて「外れ者の生き方」を指南する。

著者曰く:
教育ローンは借金である。貯めてから進学すべし!
車のローンは借金である。貯めてから買うべし!
家のローンは借金である。貯めてから買うべし!
クレジットカードは借金である。捨てるべし!
あらゆる支払い義務は借金である。欺瞞を捨てるべし!

著者は借金は悪であり、その足かせからいち早く抜け出すべしであると断じる。そして親自身が現金主義の価値観をまずは身に着け、それを子供へと伝えていくべきであるという。

本書は勤勉、勤労、節制、規律といった価値観をいかに親から子へと受け継ぐべきかを説明する。本書は繰り返し強調する。子供は親を見ていると。子供は言われることよりも見ることから学ぶと。だからまずは親自身がしっかりすることが何よりも重要であると。

親が子へ「むやみに無駄遣いするんじゃないよ」と説教しながら自らは現金支払いできない高額商品を借金で買うということをやるならば、子は間違った価値観を学ぶことになる。親が子へ「ちゃんとお金は考えて使うんだよ」と説教しながら自らはその場の気分で買い物をしているならば、子は正しいお金の使い方を学ぶことは出来ない。

著者はひたすらケチケチとカネを貯めるのが好きなカネの亡者ではない。著者は「三通の袋」を推奨する。まず第一は「貯める」でも「使う」でもない。何かというと「与える」である。その後で「貯める」と「使う」が続く。著者は熱心なキリスト教徒である。キリスト教では収入の10%を教会に寄付したり恵まれない人々へ与えることが求められている。

著者は言う。この世の全てのものは神の創造物であり、神の持ち物であると。我々はその神の所有物を管理することを委託されているだけであると。だからカネにしがみつくことなく与えることが出来るのだと。本書はこの「与える」に関してかなりの紙面を割いて説明している。これは特筆すべきことである。彼らは自信をもって断言する。彼らの成功はこの信仰に根差した価値観が与えたものであると。

著者は子供に家事をやらせて対価としてお金を払い、そのお金を「三通の封筒」で管理させることで小さいうちから「与える、貯める、使う」の中でお金に対するスキルを磨かせることを推奨する。本書には子供時代から青年時代にかけてバイトも含めて徐々に扱う金を増やしつつスキルを磨かせ、立派にやりくりができる人物に育てるための哲学や手法がちりばめられている。

子供には自分で貯めた金で欲しいものを買わせるべし!
親は子供の将来の学費よりも先に自分の老後の資金を貯めろ!
子は必要ならば大学の学費を自分で工面すべし!

世の「常識」に挑戦するかのような言葉に目からうろこが落ちる。お金にまつわる状況が益々難しくなるこの世において、貴重な示唆を与えてくれる一冊である。

Smart Money, Smart Kids by Dave Ramsey and Rachel Cruze at Gateway Church

「ケインズはどこで間違えたのか」読了

  • 2017.03.19 Sunday
  • 21:23



Where Keynes Went Wrong = ケインズはどこで間違えたのか

カネを貯めるな!
カネを使え!
そのために政府はカネを市場に注入して金利を下げてやる!
それでも使わないなら、なりふり構わず政府がカネをつかってやる!
デフレは悪であり、脱却しなければならない!
そのために政府がインフレに持っていく!

我々がいつも聞いているこれらのスローガンは、実はジョン・メイナード・ケインズが提唱したケインズ経済学の理論に他ならない。

本書は、政府による景気刺激策に代表される重商主義的な経済政策こそがバブルとバブル崩壊、そして停滞、恐慌という景気の波を歴史上何度も発生させた原因であると解き明かす(ケインズが提唱した理論はなんら目新しいものはなく、重商主義を経済学に祭り上げただけであった)。

ケインズは非常に難解な言葉と難解な数式で冒頭の数行のスローガンを経済学に仕立て上げた。ケインズは詭弁で人々をそそのかすペテン師であった。そのケインズの破綻した経済理論をいまだに宗教的に信仰しているのが日本政府である。

本書はケインズ経済学の何たるかを平易な言葉で明瞭に示す。そして完膚なきまでに破壊する。そして何が富の増大と経済の発展をもたらすかを説明する。

人々の貯蓄が生産へとつながり、生産は富の創出へとつながる。富の創出によってそこで初めて人々は消費ができる。

この流れは絶対に逆行することはできない。それは本書を読めば明確となる。

「人生100の質問に答える聖書」

  • 2015.12.31 Thursday
  • 15:08

"The Bible's Answers to 100 of Life's Biggest Questions"



先進諸国においてキリスト教離れが進んでいる。

キリスト教徒が無神論者や世俗主義者が呈する疑問に対して有効な反論ができない姿やキリスト教徒の言行不一致を見て若い人々が信仰を維持するのを馬鹿らしいと感じるためである。

本書はキリスト教にまつわるよく見る様々な疑問をQ&A形式で挙げ、回答を与える。

神は存在するのか?
奇跡は起こるのか?
全能の神があるならなぜこの世に悪があるのか?
世界はどうやって始まったのか?
科学と聖書は両立するのか?
聖書は本当なのか?
全能の神はなぜ人に苦しみを与えるのか?
善悪は誰がどうやって決めるのか?
「キリストが唯一の救いの道」とはあまりに非寛容ではないか?
天国・地獄とは何なのか?
プロテスタントとカトリックの共通点・違いは?
中絶は殺人か?
同性婚はなぜ悪なのか?
親切心からの嘘はダメなのか?
安楽死はどう考えればよいのか?
死刑は「殺人」ではないのか?
キリスト教以外の宗教もそれぞれが真実なのか?
エホバの証人とは何なのか?
なぜキリスト教徒の家庭においても離婚が起こるのか?
信者と非信者との男女交際はどう考えるべきか?
家庭での教えはどうすべきなのか?
その他いろいろ

非信者はキリスト教徒に対してこのような質問をして挑戦する。

だがこういった質問に対して一般の多くのキリスト教徒は口ごもるか、話を逸らすか、逆切れするか、紋切り型の答えに終始するかのいずれかである。

その姿を見て非信者は嘲り笑う。

「やっぱりキリスト教なんてマヤカシじゃないか」と。

その反応を目の当たりにしたキリスト教徒自身も自らの信仰に自信を失う。そしてその様子を見た子供は失望して信仰を捨てる。

キリスト教徒が信仰を継承していくためにはこれらの質問に対して自信と優しさを持って的確に論理的に答えられなければならない。

本書はキリスト教徒のために書かれたものである。だがキリスト教に興味を持つ非信者や、キリスト教を敵視する者にとっても興味深い一冊であろう。

「同性婚 - 神の意志は如何に」読了

  • 2015.12.12 Saturday
  • 23:58



"Same-Sex Marriage: A Thoughtful Approach to God's Design for Marriage" Sean McDowell & John Stonestreet

本書の目的は、同性婚が先進各国において支持を得つつある今、LGBT活動家の勢いに押されて意気消沈したキリスト教徒達を目覚めさせ、勇気づけ、行動へと駆り立てることである。

過去数十年の間、社会は大きく変わった。1996年には27%だった同性婚への支持は、現在53%へと増加。しかも18歳〜29歳の若者による支持率は73%にもなる。

すっかり「古臭い価値観に頑迷にしがみつく時代遅れの差別主義者」のレッテルを貼られたキリスト教徒は苦々しい思いで孤立主義や逃げに走り、あるいは「寛容の精神は神の意志だ」とうそぶき同性婚を受け入れる。

著者はいずれの方向性も間違いであると言う。

結婚は政治家や官僚が考案した制度ではなく、神が創造したものである。神はまず天地を創造し、それから自らの代理として男性をつくり、世界をあまねく支配せよと命じる。世界を支配するためには子孫をつくり、増やさねばならない。そこで神は女性をつくり、男性に与え、それを結婚とした。

夫と妻は単なる「気の合う二人」あるいは「愛し合う二人」ではない。子孫を増やして世界を支配せよとの神の意志を実現することを目的とした共同体である。「気が合うこと」は大事である。お互いに憎みあっていては子孫を増やすのは難しい。

「気が合う」や「お互いの愛情」は子孫を増やすための強い動機を与える。だがそれはあくまで動機であって目的ではない。目的は神の意志を実現することである。

性行為も神の意志であり、その目的は結婚した男女の間に子孫を増やすことである。不貞は、それが異性間においても同性間においても、同様に神の意志に反する行為であり、罪である。ゆえに異性間での罪にまみれた「健常者」が一方的に同性愛者を指さして彼らの罪を糾弾するとすれば、それは偽善に他ならない。

自ら「健常者」としての罪を認めつつも、キリスト教徒は真実を語らなければならない。聖書の教えから逸脱することなく、神の意志に忠実であり、神の創造物である全ての人々に対して愛を持って接しなければならない。

同性愛者を断罪するのではなく、愛を持って接しなければならない。彼らに愛して結婚の真の意味を語り、罪なる行為である同性愛から引き離し、神の意志に従った姿へと導いていかなければならない。

著者は同性婚がどのような経緯で今日の姿に至ったかを説明する。

かつて社会で「道化」扱いされたLGBTは長い年月をかけて現在の「地位」を獲得した。LGBT活動家の動きは戦略的であった。まず彼らはLGBTを何かにつけてドラマ、映画、音楽等々に登場させる。LGBTの存在が珍しくなくなると、今度は「LGBTに対する差別」を訴え、健常者を差別主義者として描く。優しく善良で聡明なLGBTと粗野で邪悪で愚鈍な健常者という対比を強調することで論理ではなく感情で訴える。これらメッセージに日々晒された人々はついにLGBT活動家の軍門に下り、LGBTの地位はゆるぎないものとなる。

キリスト教徒にも責任の一端がある。彼らはLGBT活動家が次々と攻勢をかける間に有効なカウンターを撃つことができず、なすがままであった。しかも異性間での性の乱れを許容し、放置し、あるいは自ら放蕩に耽った。古くはプレイボーイからはじまりポルノ、不倫、安易な離婚、結婚前の性行為、妊娠中絶 - これら神の意志に反する行いは他でもなく健常者によるものであった。

このような健常者の行為によって徐々に結婚は生殖(子孫を増やして世界を支配するという神の意志の実現)から切り離されていった。結果として結婚は単なる「同居」へと形骸化していった。結婚が同居となった今、それは一男一女のものから「誰にでもできるもの」となり、当然の帰結として同性婚が出現した。

健常者の神の反逆がLGBTへと道を開いたのであった。健常者の性の堕落がLGBTをもたらし、そして同婚へと繋がった。同性婚は社会の堕落をもたらす「原因」ではなく、社会の堕落がもたらした「結果」である。

もう結婚は終わったのか?社会はもうもとには戻らないのか?キリスト教徒は敗退したのか?

著者はキリスト教徒に対して絶望するなかれと説く。

キリスト教徒には神の意志への回帰を主導する義務がある。それは困難であるが不可能ではない。

歴史上においても性の乱れが極限に達し、「神の意志による結婚」が危機に瀕した時代は存在した。古代ギリシャ・ローマ時代はその一つであり、そこでは女性や子供は「慰みもの」として扱われた。性の神聖性と人間の尊厳を教えて彼らを救ったのがキリスト教であった。

なぜ結婚が必要なのか?本書は4つの目的を挙げる。

1. 性行為を制御するため。
2. 男性を制御する(粗暴性を緩和して生産的行動へ向ける)ため。
3. 女性を保護するため(結婚制度の最大の受益者は女性である)。
4. 子供が成育する環境を整えるため。

これら4つを全て行うことが出来るのは伝統的な男女間の結婚だけである。それ以外のいかなる関係もこれらを全て満足することは不可能である。結婚の定義を人為的に変えたとしてもその事実は不変である。

結婚は社会に安定をもたらし、結婚の失敗は社会に不安定をもたらす。強い結婚文化を持つ社会は安定・発展し、結婚文化が廃れた社会は不安定化し衰退する(文化的にも経済的にも)。

ゆえに、キリスト教徒は「同性婚」を語るのではなく、「結婚」を語らなければならないのである。

キリスト教徒が置かれた環境は敵対的である。彼らは日々様々な試練に晒されている。

「私たちが同性婚したってあなた達の異性婚には影響ないでしょ?何が悪いの?」と言われたら?

もしもゲイの親友から同性婚すると言われたらどう反応したら?

彼らから結婚式に参加してもらいたいと言われたら?

それが勤務先の関係だったら?

同性婚のためのサービスを提供するよう求められたら?

それを断ったがために訴えられたら?

もし同性愛者の友人や知人に同性愛や同性婚についてどう思うかを聞かれたら?

もし知人のキリスト教徒がLGBT許容発言をしたら?


本書はこういったキリスト教徒を取り巻く現実の課題に対して明確な示唆を与える。勇気をもって、機知をもって、そして英知をもって対応しなさいと。

本書はキリスト教徒ではない者が読んでも面白い一冊である。キリスト教の結婚観に非キリスト教徒が同意するか否かは別としてもである。

我々現代の日本人は結婚について曖昧模糊とした観念しか持ち合わせていない。結婚の堕落が社会の堕落をもたらす、とはまさに日本のことである。現在我々が直面する少子化は結婚の減少がもたらしたものである。これは「結婚はコスパが悪い?」といった議論が交わされるシラケた社会ならではの現象である。

そのシラケはどこから来たのか。それは別の探求が必要であるが、信仰心の薄さと関係するように思えてならない。結婚が「神の意志」なら信仰による再興も可能であろう。だが結婚が「コスパ」ならまず無理である。

「同性パートナーシップ」が地方自治体で徐々に導入されている日本において、既に「流れ」は同性婚である。同性婚の法制化は時間の問題であろう。

我々は唯々諾々とその「流れ」を許容するのか。それともいくばくかの抵抗を試みるのか。

そのようなことを考えるキリスト教徒ではない日本人にも強い示唆を与える一冊である。

"It IS about Islam"読了

  • 2015.10.26 Monday
  • 00:49



It IS about Islam: Exposing the Truth About ISIS, Al Qaeda, Iran, and the Caliphate

それはイスラム - イスラム国、アルカイダ、イランそしてイスラム帝国の真実

今、言論の自由が風前の灯である。

本書の著者、グレン・ベックには共著者がいる。だが共著者は名前を出すことを拒んだ。なぜか。身に危険が及ぶからである。グレン・ベックとその家族には脅迫状が送られており、常に警備が身辺の警護に当たっている。

本書は反イスラムのプロパガンダではない。本書は事実に基づいた警告である。事実を突き止めるために当たるべきは原典である。本書は原典であるコーランを徹底して分析する。故に「危険な書」なのである。

イスラムは平和の宗教・・・ 為政者やメディアはこの幻想を我々に植え付けてきた。その間に9.11で飛行機が突っ込み、ロンドンやマドリッドで爆破テロが起き、ムンバイで同時多発テロが起き、ボストンマラソンで爆破テロが起き、ISISが台頭して残虐の限りを尽くし、イランは核兵器開発に邁進している。

本書は、イスラムに対する我々の幻想を取り払い、今日の自由世界を脅かすイスラム原理主義という現実を直視することを助けるために書かれた。幸いにもイスラムの脅威にそれほど晒されずに来た日本であるが、レストランのメニュー変更や礼拝所設置等、我々の社会を「イスラム・フレンドリー」に変えようという無防備で無知で危険な風潮が見られる今日、日本人にとっても必読の書である。

人を抑えつけて頭をつかんでナイフで首を斬る。檻に人を入れて下からガソリンで火をつけて生きたまま焼き殺す。檻に人を入れて水に沈めて溺死させる。首に爆薬を入れた縄を巻き付けて爆発させて吹っ飛ばす。そしてそれらを高度なプロダクションのビデオに撮影して世界に流す。なぜISIS(イスラム国)はこれほどまでに残虐なのか。

本書はその残虐性の起源がコーランにあることを解明する。そして彼らの動機を説明する。

イスラム原理主義者は貧しいからテロを行うのではない。ウサマ・ビン・ラディンは大富豪の息子である。その他の9.11のテロリストも金持ちの子息である(だから米国に留学できる)。多くのイスラム・テロリストは上流社会の出身である。第三世界における上流というのは我々庶民から見たら王族並みである。

また、イスラム原理主義者は我々の存在や行いに対する”怒り”からテロを行うのではない。イスラムでは世俗的な感情である怒りを動機にしてジハード(聖戦)を戦うことを明確に禁じている。彼らがテロを行うのは他でもなく、アラーの名において人を殺すことを推奨し、それによって死後に天国で処女に迎えられることを教える思想に突き動かされているからである。故に彼らをなだめることはできない。彼らに金銭や仕事を与えて懐柔することもできない。出来るのは彼らテロリストを殲滅することだけである。

本書は「アルカイダの20年計画」を説明する。この計画はアルカイダの指導者、アル・ザカウィ(既に死亡)に近いとされるヨルダンのジャーナリストが著書に記したものである。その計画には7つの段階がある。

第1段階はイスラム世界の目覚め。大規模なテロによって世界を驚愕させ、大敵であるアメリカを戦争に引きずり込む。9.11、そしてその後のアフガニスタン・イラク戦争がこれに相当する。第2段階はその戦争を泥沼化させること。アメリカが撤退した後のイラクはもはや内戦状態である。アフガニスタンも危うい。第3段階はアラブ・イスラム世界における民衆蜂起。「アラブの春」がこれに当たる。第4段階はこれらアラブ世界における世俗的政府の崩壊。リビアのカダフィ、エジプトのムバラクといったそれまでイスラム原理主義を抑えてきた世俗派は引きずり降ろされ、その後イスラム原理主義者が権力を握った。第5段階はイスラム帝国の設立。まさにISIS(イスラム国)がこれに当たる。指導者のバグダディはカリフの地位に就いたばかりである。

そして第6段階は自由世界との全面対決であり、第7段階はイスラムの勝利である。2015年現在、計画は第5段階まで順調に進捗している。これはどこかの無名な人間が無名な本に書いた出鱈目ではない。我々が目にしている現実である。

ISIS(イスラム国)はイスラムではない。彼らテロリストはイスラム教徒ではない。これら野蛮人はイスラムとは何の関係も無い。彼らは勝手にイスラムを名乗っているだけである。このような残虐行為はイスラムでは禁じられている。彼らはイスラムの教義に反している。

そんな「お利口さん」なことをいう政治家やメディアは多い。ソーシャル・ネットワーク界にも多くみられる。

そういう彼らもコーランを引用する。

だがコーランには融和的なメッカ啓示(先に書かれた)と敵対的・攻撃的なメディナ啓示(後で書かれた)とがある。コーランには決まりがある。それは、先に書かれた内容と後に書かれた内容で矛盾がある場合は後に書かれた方が前に書いてあることに優先する、という決まりである。

例えば異教徒に対してはこんな記述がある。

日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より

コーラン 2:256
『宗教には強制があってはならない。正に正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴にして全知であられる』

素晴らしいではないか。信教は自由意志に任せられるべきであると。

だが、コーラン 3:85ではやや雰囲気が変わってくる。

『イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は失敗者の類である』

「失敗者」と言っているだけではないか。大したことないではないか。まあ、確かに。

だが、次に来るコーラン5.33はまたやや雰囲気が異なる。

『アッラーとその使徒に対して戦い、または地上を攪乱して歩く者の応報は、殺されるか、または十字架につけられるか、あるいは手足を互い違いに切断されるか、または国土から追放される外はない。これらはかれらにとっては現世での屈辱であり、更に来世において厳しい懲罰がある』

だんだんと怖くなってきたぞ。

コーラン5.51及び5.60

『あなたがた信仰する者よ、ユダヤ人やキリスト教徒を、仲間としてはならない。かれらは互いに友である。あなたがたの中誰でも、かれらを仲間とする者は、かれらの同類である。アッラーは決して不義の民を御導きになられない』

『言ってやるがいい。「アッラーの御許の応報で、それよりも悪いものを、あなたがたに告げようか。それはアッラーが見放した者、御怒りを被むった者、サルまたはブタとされた者、そして邪神に仕える者、かれらは、最悪の境地におり、(正しい)道から遠く迷い去った者たちである」』

サルとブタ・・・ これはイランの最高指導者がイスラエル人を形容した表現である。

コーラン9.29

『アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。またアッラーと使徒から、禁じられたことを守らず、啓典を受けていながら真理の教えを認めない者たちには、かれらが進んで税〔ジズヤ〕を納め、屈服するまで戦え

これがイスラムの教えである。原典に当たることである。

イスラム教がユダヤ教ともキリスト教とも異なる大きな点は、ユダヤ・キリスト教が道徳規範の源泉であるのに対し、イスラム教は道徳規範にとどまらず、行政や人々の生活の細かな部分をも規定する法律でもあるということである。

例えば、コーランでは男女の関係を規定する。偉大な宗教であるイスラム教は男女平等を教える。

コーラン3.195
『主はかれら(の祈り)を聞き入れられ、(仰せられた)。「本当にわれは、あなたがたの誰の働いた働きもむだにしないであろう。男でも女でも、あなたがたは互いに同士である』

しかし・・・

コーラン4.3 一夫多妻について
『あなたがたがもし孤児に対し、公正にしてやれそうにもないならば、あなたがたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば、只1人だけ(娶るか)、またはあなたがたの右手が所有する者(奴隷の女)で我慢しておきなさい。このことは不公正を避けるため、もっとも公正である』

コーラン4.11 女性の相続について
『アッラーはあなたがたの子女に就いてこう命じられる。男児には、女児の2人分と同額。もし女児のみ2人以上のときは遺産の3分の2を受ける。もし女児一人の時は、2分の1を受ける。またその両親は、かれに遺児のある場合、それぞれ遺産の6分の1を受ける。もし遺児がなく、両親がその相続者である場合は、母親はその3分の1を受ける。またもしかれに兄弟がある場合は、母親は6分の1を受ける。(いずれの場合も)その遺言したものと、債務を清算した残り(の分配)である。あなたがたは自分の父母と自分の子女との、どちらがあなたがたにとって、より益があるかを知らない。(これは)アッラーの掟である。本当にアッラーは全知にして英明であられる』

コーラン2:282 女性の訴訟について
あなたがたの仲間から、2名の証人をたてなさい。2名の男がいない場合は、証人としてあなたがたが認めた、1名の男と2名の女をたてる。もし女の1人が間違っても、他の女がかの女を正すことが出来よう』

2.228  離婚と復縁について
『離婚された女は、独身のままで3度の月経を待たねばならない。またもしもかの女らが、アッラーと最後の日を信じるならば、アッラーが胎内に創られたものを、隠すのは合法ではない。(この場合)夫たちがもし和解を望み、その期間内にかの女らを復縁させるならば、より権利がある。女は、公平な状態の下に、かれらに対して対等の権利をもつ。だが男は、女よりも一段上位である。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる』

夫は妻をいつでも離縁でき、夫が「やっぱり戻すか」と思えば妻は文句を言わずに応じなければならない。男は女より上である。アラーは偉大なり・・・

多くのイスラム教徒は善良である。多くのイスラム教徒は”テロ行為”とは無関係である。それは事実である。だが本書ではその事実には「別の側面」があることを説明する。

 
  • エジプト人の5分の1はアルカイダに共感を覚えることを表明。
  • 2億人以上もの人口を持つ世界最大の”穏健な”イスラム教国、インドネシアでは23%もの人々がアルカイダを指示。
  • ”開明的な”イスラム教国、トルコでは15%もの人々が自爆テロを肯定し、50%もの人々がイスラム原理主義は問題とは感じないと回答。

イスラム教徒=テロリストではない。だがテロリストはイスラムから出てくる。それはこのような背景があるからである。

我々が接するイスラム教徒は大変親切で善良な人々が多い。恐らく多くの人々が実際に親切で善良なのであろう。だが、そこにも「別の側面」がある。

コーラン3.28
『信者たちは、信者を差し置いて不信心な者を親密な友としてはならない。これをあえてする者は、アッラーから(の助け)は全くないであろう。だがかれらが(不信者)から(の危害を)恐れて、その身を守る場合は別である』

これは”タキヤ”と呼ばれる行いである。タキヤとは欺瞞の奨励である。

イスラム教徒は少数派である間は大人しい。だが一定の割合を占めるようになると段々声が大きくなる。そして多数派になると高圧的になる。タキヤは異教徒を騙してガードを下げさせるためにコーランが奨励する行為である。

我々がガードを下げている間にイスラム原理主義者はソフトな戦いとハードな戦いで我々の社会を変容させている。

フランスのシャルリー・ヘブド襲撃、デンマークのモハメッド風刺画の集会襲撃、テキサス州での風刺画展襲撃、こういった殺傷事件が立て続けに起きている。だが、我々はイスラムへの警戒心を強めているであろうか。

むしろ逆である。メディアは言論の自由を脅かすイスラム原理主義に対してではなく、言論の自由を行使した側を叩く。

米テキサス州の風刺画展事件 「表現の自由」で挑発 宗教批判のタブー破りに主催者への批判高まる ・・・ イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画展が開かれた米テキサス州の会場が襲撃された事件は米社会に衝撃を与えた。テロに絡みイスラム教への複雑な思いはあるが、宗教批判はタブーとされてきた。挑発した主催者への風当たりは強い。 2015年5月8日共同

そして我々は「イスラモフォビア」「ヘイトスピーチ」「差別」のレッテル貼りを恐れ、自主規制に向かう。

空港でのボディーチェックや液体類持ち込み規制はイスラム・テロである9.11がもたらしたものである。だが既に我々の生活の一部となっている。イスラムによって我々は不便を強いられているが、誰も異議を唱えようとはしない。

「空港のチェック?そんな小さなことはどうでもよいではないか」

それは既に感覚が麻痺した証拠である。

我々の国の法律がイスラムによって変革させられるとしたらどうであろうか。

我が日本も加盟する国連の、国連人権理事会決議16/18号は「寛容」を謳った決議である

この決議では、「各国への勧告」として以下が述べられている。
  • 各国は、諸個人と様々な共同体に対する、国籍、民族的背景、宗教や信念に基づく否定的ステレオタイプの押しつけや差別と闘うための広汎な努力への関与を強めるべきである。
  • 各国は、ジェンダーに関する他者理解を含む文化間理解を促進するべきである。この点で、すべての国家は、平和の文化を建設する責任と、憎悪煽動が処罰されない状態に終止符を打つ義務を有する。
  • 各国は、人権の価値と原理についての教員研修を促進し、かつ自ら提供し、全ての年齢の生徒の学校カリキュラムの一部として文化間理解を導入あるいは強化するべきである。
  • 各国は、治安部隊、警察官、司法に関わる人々を、憎悪煽動の禁止に関わる諸問題について訓練し、それに敏感に応じるようにさせるための機能を強化すべきである。
  • 各国は、平等のために働く諸機関を創設するか、社会的対話を促進するだけでなく憎悪煽動の諸事例について申立を受理することに関して管轄権を有する、(パリ原則に沿って設立された)国内人権機関の内部で、平等のための機能を強化するべきである。そのような機能を効率化するうえでは、新たに採用された指針、試験、良質の実務が、恣意的な実務を回避し、国際的な一貫性を向上させるために必要となる。
  • 各国は、憎悪煽動に関わる様々な違反に関するデータの体系的収集を保障するため、必要な諸制度と機関の存在を確保すべきである。
  • 各国は、新たなメディアを含むメディア全体の複数性と多様性を促進し、コミュニケーション諸手段のアクセスと実際の使用が普遍的かつ非差別的であるよう促進する公共政策および規制枠組みを保持すべきである。
  • 各国は、現行の国際人権諸機関を強化するべきである。これには特に、国際自由権委員会や人種差別撤廃委員会のような人権条約機関、各種任務の特別報告者が含まれる。これらの機関は、人権に関する法律を履行する国家としての政策に関して、各国に対して助言と支援を提供する。

この決議を通すために活躍したのがOIC(イスラム協力機構)という団体である。これは世界のイスラム教国57カ国が加盟する強力な団体である。我々が気がつかないうちに、我々の言論に関する法律までもがイスラムによって変容させられようとしているのである。

著者はイスラム原理主義と戦うためにすべきこととして、4つを挙げる。

    1. 敵を知れ
    2. 声を上げることを恐れるな
    3. 我々、そして我々の中にいる反逆者の存在を知れ
    4. 我々はイスラムを改革することはできないと知れ

真実を語る者は差別主義者のレッテルが待っている。だがそれを恐れて口をつぐんだら終わりである。アメリカでは1991年以来10万人のソマリア移民を受け入れてきた。結果としてミネアポリスの一部はイスラム原理主義の温床となった(下映像を参照)。そこから40名以上がイスラム国に参加している。イスラムと自由は共存不可能である。イスラムは改革が必要である。だがイスラムを改革できるのはイスラム教徒だけである(現状では悲観的にならざるを得ないが)。

本書は勇気をもって書かれた本である。これを読む読者にも勇気が求められている。我々は脅威と立ち向かうことができるのであろうか。その前に、脅威を認識できるのであろうか。後世は我々をどのように評価するであろうか。

追記:
America or Somalia - you might be surprised



「アメリカの法とシャリア法、どっちがいいですか?」
「そりゃ当然、シャリア法でしょ」
「モハメッドの漫画のことどう思いますか?」
「スゲえムカつく」
「法で禁じるべきですか?」
「そのほうがいいね」
「漫画家を襲った人々の気持ちが分かりますか」
「激分かる」
「殺されて当然だと思いますか?」
「あったりめえよ」
「アメリカとソマリア、どっちに住みたいですか?」
「ソマリアだね」(なら行けよ by ブログ主)

日本も移民・難民を受け入れるべしと主張する人々にぜひどうぞ。

「Going to Pot」読了 - 麻薬合法化との戦い

  • 2015.09.27 Sunday
  • 18:20



2016年のアメリカ大統領選挙に先駆け、既に共和党では選挙活動が始まっている。前回の二回目となる討論会では「大麻を合法化すべきか否か」が議論された。合法化に傾いているのはロン・ポールの息子、ランド・ポール。最近日本でも大麻を合法化すべきではないか、という議論が見られるようになった。

本書「Going to Pot」は、このような合法化・非犯罪化へ向かう世論への反撃である。

大麻合法化は右(主にリバタリアン)と左が意見の一致を見る例外的な問題である。両者ともに「選択の自由」を理由に挙げる。個人は自由であるべきだ。間違いを犯す自由や自分の体を害する自由をも認めるのが本当の自由である。またこれは(米国の場合)州の裁量に任されるべき問題である。彼らはそのように主張する。

人は自分の腕を自由に振り回す権利がある。だがその権利は拳が他人の鼻に当たらない限り(あるいは恐怖を与えない限り)においてである。

大麻合法化はその意味において自由の問題ではない。なぜならば、合法化によって関係のない他人が危険に晒され、社会全体の自由が減少するからである。

自由は文明を基盤とする。文明は文明的で道徳的で勤勉な市民の存在を基盤とする。そしてそれらは人々の健康な心と体に依拠する。麻薬はこれらすべてを破壊する。よって自由の敵である。

合法化論者は合法化・非犯罪化を実施した各国の「成功事例」を挙げる。ヨーロッパではオランダ、ポルトガル、アメリカではコロラド州、アラスカ州がある。だがこれらの国・地域は成功事例ではない。なぜならば、彼らは合法化・非犯罪化を悔いているからである。

麻薬合法化・非犯罪化は製品品質の向上、犯罪の減少、ブラックマーケットの減少、そして税収の増加を実現する。そのように合法化論者は主張してきた。だがこれらの国・地域では逆の現象が起きている。

これらの国・地域では公共の場所における酩酊・奇行、自動車の衝突事故、救急病棟での対応、依存症、爆発事故(麻薬精製に引火性物質を使うため)は増加の一途を辿っている。

一旦法的なタガが外れればどうなるか。麻薬を合法化するということは、麻薬がより簡単に手に入るようになるということを意味する。各国の事例から言えるのは、それが「医療目的」であろうが「嗜好目的」であろうが、結果に大差ないということである。

ある国や地域で合法化されれば、その周辺国(欧州のように往来が自由な場合は特に)や地域に影響する。人々は麻薬を吸いに州を越え、国を超えてやってくる。そしてラリッて帰る。麻薬は合法地域から非合法地域へ密輸され、非合法地域ではブラックマーケット化する。麻薬を非合法化しておきたい、と願う人々の鼻に、麻薬を合法化したい、と願う人々の拳が直撃しているわけである。

合法化論者の理論はプロパガンダに基づいている。その一つは、「麻薬戦争は失敗に終わった」である。「かつての禁酒法も失敗だったではないか」と。




麻薬に対して厳しい態度が維持されていたレーガン・ブッシュの時代は麻薬の使用が下降の一途を辿っている。だがヒッピー世代のクリントンが就任してからは御覧のとおり。

シンガポールは麻薬に厳しい国の一つである。麻薬所持はむち打ちか死刑である。結果としてシンガポールでは麻薬を吸う人間はほぼ存在しない。そこまでやるかどうかは別として、断固たる態度で臨めば麻薬使用は減るという証拠である。

「”麻薬所持だけ”で逮捕された”普通の”人々で刑務所がいっぱいだ。彼らのために税金が消え行く」という話もある。

だが実際には麻薬関連で服役している人間の99%は不法売人であるか、他の犯罪で逮捕された後で麻薬所持が見つかった人間である。麻薬合法化によって服役者の数が大幅に減ることはない。

禁酒法はどうか。

肝硬変による死者は1911年に10万人中29.5人だったのが1929年には10.7人へ減少。精神病棟での受入は1919年に10万人中10.1人だったのが1929年には4.7人へ減少。1916年から1922年にかけて飲酒による暴力行為での逮捕は50%減少。

禁酒法は、好むと好まざるとに関わらず、「アルコール摂取量」という一点に限れば間違いなく「効いた」のである。

もう一つのプロパガンダは、「大麻はタバコやアルコールよりも害が少ない」というものである。

麻薬と同じようにアルコールもタバコも習慣性がある。

しかし;

ちょっとビールやワインをひっかけて仕事に戻ることはできる。グラスを傾けながら延々と真面目な会話をすることも可能である。タバコをいくら吸っても肺はニコチンで黒くなり、息はタバコ臭くなるが頭がイカれることはない。

だが麻薬を吸えば「ハイ」になる。それが目的なのだから当然である。

タバコの害は大麻でも同じかそれ以上である。だが実際にはタバコによる害で病気になったり死んだりする人間がはるかに多い。それはなぜか?理由は簡単である。タバコは合法だからである。合法であること=供給量が多い=影響が大きい、ということである。

百歩譲って仮に大麻とタバコ、アルコールの害が同等だったとする。

「大麻を禁止するならタバコ、アルコールも禁止しなければ不公平だ」
「タバコ、アルコールを野放しにして大麻を禁じるのは偽善だ」

合法化論者はこのように挑む。だが簡単な話である。タバコも酒も一定の害がある。既にこれらは人々の生活に深く根を下ろしている。これらによる害はなるべく軽減すべきである。そこでなぜもう一つの大きな害をもたらす大麻というものを合法化する必要があるであろうか。なぜ更に状況を悪化させる必要があるであろうか。と、いうことである。

しかも大麻の「薬効成分」であるTHC (Tetrahydrocannabinol)の強さは60年〜80年代初頭と現在とでは比べ物にならない。60年代に「軽く吸ってリラックスする」程度ですんでいたものが、現在ではショック死をもたらすほどである。

大麻等の麻薬によって人々は何を得るのか?

精神病、肺がん、IQの低下(若年であれば取り戻しがきかない)、生産性の低下、目的意識(やる気)の低下、そして家族の不安と悲しみ。若者は将来を奪われ、家族は壊れ、結婚は壊れ、社会から自由が消える。

大麻合法化あるいは非犯罪化は敗北である。悪への敗北から善が生じることはない。ましてやそれによって自由が増大することなどあり得ない。

音楽、映画、ドラマからは我々の麻薬に対する警戒心を鈍化させるようなメッセージが垂れ流される。自由を愛し、次なる世代の未来を案じる我々はこの流れに断固抵抗しなければならない。そのための情報武装を助けてくれるのが本書である。

最後に;

"Would you rather get in an airplane where the pilot just smoked a cigarette or a joint?"  Dennis Prager

「パイロットがタバコを一服したばかりの飛行機と、パイロットが大麻を吸ったばかりの飛行機と、あなたならどちらに乗りたいですか?」 デニス・プレーガー



追記:

癌、エイズ、緑内障等、大麻の成分が一部の病気に対して薬効があるのは確かである。しかし答えは「大麻を吸う」ことではない。MarinolやSativexといった大麻の成分と同じ化学構造を持った薬が開発されている。当然のことであるが、「薬」というからには投薬がコントロールされなければならない。製薬会社は組織の存続をかけてリスクを取りつつ成長のために新薬を市場に投入する。答えは「薬」であって「ドラッグ」ではない。

Going to Pot: Why the Rush to Legalize Marijuana Is Harming America 


麻薬に対して厳罰で臨むシンガポールは世界でもトップクラスの自由な国であることを特筆しておきたい(ヘリテージ財団・自由の指標

"Men and Marriage" 読了 - 結婚とは何か

  • 2015.07.12 Sunday
  • 17:50

"Marriage is not simply a ratification of an existing love. It is the conversion of that love into a biological and social continuity" George Gilder "Men and Marriage"

「結婚とは、単なる愛情の追認ではない。結婚とはその愛情を生物的、社会的な継続性へと転換する行為である」 ジョージ・ギルダー ”男性と結婚”


同性婚が注目される昨今、結婚という人類が作り上げた慣習に対する風当たりが強まっている。多くの人々が結婚とは何かを見失っている。結婚などただの役所の紙切れだ、結婚などしなくても生きていける、結婚など過去の遺物だ、とシニカルに構えている。



"Men and Marriage"は1980年代に書かれた名著である。結婚が危機に晒されている今こそ我々に必要とされる一冊である。

本書は、文明社会を支えてきたのは結婚という制度であると説く。

男性は古来よりハンターであった。現在ほとんどの男性は狩猟に携わることはないが、この性質は受け継がれている。衝動的であり、活動的であり、競争を好み、支配を好み、チャレンジを好み、冒険を求め、不安定である。

このような男性の衝動を抑え、安定化させ、そのエネルギーを破壊ではなく建設へと向かわせる力を持っているのが女性である。

女性の力の源泉は「拒絶」である。性的衝動の強い男性とは対称的に、女性は性行為無しで長い間精神の均衡を保っていられる生物である。女性の「ダメです」は男性に対して条件を突きつける。性行為を欲するならば結婚に足る人物になりなさい、と。 善良で勤勉で堅実で誠実で建設的で文明的な人物となりなさい、と。

この女性の拒絶が持つ力こそが、社会を支え、経済を発展させてきた原動力である。

結婚によって男は変化する。これは女性の持つ力によるものである。男は結婚すると、もう「独身」ではない。独身男性は即自的な満足を求め、それを得る自由がある。だが結婚に際して男性はその自由を捨てなければならない。妻となる女性と落ち着かなければならない。狩猟はもう終わりである。家族を生活の中心にしなければならない。夫である自分を頼る妻と子供がいるからである。

本書は文明社会における、男性の「稼ぎ頭」としての役割の重要性に触れる。フェミニスト運動家は男女平等を訴える。勤労の機会と賃金を平等にせよと。平等を実現するには資質や性質が同じでなければならない。だが性的に女性は高位に、男性は下位に位置する。

まず当然ながら、男性は子供を孕み、産むことが出来ない。これらは女性だけが出来ることである。

そして男性は常に試されている。仕事でも試され、ベッドでも試される。勃起不完全や早漏によって男性はインポとされ、自信を砕かれる。対して女性は器量の良し悪しはあるにしても、性行為で「失敗する」ということは無い。

この劣位性を埋め合わせるために、男性にとっては「稼ぎ頭」としての役割が決定的に必要なのである。

だが我々の生きる現代において、もはや男性の牙城である狩猟は無い。オフィスでの仕事は女性でも同等にできる。しかも政府の政策で「女性の社会進出」が促進され、男性の領域は否応なく狭められている。失業すれば失業手当があり、収入が少なければ生活補助もある。医療も社会保障で賄われる。男性が稼がなくても、女性は「やっていける」世の中である。

男性にとって失業状態は屈辱であり、失業男性は社会にとっての脅威である。一方、女性は仕事を持たないことで社会にとって有益でありうる。子を産み育てられる女性とそれが出来ない男性との違いである。

男性というものは経済的に下位の(稼ぎの少ない)女性と結婚するものである。対して女性は経済的に上位の(稼ぎの多い)男性と結婚するものである。絶対的な法則ではないが一般的な現象である。これは良し悪しや偏見ではなく事実であり、男そして女としての性(さが)である。

女性は稼げば稼ぐほどに経済的に同レベルの男性と結婚する気は失せ、より経済力のある男性との出会いを待つ。しかし都合よく稼ぎが良くて独身で見栄えの良い男性はそう簡単に現れない。そうするうちに年月は過ぎ、年齢を重ねる。婚期を過ぎた独身女性はそのまま独身を通す確率が高い。それと同数の男性は結婚ができずに独身のままである。女性が「社会進出」すればするほどに結婚が減少する所以である。

結婚の減少によって独身男性は増える。

本書は結婚を減少させるもう一つの要因として「性の解放」を挙げる。

「性の解放」によって10代〜20代の若い女性は性的ヒエラルキーの頂点に立つ。彼女らはキャリアや男性関係を謳歌し放題。金持ちの妻子持ちの年上の男性との不倫もできる。だが彼女らが30代に入ると”若さのパワー”は急激に減少する。更なる好条件への望みが絶ち切れず、ズルズルと結婚を先延ばしにする。35歳を過ぎ、40も間近。はっと気づくと「負け犬」に。前は追いかけてきた男ももう自分には興味を示さない。彼らの興味は若い後輩たちへ。

「性の解放」で犠牲になるのは先ずは女性、次に若い(金と権力の無い)男性である。

中年男性が若い女性と浮気して妻を捨てれば、年を食った妻は別の男性と再婚できる望みは薄い。離婚された妻の多くは経済的な困難の中、孤独な老後を迎える。

「遊ばれた」末に年を食って婚期を逃す、かつてチヤホヤされた若い女性もいわば犠牲者である。35歳を過ぎた女性が結婚に辿りつく確率は僅か5%(本書出版当時)。

そして若い女性が年上の金持ち男性と遊んでいる間、それを恨めしく眺めていた金のない若い男性。彼らも結局は結婚に辿りくつくことができない。結婚どころか、”つきあう”にも事欠く始末。

さて勝者は、と言えば、金と権力のある男性である。「性の解放」は女性ではなく、男性、それも金と地位のある男性を解放するだけだったのである。そしてこれら男性にとっての実質的な「一夫多妻」状態の実現である。

「性の解放」によって結婚は減り、独身男性が増加する。

「性の解放」はまた、同性愛を増加させる。なぜか?「性の解放」は一夫多妻をもたらし、一夫多妻は男性弱者を同性へと向かわせるからである。同性愛が増えれば、当然ながら、結婚は減る。そそしてやはり、独身男性は増加する。

独身男性の増加は社会の安定と経済成長を脅かす。そしてそれは文明社会の存続をも危機に陥れる。世の犯罪者の多くは独身男性である。

文明社会は結婚の減少と独身男性の増加によって危機に晒される。要因は女性の育児放棄と「社会進出」、「性の解放」、男性の「稼ぎ頭」の役割を無にする社会福祉である。

この流れを変えることが出来るのは誰か?女性である。それも、「No」と言える女性である。

結婚の減少をもたらすフェミニズムの政策に「No」。独身男性の女性遊びに「No」。金持ち中年男性の不倫に「No」。

女性が左翼フェミニズムに「No」を言うことで、女性は再び「家を守る」役割を担い、男性は家族のために稼ぐ役割に専念するようになる。女性が「No」を言うことで、男性は独身と独身文化を捨て、彼らのエネルギーは結婚生活、家庭生活へと向かう。

女性は男性を変え、社会を変える力を持っている。我々の文明社会が没落を回避するか否かは女性にかかっている。

「Dare to Discipline」読了

  • 2015.06.21 Sunday
  • 18:15



本書は子供の躾の本であるが、躾にとどまらない。良い親子関係を育むもの、破壊するもの、子供の知能の発達を促進するもの、阻害するもの、子供の人格を形成するもの、悪徳を吹き込むもの、一言で言えば、一人の良き市民を育てるために何をすべきか、親が知っておくべきことが詰まった一冊である。

現代は不道徳な世の中、不道徳がまかり通る世の中、不道徳が称賛される世の中である。そんな世にあって、正しき子育てをしたいと願う親にとっては逆風が吹いている。往々にして社会の風潮と逆をいかなければならないからである。そのような親にとっての良き味方となるのが本書である。

躾の基本は愛情である。著者は親子関係において辛辣であること、虐待すること、抑圧的であること、嘲ること、批判すること、憤怒といった行動を一掃すべきであると説く。執拗に口ややかましく説教したり怒鳴ったりすることは親子関係を傷つけるだけでなくエネルギーの無駄である。躾の目的は親のエゴを満足させることではなく、子を立派な大人として社会に送り出してあげることである。規律と愛情とのバランスが重要である。

親が子を愛するならば、子に服従を教えなければならない。そしてそのことを子に伝えなければならない。

正しき価値観を教える(本書では"indoctrination"という強い言葉を用いている)ことが出来るのは、とにかく早いうちである。幼児期は権威に対する敬意を植え付ける上で重要な時期である。

子が最初に挑戦的な態度を見せたとき、それを親は圧倒的な力でねじ伏せなければならない。それによって親は子に対して「超えてはならない境界線」を示すのである。それはいわばガードレールや道路の白線のようなものである。ガードレールの無い橋を走らされるドライバーは不安を感じる。同じ理由で、明確に示された境界線は子を安心させる。

「反抗的な10代」は必然ではない。0歳〜12歳までの間に「平和裏に武装解除」させなかった結果である。

お尻叩きは非常に有効である。しかしこれは挑戦的な反抗に対してに限定すべきである。些細なことでこれを使うと効果が減じるだけでなく、子の心に傷を残す。一方、体罰を敵視する風潮があるが大間違いである。体罰は子を暴力的にさせるなどという話があるが、根拠のないデマである。

ただし、体罰を使ってよいのは18か月からであり、それ以前は絶対に避けるべきである。また小さな反抗心が芽生える18か月〜3歳にかけては「お尻叩き」までいかずとも、痛みを感じる程度に指をペンするだけで十分効果的である。

また、言うことを聞かない子には「肩つかみ」も有効である。両肩の首から肩にかけての筋肉をギュッと掴むと痛みを感じる。かなりの痛みは感じるが実害は無い。小枝やそれに類する軽い棒を鞭代わりにするのもよい。




体罰は子が6歳になるまでに減らし、10歳〜12歳までには完全に止めるべきである。それ以降の体罰は子に屈辱を与え、逆効果である。

だが、やはり躾の基本は愛情である。体罰を含む躾を有効にするためには健全な親子関係が必須前提である。それが無ければどのような「躾」も禍根を残すことになる。子と一緒に遊び、笑い、楽しい時間を過ごすことである。

躾に求められるのは厳しさばかりではない。悪い行いは理性的な罰によって抑制されなければならない一方、良い行いは具体的に褒め、報いてあげるべきである。報いる方法はお金、プレゼント、お菓子など様々であるが、ただ言葉で褒めたたえてあげるだけでも子は喜ぶものである。

その一方で「与えすぎ」には注意すべきである。次から次へとモノを買い与えることで、親は子から重要なものを奪うことになる。それは「得る喜び」である。そして子は「与えられて当たり前」という傲岸不遜な態度を身に着ける。親は「いいよ」よりも遥かに高い頻度で「ダメ」を発するべきである。そして「ダメ」を言うときには絶対でなければならない。最初は「ダメ」だったにも関わらず子が粘って「いいよ」を勝ち取った暁には親の「ダメ」は単なるハッタリとなる。だから迷ったときはゆっくり熟考してから意を決して「ダメ」を発することである。子は親の「ダメ」が絶対的な「ダメ」だと知れば、それに挑戦しようとあがくことを止め、結果として精神的な安らぎを得ることができる。

学びの姿勢を叩き込むことも躾の一つである。それがひいては勤労の精神につながり、社会に出てからの成功へとつながる。この部分を担うべきは子と多くの時間を過ごす母親であるが、共働きが多い昨今は子を守り導くべき役割が蔑ろにされている。

0歳〜3歳は脳の発達にとっての重要な期間である。この間に知的刺激を与えてあげるか否かで脳の物理的構造が決定される。その意味で、取り返しのつかない時期である。刺激の少ない状態で育てられた子は知恵遅れとなり、豊かな(知的刺激という意味で)環境で育てられた子は賢くなる。より多く話しかけ、大人の会話を聞かせ、興味をかき立てる本を与えることである。本の読み聞かせは大変有効である。

小学校に上がる6歳あたりの子供達には成熟度において大きな格差がある。6歳でもまだ集団教育を受けられるほどに成熟していない場合がある。そのような子を無理して学校に送れば最初の段階でつまづき、大きな劣等感を抱くことになる。幼い子の自己イメージは壊れやすく、修復しにくいものである。それを防ぐ方法は、IQテストを受けさせることである。これは学校教育を受ける準備ができているか否かを計測する最適な方法である。

この点で少なくとも幼少の段階でホームスクーリングをすることは有効である。不要な「恥をかく」体験を免れた子は自信溢れる態度を身に着ける。ホームスクーリングで育てられた多くの子供がより高い社会性を身に着け、世の中で成功を収めている。

昨今は、暗記を軽視して「考えることを奨励する」似非教育が人気であるが、本書は暗記の重要性を述べている。暗記をすることで何を身に着けられるのか。著者は以下5項目を挙げる。

 
  1. 自己管理。長い時間机に向かい、指示に従い、課題を完結させるという能力は社会人としての基本的資質である。
  2. 自己変革。人間は情報をインプットすることで変わる生きものである。
  3. 情報の引き出し。暗記したことを忘れても、「どこを探せば情報があるか」を知っておくことが重要である。
  4. 記憶。暗記したことを大方忘れても、情報は完全に消去されるわけではない。
  5. 新たな学びへの基礎。まずは頭に情報を入れることで、更に高次元の学びが可能となる。

考える前に情報が無ければ考えようがない。当たり前のことである。学校で学ぶべきことは数学も科学も全て暗記である。

子育て・教育の目的は良き人間を社会に送り出すことである。だがそれを望む親の周りには強大な敵に囲まれている。その敵とはポップカルチャー(大衆文化)である。テレビ、映画、音楽ビデオ等によって性に関する退廃的なメッセージが垂れ流されている。

1970年代に連邦政府によって「セーフ・セックス」なる言葉が流布されるようになった。コンドームを使えば「安全」であるということであるが、それ以来今日にかけて婚外妊娠、婚外出産、妊娠中絶、そして性感染症の爆発的増加がその結果である。

コンドームは正しく使えば妊娠を防ぐことに関しては有効である。だが性感染症を防ぐことは出来ない。コンドームの素材であるラテックス材には5ミクロンの微細な孔がある。HIVウイルスのサイズは0.1ミクロン(1/50)である。結婚するまで処女童貞をまもり、結婚したら婚外性行為をしないことが感染を防ぐ唯一の方法である。

性についてあまり早くに多くの情報を与えるのは危険であり、どの時期に何を教えるかは慎重に計画するべきである。性について教える適齢は、女児は10〜13歳、男児は11〜14歳である。その時期を越すと子供はこのことに触れるのを嫌がるようになる。その前に正しきことをしっかりと教えることである。

※日本の学校においても「ジェンダーフリー」なる標語を掲げる日教組が不道徳な性教育を行っていることは周知の事実であり、憂慮すべき事態である。

一人の男性と一人の女性とがお互いに強固に結びつくことによって、男性の意識は富を創出し、積み上げ、守る方向へと向かう。男性の意識が分散すれ生き方も刹那的になる。道徳観を失った社会は経済的にも落ちるのみである。

最後に、本書は子育てにおいて重要な役割を担う母親に対して助言を与える。母親はいわば家庭における医者であり、看護婦であり、カウンセラーであり、教師であり、牧師であり、コックであり、警察官である。

 
  1. 自分自身のため、そして結婚生活のための時間を確保すること。
  2. 自分の影響力が及ばない事について悩まないこと。
  3. 問題に対して(疲れのたまった)夜に取り組まないこと。
  4. やるべきことをリスト化して整理すること。
  5. 神の助言を頼ること。


追記
権威への尊敬の念が欠けるとどうなるか。警察は治安維持上の権威である。警察官に公然と楯突けばこうなる。だが体を張って仕事をする警官が叩かれ、彼らに反抗的な態度を取るガキがこぞって称揚される。洋の東西を問わず、不道徳な世の中である。


"A Family of Value"読了

  • 2015.06.01 Monday
  • 20:12



子育てに疲れを感じる。不安に苛まれる。罪の意識を感じる。

本書はそんな現代の親のために書かれた本である。

子育てほどしんどいものは無い、とよく言われる。だが実際のところ、現在よりも経済的にも物質的にも恵まれない時代にも子供はすくすくと育ったのであり、昔の親は子育てに苦しんだりはしなかったのである。

「昔の親」とは第二次世界大戦以前の親のことである。あらゆることが困難だったに違いない戦争中の親は言う。「子育て?誰でもやったことだ。特別な事ではない」と。

本書のメッセージは、簡単に言えば「昔に戻ろう」である。それをアナクロ主義と呼ぶなら呼べばよい。大家族から核家族になるにつれ、子を持った親は親や親類に助言を求めるのではなく、精神科医や心理学者に相談したり、彼らの書いた本を読んだりして知識を得るようになった。

彼らは戦後の親に伝道した。

「子供にもっと与えなさい。もっと褒めなさい。もっと自意識を高めてあげなさい。もっと保護してあげなさい。子供を中心に考えて。民主主義を導入して。非民主的で権威主義的な古いやり方は子供を傷つける。もう時代は変わったのです。。。」

その結果が学級崩壊であり、家庭内暴力であり、マナーや敬意や道徳をわきまえない少年少女であり、少年犯罪増加であり、学力低下であり、鬱や自殺に走る若者達なわけである。

昔の親は知識ではなく、常識として3つのRをもって子育てを行った。

1) Responsibility(責任)
子供には出来るだけ早くから家事仕事をさせる。これは家族の重要な一員として認めることであり、得るだけでなく、与えることを学ぶことであり、家族の価値を高めることである。※本書は冷蔵庫等に「やることリスト(皿洗いやトイレ掃除等)」を貼り、子供がそれを行うことを当然の義務として法律のように明示すること、そして4歳までにはほとんどの家事に従事させることを推奨する。

2) Respectfulness(尊敬の念)
子供は親や他の大人とは同等ではないこと、ましてや、大人は子供の召使いではないことを教える。立場の違いを認識することから親への尊敬の念が生まれる。多くの現代の親は子供の召使いと化している。子供が親に要求する→親はそれに応える→子はもっと要求する→親はキレて怒鳴る→親は罪悪感を感じる→親は子供に”与える”ことで埋め合わせしようとする→子は更に要求レベルを上げる→親は更に与える→親は疲労困憊。悪循環である。

3) Resourcefulness(考えて問題解決すること)
”自分でやること”を子供に教える。そうしながら子は問題を解決する術を学び、大人になる準備をする。親の役割は子供の"needs(必要)"を満足させることであって、"wants(欲求)"を満たすことではない。欲求に応えてあげてもよいが、与えすぎれば子はその喜びを感じなくなり、感謝の念を持たない人間に成長する。与えるものを最小限にすれば(例:玩具は5個だけ)子は自ずから創造性を発揮して遊びを編み出す。親は子に言うべし。「自分でやりなさい」と。子は趣味を見つけ、自ら掘り下げ、学ぶようになる。

昔の子育てには3つのRがあり、更に「3つの決まり」があった。「3つの決まり」とは?

1) 子供は親の言うこと為すことに注意を払うこと。
2) 言われた通りにやりなさい。
3) 口答えをしないこと (原文:You do as I say, because I say so)

18か月までは当然の必要性から子は家族の中心となる。だが18か月前後からは、子が親に注意を払うように仕向けなければならない。

どうやって?

親は子への注意・注目(食事、衣服、安全等を除き)を減らすことである。

どうやって?

夫は夫に、妻は妻になることである。子供中心から結婚生活中心にすることである。

世の多くの夫婦は子ができた瞬間から「オトウチャン」と「オカアチャン」になってしまう。子供中心である。子供は自分が家族の中心だと思えば自分の欲求(子供は必要性と欲求を区分することが出来ない)を満足させることをひたすら要求し、親がそれに応えることを当然の義務と主張する。子供は益々扱いにくくなり、親は益々疲労困憊する。悪循環である。

良き伴侶は良き親である。その逆ではない。良き結婚は良き家庭を作る。その逆ではない。そして良き夫婦関係が最も子供を安心させるのである。妻を大切にする夫である父を、夫を大切にする妻である母を、子は見て尊敬し、男の女への接し方を、女の男への接し方を学ぶ。子供を早く寝かせれば二人の時間が持てる。時には誰かに子を見てもらって二人で出かけるもよし。二人の時間を大切にすべきである。

特に母親は、女性であることを忘れるべからず。趣味を楽しみ、オシャレを楽しみ、交友を楽しみ、自分自身であることを楽しみ、人生の喜びを追求すべし。子はそんな母親を見て敬意を払うものである。

親が子供をコントロールしたければ、まずは自分をコントロールしなければならない。ガミガミ、ブチブチ、グチグチはダメである。大声でどなるも小声でタラタラ文句を言うのも親がコントロールを失ったことを自らさらけ出すも同然である。親が子供に指示を与える際には、静かに、オタオタせずに、声を荒げずに、短くピシッと「コレコレコレをやりなさい」とだけ言ってその場を立ち去ること。

「何で?」に答えないこと。「やだもん」等の憎まれ口は聞き流すこと(著者は少々の憎まれ口は叩かせてあげることを推奨する)。それらにいちいち答え、”理論的な説明”を試みるとどうなるか。親は子供との果てしなきディベートに巻き込まれる。その瞬間、親は子供と同レベルに落ちる。そして子は親への敬意を捨て去る。

「理由をちゃんと説明しなきゃ」という人がいるが、間違いである。なぜならば、子が理由を求めるのは「嫌な時」だけだからである。「おい、アイスクリーム食うぞ」に対して「なんで?」と反応する子供はいない。※勘違いしてはならないのは、「なぜ夜と昼があるの?」的な質問にはじっくりと答えてあげればよい。

子が親の言うことを実行しないならば、親は罰を与えなければならない。その場で罰を与えるもよいが、来客中だったり外出中だったり他の用事があれば、罰を実行するのは1週間後でもよい。「アイスクリーム欲しい」「あ!美味しそうだね〜。でもダメ。1週間前のあの時、お前は私の言ったとおりにコレコレをしなかったね。私は食べるけどお前にはあげない」という具合である。

実社会において、現在のミスの結果が直後に跳ね返ってくることは稀である。大抵は1週間後〜数週間後に問題化し、場合によっては数年後に一大事となって表面化することもある。故にこの罰し方は子供が実社会を理解する訓練にもなるのである。

”苦しみ”は、親ではなくて(言うことを聞かない)子供が感じることが肝心である。

1) 要求や期待事項を事前に明確に表明すること
2) それを穏当なやり方で守らせること(虐待や誘惑を用いずに)

買い物にお店に入る前に「騒がないこと、勝手に動きまわらないこと、勝手にモノに触れないこと」を伝える。にも関わらず子が騒いだら「じゃあ、帰りましょう」。お楽しみはカットし、罰として部屋に閉じ込める(トイレや食事は別)ために帰途につく。「ごめーん、もうしないから、許してよ!」と泣き叫ぶ子を見ながら静かに言う。「騒ぐなと、言ったでしょ」と。

幼児期の子はいわば王子様・王女様である。皆の者が背をかがめてかしずき、”謁見”を求めにやって来る。”謁見者”は王子様・王女様の笑顔の恩恵にあずかり、喜びに打ち震える。しかし18か月を過ぎると立場は一気に変わる(変わらなければならない)。幼児期を引きずっている(親がそれを容認している)子供は不満タラタラの扱いにくい子供となり、幼児期を断ち切った子供(親がきちんと躾けた子供)は良き家庭の一員となる。

子育てに甚大なる悪影響を与えてきた心理学者の多くはジャン・ジャック・ルソーに影響を受けている。ルソーは悪辣で非道徳的な性格の人物であり、その思想は共産主義の源流の一つである。ルソーは「子供は生来善であり、純粋な生きものであるが、親や社会に触れるなかで変質、劣化していく」と言った。自分がどのような悪事を働いても、それは自分の責任ではなく社会が悪いのだと。ルソーのような人間にとって実に都合の良い思想である。

一方、現実の子供は自己中心的であり、愚かであり、非文明的であり、残酷ですらある(しかし宝物であることには変わりはない)。だから悪さをするのであり、反抗するのである。その芽が出たときに、親はどうするかである。きちんと躾ければ良き大人となり、躾けなければ犯罪者となる。

親の役割は重要である。だが「3つのR」と「3つの決まり」を心に留めて当たれば、疲れ、心配、疑念から解放されるのである。本書は多くの親にとっての福音である。

テレビについて
幼少時から少年時にかけ、どのようなテレビであっても有害である。特に0歳〜6歳にかけて脳の成長が著しい期間にテレビを観させると、子供の脳は機能的にも構造的にも変化し、悪影響は落ち着きのない行動となって表れる。テレビ番組の多くは、性の氾濫、同性愛の肯定などといった不道徳な社会的メッセージを伝える。また、いわゆる”良い番組”であっても、大人をバカにすること、子供を殊更に持ち上げて描くなど、巧妙な手段で左翼思想を織り込んでくる。子に野放図にテレビを観させる親は自ら子育てを困難にしていると自覚すべきである。著者は小さな子供がいる家庭はテレビを撤去することを推奨する。

※日本で言えば、宮崎駿のアニメなど最悪であろう。宮崎駿自身が共産党シンパの極左であるが、宮崎の作品は、風の谷のナウシカ、トトロ、千と千尋、もののけ姫、どれをとっても「正義の子供が悪の大人をやっつける」系のとんでもない内容である(音楽は素晴らしいが)。腑抜けたアニメオタクが増殖するのも当然であろう。

マナーについて
朝は「おはようございます」、返事は「はい」。人としての基本は挨拶からである。テーブルマナーをしっかり身につければ他人の家で恥をかかずにすむ。きちんとしたマナーは他人への敬意となり、ひいては自尊心にもつながる。親が手本を示すべし。

小遣いについて
数が認識できるようになったら、ちょっとした楽しみができる額(週に200円程度か)が適当である。親は貯金することを教えるべきである。少なすぎれば意味が無く、多すぎれば有難味を知ることが出来ない。家事をするのは「当たり前」であるから、それに対しての報酬ではないこと(小遣い無しの代わりにサボってよいわけではない)をはっきりさせるべし。

食事について
著者は幼少期の子供は別テーブルにつかせ、大人と同じものを食べさせることを推奨する(大人の邪魔をせずにマナーよく食事できるようになったら同席を許す)。促さず、さりとて強要もせずである。要らないならラップをかけて保存し、次の食事に出す。好き嫌いは断固として否定すべし。嫌いなものも含めて少量を皿にのせて出す。全部食べたら追加する。子供のために特別に「お子様メニュー」を作らない。子供は家庭の主ではない。※ファミリーレストランでよく見かける”すったもんだ”の光景は不要である。

著者による講演

 

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