電波法 - 撤廃すべき昭和の遺物

  • 2016.02.20 Saturday
  • 21:46

高市総務相「放送法違反続けば電波停止の可能性も」 2016.2.9 産経
高市早苗総務相は8日の衆院予算委員会で、放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及した。電波停止に関し「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたり可能性が全くないとは言えない」と述べた。


自民党と民主党が低レベルな論争に明け暮れている。

まことに、社会主義者どうしの論争ほど不毛なものはない。

民主党が言論の自由と国民の知る権利を盾に「報道を委縮させる」などと自民党を非難するのは笑止千万。一方自民党は言い訳じみた答弁に終始。自民党支持者は「民主党が政権を握っていたときには今の自民党と同じ答弁をしていた」などとこれまた愚にもつかない攻撃。国会では両者が細かい話をクドクドとしているが、彼らは同じ穴のムジナである。

なぜ同じ穴のムジナなのか?

それは両者とも「放送法の維持」という見地から一歩も出ていないからである。

放送法とはどのようなものか。

 

放送法
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


「政治的に公平」とはどういう意味か?「多くの角度からの論点」とはどういう意味か?

雰囲気ではなく、フィーリングではなく、感覚ではなく、この意味を論理的に考えたことがあるだろうか。

例えば竹島の問題を考えれば、片方で「竹島は日本のものだ」と主張があるならば、もう一方で「いや、竹島は韓国のものだ」や「そんなのどうでもよい」という主張がある。

例えば北方領土でいえば、片方で「北方領土は日本固有の領土だ」という主張があれば、もう一方で「北方領土なんてもう日本のものじゃない」や「今更無駄だから諦めろ」という主張がある。

例えば「従軍慰安婦強制連行問題」でいえば、片方で「日本軍による強制連行などなかった」という主張があれば、一方で「日本軍による強制連行はあった」や「とにかく日本は悪かったのだから今更言い訳するな」という主張がある。

例えば国防に関しては、片方で「日本を周囲の脅威から守るために憲法を改正して自衛隊を国防軍にすべし」という主張があれば、一方では「過去の歴史から学び、日本は一切の自衛権を放棄すべし」という主張がある。

例えばバター不足問題でいえば、片方で「政府は輸入規制をするな」という主張があれば、一方では「バターなんぞで大騒ぎするな。国の産業を守るほうが大事だ」という主張がある。

例えば国民皆保険制度でいえば、片方で「この制度によって我が国の財政は破綻し、子孫にも莫大な借金を押し付けている。徐々にでも民間保険に切り替えるべきだ」という主張があれば、一方では「これは我が国が世界に誇る偉大な制度だ。何が何でも保持すべし」という主張がある。

政治的に公平で、多くの角度からの論点を、ということであれば、ひとつの放送者はこれらを全部を同等に開陳しなければならない。

これほどバカげたことはない。

放送者は個人の集団である。ある一定の哲学的・思考的・思想的方向性を持つ人間が世に対して言論を展開するために集まり、放送者となる。

 
  • マルクス・レーニン主義に共鳴する人々
  • 社会主義に共鳴する人々
  • 中国や朝鮮を愛する人々
  • ファシズム、国家社会主義に共感する人々
  • LGBTの主張を掲げる人々
  • 唯物・無神論者達
  • 嫌韓・嫌北・嫌中・嫌露な人々
  • 反共な人々
  • リバタリアンな人々
  • 自由主義を奉ずる人々
  • 統制経済を嫌う人々
  • 保守主義を奉ずる人々
  • 伝統を重視する人々
  • 信仰を重視する人々

これら様々な方向性を持つ人間達がそれぞれ信ずるところを発信するために放送者となる。

政治的に公平で、多くの角度からの論点を明らかにせよというのであれば、ひとつの放送者がこれらを信じる全ての人々を登場させなければならない。

これを実行したら単なる錯乱状態である。視聴者にとっては「一体何が言いたいのか分からない」状態である。

「政治的な公平性」と「多様性」を重視する放送法・・・

アメリカにも昔似たような法律があった。それは「Fairness Doctrine()」である。これは左翼の統制主義者であり、民主党のフランクリン・ルーズベルトが社会主義政策であるニューディールを推進するために法制化したものである。それによって特に保守派によるニューディールへの反対意見をメディアから抹殺することに成功した。

戦後も長らくこのFairness Doctrineは続くが、それに終止符を打った偉大な人物がいる。




アメリカ史上最も優れた大統領のひとりであるロナルド・レーガンである。

それまでのメディアは完全にリベラル・左翼に牛耳られていた。NBC、ABC、CBSといった3大ネットワークがその代表である。彼らはこの法律を盾に保守の言論を抑え込んだ。

レーガンは大統領に就任すると、それまで経済を疲弊させてきた様々な規制を次々と破壊し始める。レーガンは悪しき規制であるFairness Doctrineを撤廃させ、メディアの世界は更地となった。そこに登場したのが保守のトーク・ラジオであり、その代表格が伝説の人物、ラッシュ・リンボーである。

フェアネス・ドクトリンの歴史


いまやトーク・ラジオは保守・リバタリアンの独壇場である。

なぜか。

保守がリベラル・左翼の言論を規制したからではない。

保守の言説は深く、真実であり、面白いからであり、一方でリベラル・左翼の言説は浅く、嘘にまみれ、つまらないからである。

市場経済の原理が働き、リベラル・左翼のラジオ番組にはスポンサーがつかずに自然に淘汰されたのである。

トークラジオは読んで字のごとく「トーク番組」である。視覚で訴えるのではなく、話の中身が勝負である。保守主義が人々の長年の経験に基づいた知恵であり、リバタリアニズムが経済の真理に光を当てるものであるとすれば、リベラリズムは欺瞞と不道徳と専制のイデオロギーである。話の中身で負けるのは当然であろう。

ラッシュ・リンボーなくして今日のAMラジオは無く、Fairness Doctrine撤廃無くしてラッシュ・リンボーは無いと言われている。

ラッシュ・リンボーがトーク・ラジオの先鞭をつけ、その後に多くの保守コメンテーターが続いた。マーク・レビン、ショーン・ハニティ、グレン・ベック、その他多数・・・

放送の自由化の波はラジオから始まり、テレビやその他のメディアにも波及した。そして今日、IT技術の進歩により、ラジオ、新聞、雑誌、テレビ、ウェブサイトの垣根は完全に取り払われようとしている。

ラッシュ・リンボー
リベラルのリスナーとのバトル 「私は他人の失敗を見て自分の成功を恥じようとは思わない!」


マーク・レビン
アメリカとイスラエル、イスラエルとパレスチナ、そしてアラブ諸国、オバマを支持するユダヤ系アメリカ人について熱く語る。


マーク・レビン
保守主義とは何かをジョン・ロック、モンテスキュー、トクヴィル、権利章典、合衆国憲法を絡めて説明する。


ジョン・ストッセル
リバタリアンの視点から政府の規制がいかに有害であるかを語る(概ね同意だが保守主義者としては一部異論あり)。「子供が庭先でレモネードをつくって売るのはいまや犯罪なんだぜ!」


グレン・ベック
イスラム教の脅威を語る。


彼ら放送者が重視するのは「政治的な公平性」ではない。自らの信じるところに従って真実を伝えることである。

重要なのは、個人あるいは個人の集団である放送者の言論の自由である。彼らの言論の自由を侵害しないことこそが本当の意味での公平性である。

誰が真実を伝えているのかを判断するのは視聴者である。そして視聴者とシェアを巡る競争によって他人の話を受け売りするだけの人間や話の中身の薄い人間や嘘をつく人間は暴かれて廃れる。

自由主義や保守主義を来る日も来る日も2時間でも3時間でもかけて語り尽くすこれらの放送者に耳を傾ける。彼らは単なる「喋り屋」ではない。成功したコメンテーターは読書家でもある。彼らは経済学者や著述家や歴史家を呼んでインタビューする。そして彼らの本を紹介する。彼らの話を聞き、本を読み、それによって得られる知識は大学教育を軽く凌駕する。そして費用はタダである。

今回の大統領選挙に見るような保守勢力の立ち上がり(結果どうなるかは不明だが)は日本では見られない。政治の世界を見ても報道の世界を見ても教育の世界を見ても、ほぼ左翼・リベラルないしは統制一色である。

将来の暗さにはため息がでるほどであるが、それは日本の報道界がいまだに放送法(日本のFairness Doctrine)に統制されているからである。

旧態依然とした日本の放送法は埃をかぶったカビだらけの昭和の遺物である。

撤廃すべき悪しき統制である。

だがこの統制をいかに保持するかについて、今日も国会における不毛な論戦が続く。


 

この世で最大の嘘つきによる「優良誤認」

  • 2014.10.25 Saturday
  • 13:48

<景表法改正案>食品偽装に課徴金 売上額の3% 閣議決定 

毎日新聞 10月24日(金)11時20分配信

政府は24日、実際よりも著しく優良と誤認させるなどの不当表示をした事業者に、課徴金を科す制度を盛り込んだ景品表示法改正案を閣議決定した。ホテルや百貨店のメニューで昨秋以降に相次いだ、食材の虚偽表示問題を受けて導入を目指すことになったもの。課徴金額は違反商品やサービスの売上額の3%とし、開会中の臨時国会で成立すれば2016年度から実施する。

 

政府が、実際よりも著しく優良と誤認させるなどの不当表示(優良誤認)をした事業者に課徴金を科すこの世で一番の大嘘つきである政府が、売り上げを伸ばしたい、という一心で企業がついてしまう可愛い嘘に対して罰金を科す、というこの笑止千万なるパラドックス。 この法律は、典型的な「要らない法律」である。

 

企業の嘘を正当化しているのではない。 企業が嘘をついて、それが消費者の不利益をもたらすなら、それは罰せられなければならない。 それが契約上の嘘であれば、政府はただ単に司法によって契約に拘束力を持たせればよい。 それが契約のない一般消費財であっても、市場が解決してくれるのである。

 

偽りは必ずバレる。 バレもしない偽りは、どうでもよい程度の偽りであるから放っておけばよい。 偽りがバレれば顧客・消費者の信頼を失う。 信頼を失えば売り上げが減る。 売り上げが減れば倒産という形で自然と市場から淘汰される。 これが市場の自浄作用というものである。

 

自浄作用というものは、その機能を使ってあげないと退化するものである。 日本ではこの市場の自浄作用が著しく阻害されている。 阻害しているのはこの法律に代表される政府による介入である。

 

政府は企業の優良誤認が消費者の不利益をもたらす、と言う。 だが、この世に政府による発表以上の優良誤認があろうか。

 

失業率政府はよく失業率が下がった、などと発表する。 「失業率」という数値は求職者の数を労働力人口で割って出すものである。 分子はあくまで求職者であって、職探しをあきらめた人間は含まれていない。 日本ではエネルギーコストの上昇や生産の海外移転もあいまって雇用は減少の一途をだとる。 取りざたされる「人不足」は建築や飲食などごく一部に過ぎない(政府によって人為的につくられた需要によって一時的に人材不足が生じている)。 職を得る希望のない中、人々は労働市場そのものから撤退する。 分子が減れば失業率が下がるのは当然である。 だが失業率減少=雇用の創出ではない。 実際は失業率が下がる一方で雇用も減少しているのである。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

経済先行き政府はよく景気が上向いているだの、明るい見通しが出てきただのと発表する。 こんな発表をいったい何度目にしたか知らないが、細かい上下はあっても日本の経済は全体的に過去20年下り坂である。 根本的な構造が改革されたことは一度もなく、経済の自由は失われる一方、景気は悪化する一方である。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

消費税導入による財政均衡政府は最初に消費税を導入した時点から、これによって日本の財政赤字が解消されると約束した。 だが実際は0%が3%になり、3%が5%になり、5%が8%になり、8%がさらに10%になろうとしている過程において、財政赤字も政府支出も共に巨大化の一途を辿っている。 増税の決定をするに際して政府は言った。 この増税は将来の世代に借金を残さないために絶対に必要な手段なのだと。 だが実際にはまさに将来の世代に更なる借金を背負わせている他ならない。 世界を見渡しても増税で財政均衡した例は一つもない。 財政を均衡させるのは支出の削減だけである。 にも関わらず政府は国民にあらぬ期待をかけさせ、富を収奪している。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

公的社会保障政府はことあるたびに、現在そして将来の世代の社会保障を維持するために財源が必要である、と言う。 そのために増税が不可欠であると。 国民皆保険制度も年金制度もすでに破たんしていることは皆気づいている。 これらが政府支出の病巣であることも気づいている。 社会には古来からの自助能力がある。 それは家族と地域社会である。 家族があって地域社会がある。 家族と地域社会こそが社会に備わる健全なる社会保障である。 これらがしっかりしていればいるほど、政府による社会保障は無用であり、当然そのための徴税も無用である。 しかし政府は政府による保障が「唯一の道」であるかのような宣伝をしている。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

尖閣国有化政府は尖閣諸島を、そして領海を防衛するためにと称してかの島々を国有化した。 侵入する中国船によって多大なる被害を受けてきた近隣の漁民、そして国民は政府の動きに期待を寄せた。 しかし現在にいたるまで中国船による度重なる領海侵犯は収まる気配がない。 そしてその中国に対して政府は「厳重抗議」を繰り返すのみ。 政府の任務は「国有地を守ること」ではない。 政府の任務は「国民の土地を守ること」である。 優先順位をつけるとすれば、国有地よりも私有地である。 私有財産を守らぬ政府など何の価値も無いのである。 しかし国民の期待は裏切られ続けている。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

北朝鮮との交渉… 1970年代に北朝鮮に拉致された人々がまだ北朝鮮に捕らわれの身となっている。 これを人権問題と呼ぶバカがいるが、これは主権問題である。 政府の存在目的は外敵から国民を守ることである。 誰も死んでもいない福島の放射能やら、気をつけて食べれば何ということのないレバ刺しやら、0.1も温暖化していない地球の「温暖化を阻止する」ための規制にセッセと取り組む一方、北朝鮮にさらわれた国民は置いてけぼりである。 初めから誠意のかけらもないことがわかっている北朝鮮と延々と交渉を続け、拉致被害者の家族と国民にあらぬ期待をかけ続けている。 そしてその期待は裏切り続けられている。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

ロシアとの交渉1945年以来、ソ連、そしてロシアは一ミリたりとも領土を返還したことが無いし、返還する意思を示したこともない。 したのは金をせびるために「返還のための交渉をするそぶり」だけである。 にも関わらず、歴代の政府はロシアとの交渉に余念が無い。 国民の莫大な利益が奪われているにも関わらず、これらの領土を取り返すには武力しかないことが明白であるにも関わらず、無益な交渉に国民の税金を使い続けている。 そして国民の期待を繋ぎ止める宣伝にかかずらわり続けている。 これが「優良誤認」でなくて何なのか。

 

これらが「優良誤認」でなくて、いったい何なのか。

 

そしてこの最大の嘘つき集団である政府に対して、誰がいくらの罰金を科すのか。

所得に課税し、消費に課税し、所有に課税し… 

  • 2014.06.16 Monday
  • 00:58

【新座市、夫婦から27年間税を過徴収 請求額払えず家失う】 新座市が1986年以降、約27年間にわたり、市内に住む60代の夫婦の一戸建て住宅に固定資産税を誤って過徴収し続けていたことが10日までに分かった。同税の延滞金などを支払い切れなかった夫婦の住宅は昨年10月、市に公売に掛けられて売却され、誤徴収が発覚したのは長年住み慣れた家を失ってから半年後だった。 埼玉新聞 6月11日(水)2時10分配信

 

悲劇である。 30年近くもローンを払い続け、税金を払い続け、ようやく家が自分の所有物となろうか、というところを目前にしてこの夫婦は家を市に取り上げられ、家は競売にかけられ、追い出され

 

行政によるミスである。 言語道断な間違いであるが、「ありえない間違い」ではない。 これは行政が人間の集団であるからには「必ずおこる間違い」である。

 

この事件は、財産の所有を奨励しない社会にあって、起こるべくして起こった悲劇である。

 

自由の基本は財産の所有である。 自分が自らの労働で得た対価を他人に奪われるとしたら、それは奴隷状態と変わらない。 自分が自らの労働で得た対価を自分のために使うだけでなく、それを子や孫に残したい、と願うのが人間の本能である。 それを否定する社会は人間を隷属化する冷たい社会である。

 

この事件は、国民から富を収奪し、国民を隷属化する冷たい社会にあって、起こるべくして起こった悲劇である。

 

固定資産税、相続税、贈与税... これらは「所有」を推奨せず、「放棄」を促す社会の税制である。 政府に吸い上げられた富は社会保障や公共事業といった富を生まない政府プロジェクトに消える。 富を吸い上げる政府は無制限に肥大化する。 肥大化した政府は更なる財源を欲し、そして自己正当化のために規制や法律を作る。 国民は隷属化のアリ地獄から抜けることが出来ない。

 

固定資産税、相続税、贈与税... 所得に課税し、消費に課税し、所有に課税し そこには所有と財産というものに対する敬意の欠片も無い。 自由な社会にはあってはならない不道徳な税制である。

 

 

追記:

フェア・タックスに移行すべし。 フェアタックス制においては所得課税は廃止される。 固定資産税、相続税、贈与税、キャピタルゲイン税も撤廃される。 課税は消費のみである。 消費課税とはいっても「消費税=VAT(付加価値税)」ではない。 売上税である。 最終の消費段階でのみ課税が発生する。 消費をする者だけが税金を払う。 金持ちも貧者も差別無しに一律である。 フェアな税制である。

 

http://www.youtube.com/watch?v=6szslYYlRr8

"The Case for the Fair Tax"

「アスベスト被害は国の責任」 判決の代償

  • 2013.12.27 Friday
  • 22:10
 

 

アスベスト被害、国の責任再び認定 泉南訴訟で大阪高裁

大阪府南部の泉南地域のアスベスト(石綿)健康被害をめぐる集団訴訟の第2陣(被害者33人)の控訴審判決が25日、大阪高裁であった。山下郁夫裁判長は一審・大阪地裁判決に続いて国の規制の不備を認め、石綿関連工場の元従業員らに慰謝料などを支払うよう国に命じた。原告側は約7億円の支払いを求めていた 

朝日新聞デジタル 12月25日(水)15時14分配信

 

 

裁判所は「アスベスト被害」は国の責任であるとの判定を下した。 

 

「国」は責任を感じるだろうか。 責任を感じるのは建物でもなければ場所でもなければ組織でもない。 官邸でもなければ官庁でもなければ省庁でもない。 責任を感じることができるのは人である。 血が通い、感じる心を持ち、考える頭をもつ、人である。 国は責任を取れ… 国にとって命じられたとおりに慰謝料を払うことなど朝飯前である。 日々の労働で得た収入を銀行に貯金している「国」という名前の人が慰謝料の支払いを命じられたわけではない。 心情も信条も感情もない、我々国民の労働による収入の一部を税金で徴収することにより存在する国という存在が、責任を取れ、カネを払え、と命じられたわけである。 国にとってカネなどどうにでもなる。 カネの出所は税金なのだから、底なしである。

 

一方で、国民はこの判定を見て「国の野郎に責任を取らせた!」と溜飲を下げることであろう。 「国のバカ野郎が、国のトボケ野郎が、国のマヌケ野郎が、シッカリと規制しないからこういうことになったのだ」と。

 

規制しない国(政府)など国(政府)ではない 国(政府)の第一の任務は規制である 規制があるからこの世が回る! 規制あっての安全だ 規制あっての安心だ 規制あっての人生だ この国に充満するこのような意識というか考え方が追認されたわけである。

 

アスベストは危険なのか。 逆に、この世に「危険でないもの」はあるのか。 テレビは愚鈍な番組を垂れ流し、見れば見るほど人はバカになるしボケの原因にもなるから危険である。 公教育はまっさらで純真で若い頭に左翼思想を刷り込むから危険である。 ガソリンは引火性であり、時々火遊びをするバカがいるから危険である。 車は不注意なドライバーや酔っ払い運転をする輩がいるから危険である。 反原発デモは原発停止とそれに伴う電力料金高騰をもたらすから危険である。 電車は飛び込み自殺に使われるから危険である。 高層ビルも飛び降り自殺に使われるから危険である。 日本は自殺大国である。 いまいち脈絡が無いが、考えると身の回りは危険でいっぱいである。

 

アスベストが危険だというのならば、先にあげたものは何と表現すればよいのか。 多くの有用なものが「危険」の名の下に葬られてきた。 DDT(殺虫剤)、サリドマイド(薬)、フロンガス(冷媒)、原子力、アスベスト... アスベスト危険説は既に覆されている。 アスベスト危険説は神話である。 アスベスト危険説は嘘である。

 

痛くも痒くもない国...

溜飲を下げる国民...

 

その結果、

 

益々強まる規制を求める声...

それを助長するメディア...

 

規制とは法律の一種である。 法律というのは、本来は立法府であり、国や地方の代表として人々から信任を得た代表者から成り立つ議会が制定するものである。 決まり事を制定すべきなのは、それがあることによって「社会の自由が増大する」場合においてのみである。 人々からの審判を定期的に受ける議会が立法に携わる意味はここにある。 人々に害を及ぼす法を制定すれば人々からの審判を受ける。

 

しかし今日の日本にある法の多くが官僚機構によって制定される、いわゆる規制というものである。 人々による審判を決して受けることのない組織が官僚機構である。 顔の見えない役所の役人が人々の知らないうちに集まり、人々の知らないうちに決め、発布するのが規制である。 ある決まり事を制定することで「社会の自由が増大する」か否かを考慮するための動機は皆無である。 一方で自らの地位の確立と重要性の増大と勢力範囲の拡大のために次から次へと規制を発布するための動機はふんだんにある。

 

規制が増えれば増えるほどに企業のオペレーションコストは上がる。 シゴトは増える。 お客様を喜ばすためのシゴトではなくてお役人様が決めた決まり事を満足させるためのシゴトである。 お客様のためのシゴトが終わるとお役人様のためのシゴトが待っている。 人は自分と家族のための時間を削ってシゴトをする。 やってもやってもシゴトは尽きない。 やらなければ、という義務感のみのシゴト。 そしてやってもやっても感謝はない。 これが、「国に責任を取らせる」ことの代償である。

土地区画整理事業なるバカの上塗り

  • 2013.12.08 Sunday
  • 18:43
 

大震災からはや2年半、災害にあった家屋を立て直し、ようやく普通の生活を始められるかと思いきや、立ち退きを迫られている人々がいるらしい。 これまたとんだ災難である。 この災難を引き起こしているのは「土地区画整理事業」という復興庁が進める政府事業である。 政府が介入するとトコトン物事がトチ狂うという、教科書的な事例である。

 

政府によって指定された危険区域を全体的にかさ上げするため、そこに住む人々は立ち退けと、より安全とされる土地で家を探して住めと、いうわけである。

 

大震災による津波は天災である。 だがこれだけ多くの人々が犠牲になったのは人災である。 それは政府の安全対策やリスク管理が不足していたという意味ではない。

 

日本損害保険協会の地震保険に関するウェブサイトにはこうある。 

 

Q9.あまりにも巨大な災害なので、保険会社の支払い能力を超えているのではないか?

 

A9.各損害保険会社は、保険金支払いに備えて、準備金を積み立てています。また、政府が再保険を引受ける形で共同運営していることから、保険金の支払いに支障をきたすことはありません

 

再保険とは、地震のような巨額のリスクが絡む保険について、保険会社がそのリスクを分散させるために「引き受けた保険に更に保険をかける」ことである。 政府が肩代わりするということである。 政府の財源は無尽蔵である。 言い換えれば、政府が補助することで地震保険は「お手頃価格」になり、見かけ上のリスクが減少したということである。

 

政府が補助していなければ、地震国日本における地震保険は非常に高額だったはずである。 であれば人々は高額な保険に加入することで災害リスクに備えるか、あるいは災害リスクを避けて住む場所を選ぶか、どちらかの選択を迫られたはずである。

 

同じ県の同じ町でも津波に襲われた低所と免れた高所がある。 低所は津波や浸水のリスクがある。 高所は土砂崩れのリスクがある。 土地の形状や地盤によってリスクは異なる。 それらリスクと住むことによるメリットを勘案して人は居住場所を決めるものである。 政府による保険補助という一種の市場介入によって高リスクエリアに住む人の数は増加したはずであり、それが犠牲者数に反映されていたであろうことは容易に推測可能である。

 

そして今、更に政府は失敗の上塗りをしようとしている。 苦労して生活を取り戻そうとしている居住者の犠牲の上にである。

 

そこに住むかどうかは住む人自身が決めることであって政府ではない。 危険だから立ち退け、安全にしてあげるから立ち退け、とはお門違いもはなはだしい。 

 

東日本大震災百年に一度の「想定外の災害」だったとしたら、今後は「想定内」となる。 政府の「再保険引き受け」がなくなれば地震保険は非常に高額になるはずであるいざ災害が起きたときに保険料を支払っても保険会社が損をしないと判断する額人が支払うことのできる額の均衡点が保険料となる)。 よほどイノベーションに富んだ保険会社が出てこない限り、一般人には手の届かないものとなろう。

 

それでも住み続けるか、あるいは引っ越すか。 それは個人の決めることである。 保険に加入せず、リスクを負って住もうとするなら、それは個人の選択である。 賢く情報を集めて安全性を確信して住むなら、それも個人の選択である。 高い保険を払って住もうとするなら、それも個人の選択である。 個人が責任を持って決めたことならば、それは尊重されなければならない。

 

市場経済の機能が働く仕組みにあっては、災害リスクはコストとなり、コストは値段となって人々に「お買い得ではございませんよというシグナルを送る。

 

保険会社の仕事は「心配事の軽減である。 保険料は「心配事・処理代金」である。 小さな心配事は低額な保険料に、大きな心配事は高額な保険料となる。 商品の額は消費行動に直結する。 すると人は自然とリスクから遠ざかる。

 

土地区画整理事業は「恥の上塗り」ならぬ「バカの上塗り」である。 政府は瓦礫の処理だけをすればよい。 除染も区画も必要無い。 なるがままに任せれば、自然とリスクは軽減され、人々の強い意志によっていつしか復興が成し遂げられるはずである。

 

 

追記:

 

復興庁ウェブサイトによると15千億円もの金がこの土地区画整理事業につぎ込まれている。

 

あえて「崖っぷちの人生」を楽しむ人はいる。 人は彼を無鉄砲と呼ぶ。 それはそれで一つの生き方である。 だが税金で補助する必要はないわけである

 

だが政府以上に無鉄砲な存在があるだろうか。 なにせ、日本国民全員の「医療の心配」と「老後の心配」を一手に引き受けてしまうという詐欺的な博打に手を染める一方でそれを更に強化しようとしているのである。 そんな無鉄砲な政府が地震保険の再保険を引き受けるなど、これ以上に怖いことがあるだろうか。

 

 

公的社会保障 - この世で最大の詐欺

  • 2013.10.26 Saturday
  • 23:14
この世の中、詐欺師はいるものである。 人を騙して私腹を肥やす者。 人にあらぬ希望を持たせてその気にさせた挙句に財産をかすめて逃げる者。 ちっぽけな詐欺師、大胆不敵な詐欺師、愚かな詐欺師、狡猾な詐欺師。 しかし、詐欺師にも不動の存在がある。 人々が騙されていることが明らかに分かっていても、誰も文句を言うことが出来ない。 誰も訴えることができない。 誰も逆らうことが出来ない。 誰も逃げることすらできない。 その超弩級の詐欺、その名は公的社会保障である。 公的社会保障を凌ぐ詐欺はいまだこの世に存在したことがない。
 
保険会社の仕事は顧客の支払う対価と引き換えに、顧客が抱える様々な「心配」を軽減するサービスを供給することである。 大昔の人々の心配は「今日明日を生存できるか」であった。 現代の我々の心配は、仕事、結婚、老後、健康、子育て、学校、人間関係、財産…  世の中が複雑になればなるほどに人々は多様な心配事を抱えるようになる。 それらについて常々心配していたら人はノイローゼになってしまう。 そこで保険会社が登場した。 「月々これこれの額で保険料を払っていただければ、その心配事が実際に起きた際には私たちがお世話することを保障します」と。 ある保険会社はその約束を守らず、顧客の信頼を失い消えていった。 一方ある保険会社は災難に直面した顧客に暖かい言葉をかけて励ましつつ、約束した以上のサービスを提供して信頼を勝ち得た。 現在生き残っているのは後者のような保険会社である。
 
医療と老後は人々が抱える様々な心配事のなかでも代表選手と呼ぶべきものである。 もし自分や家族が病気や怪我をしたら治療を受けて再起できるのだろうか。 自分や家族が定年退職したらどのように生計を立てていけばよいのだろうか。 これら心配事から完全に逃れることのできる人間は少ない 民間の保険会社には倒産の可能性があるが、国には「倒産」は無い…  このような重要な心配事は国が面倒を見るべきではないのか... 公的社会保障はこのような考え方を背景に誕生した。
 
公的社会保障はもはや珍しいものではない。 公的年金や医療皆保険制度は世界中の多くの国々で取り入れられている。 国が医療保険を運営することが当たり前なこととして受け入れられている。 その点で皆保険制度の無かったアメリカは例外であり、しばしばアメリカの医療は異様で非情なものとして受け止められた。 しかしそのアメリカにもいよいよ皆保険制度の始まりともいうべきオバマケアがやってきた。
 
ところが、個人のための登録ウェブサイトが101日の始動早々からバグだらけである 必要事項を入力してクリックすると、「このページはアクセスできません」あるいは「情報が足りません」のようなメッセージが出てくるは固まったまま先へ進まないは、酷い有様である 日本でも以前社会保険庁による杜撰な個人情報管理が発覚したが、官のサービスというものは洋の東西を問わず低レベルである。 相対する人間を「お客様」と認識するか「管理対象」と見るか、お客様の信頼が組織の生死に関わるか否か、それが民間のサービスと官のサービスとの違いである。
 
医療と老後に関する多様な心配事は、本来は個人と民間の保険会社との間で双方の合意に基づく契約において解決されるべきものである。 公的社会保障という制度はそれら個人的な領域への政府による不当な介入に他ならない。 心配事を取り除くという期待を人々に持たせながらその期待を裏切り、人々が負担する代償に見合うサービスを提供せず、しかも放漫経営の巨額の赤字を強制的な値上げによって賄おうとし、それでも賄えない分を子孫代々にまで負担させようとする。 これを不当と言わずして何と呼べるであろうか。
 
医療保険に政府が介入することによって本当のコスト見えなくなる。 政府が治療費や薬価を決め、出費を補填すると多くの人々が「コストが下がった」と勘違いする。 だが実際は「本当のコストを隠しているだけ」に過ぎない。 結果として、本来は価格の上下よって制御されるべき需要が見せかけの価格によって攪乱されて制御不能となる。 「3割しか」負担がなく、しかもいくら保険を利用しても保険料が上がることが無いとくれば人は些細な体調不良でも医者に行こうとする一方で医者の負担が激増し、悪化する勤務条件の中で医者のなり手が減少するという現象が起きるのも当然である。
 
老後の貯蓄に政府が介入することによって本当のリスクが見えなくなる。 政府が月々の納付金と受給計画を決定することで人々は老後のリスクがなくなったと勘違いする。 だが実際に政府がやっているのは、今現在働いている世代から金を吸い上げ、その金を今現在定年退職している世代に渡すという単純作業を行っているだけである。 民間の保険会社のように、変化する状況を注視しつつ顧客から預かった金をいかに増やし、そして還元するか、そんな知恵も能力もやる気もない。 だから人口が増え続けていた時代は良いが人口が減少に転じると途端に赤字経営に陥るのである。 そして今働いている人間が将来受給される頃には年金受給額が減額されるという事態になるのである。
 
政府は社会保障を「立て直す」ために消費税を増税するそうであるが、その効果には早くも疑問の声が上がっているとか。 放漫経営が祟って倒産の危機に瀕した民間の会社が商品の値上げに踏み切り、その増収によって会社が持ち直した、という話を一度でも聞いたことがあるだろうか。 「今年は3%値上げします。 翌年は更に2%の値上げを予定しています。 御客様におかれましてはこれまで同様の御愛顧を賜りますよう...
 
消費税を10%どころか、20%、30%、50%、80%にしても社会保障が破綻する運命は絶対に免れることは出来ないと断言する。 なぜならば、日本中の全ての財産を強制的に没収しても社会保障の赤字を埋めるに足りないからである。 そして国民から富を奪えば奪うほどに国民は社会保障に依存せざるを得ないからである。
 
我々は公的社会保障という詐欺に対して唯々諾々と自らの財産を差しだそうとしている。 財産を失えば自由も失う。 公的社会保障というものは、人間味の無い詐欺である。 灰色で冷たく、陰湿な詐欺である。 騙す者と騙される者との攻防やせめぎ合いなどというものは存在しない。 騙す側にも騙される側にも顔が無い。 公的社会保障というものは、非人間的であり非人道的であり非道徳的な制度である。
 

灰色の日本 規制と社会福祉

  • 2013.09.15 Sunday
  • 12:41
 

 

日本経済の行く末や企業活動のあり方を語る人々が、ほぼ例外なく前提としているのは「収縮する経済」である。 

 

『日本経済が成熟の域に達した今、これからは大幅な成長はあり得ない... 高齢化が進むために経済全体が収縮の一途を辿るのは避けることはできない 国民生活を守るためには社会福祉を維持していかなければならず、そのためには国民負担が増大するのはやむを得ないそのために増税は避けられない一方企業としてはシュリンクする市場において、いかに斬新で魅力的な商品を提供できるかが生き残りのカギである... 』

 

暗く不幸で悲観的な将来像を前提としている。 その環境下で生き残りをかけて、とにかく頑張らなければならないのだと。 悲壮観漂う灰色の人生観である。

 

灰色の日本をもたらしている元凶は規制と社会福祉である。 この二つは皮肉にも国民の多くが「必要不可欠」と信じるものである。

 

誰しも安全・安心を求める心がある。 だがその心が政府信仰、お上願望、資本主義悪玉神話と結びつくとそこに規制と社会福祉が生まれる。

 

『政府ならちゃんとやってくれるはず政府なら清廉潔白なはず政府なら信頼できるはず政府ならミスをしないはず』『利益を得ようとする民間は事業運営コストが高いはず利益を得ようとしない政府は事業運営コストが低いはず

 

問題が起こるたびに「国や行政が責任をもって何とかしろ」「国や行政は何をやっているんだ」の声があがる。 その声に応えて国や行政はせっせと規制を作る。 国民から選ばれたわけでもない省庁の役人達がせっせと規制を発布する。

 

規制が発効すれば企業や個人はそれに対応するために時間と金を使わなければならない。 操業、販売、流通、製造、商品規格、雇用... これらに関してかけられる規制をクリアするために企業は人員を配置し、商品規格を変更し、流通過程を調整し、そのために人々は残業して働く。 一つ一つの規制が有形無形のコスト上昇につながる。

 

規制が発効すればそれを省庁が監督管理する。 そこに「仕事」が生まれ、それが既得権となる。 収入源を失うまいとする人々によって規制は固定化される。 規制が増えれば増えるほどに監督官庁は人員を増加させる。 そのための人件費も運営費も、その財源は国民の税金である。

 

社会福祉制度と総称される医療保険、国民年金、介護、低所得者補助といった制度が何をもたらしてきたか。 社会福祉制度とは、医療、老後の貯え、弱者の世話、不遇な人々への援助といった、本来であれば個人、家族、地域社会に属する活動を政府が運営管理することである。 個人も家族も地域社会も、この制度によってそれらが持つ本来の自助能力を奪われてきた。 軽い怪我をしただけの創建な若者に車いすをあてがうかのごとくである。 歩くことをやめれば誰しも足腰の筋肉は削がれ、自ら立ち上がることすらできなくなる。

 

社会福祉制度の財源は国民の税金である。 益々多くの人々が車いすに依存した状態に陥りつつある一方、財源の必要性は膨らむ一方である。

 

規制と社会福祉制度は様々な形で企業活動へのコスト増大をもたらす。 国内の企業はコスト競争力が低下する中、生き残るために国内の人員を削減しつつ海外へ移転する。 国内で調達していたものを海外調達へと切り替える。 国内で運営していた活動を海外に移せば、それらに関連する雇用と共にノウハウ、技術、情報も一緒に国外に流出する。 技能は国内の次世代にではなく海外の次世代に受け継がれる。 

 

国内の次世代に残されるのは収入の頭打ち、雇用の減少、夢の喪失という冷たい現実だけである。 消費低下、モラル低下、自殺といった現象は若者が「だらしないから」、「覇気がないから」はたまた「草食系だから」発生するのではない。 規制と社会福祉にがんじがらめになった社会が必然的にもたらす現象であるに過ぎない。

 

規制というのは、例えば交通ルールで右通行か左通行かを決めるというように、それによって自由が増大する場合に限って有益である 通行する方向を決めることで混雑と事故が減り、自由が増大する。 だがそのような例は稀である。 自由増大をもたらす規制に限定しようとすれば、現在存在する規制の大方は消滅させなければならない。 そして規制を増やそうとする動きに対しては、常に猜疑心に満ちた目を向けねばならない。

 

規制緩和とは「本当は締めないといけないのだが、あえて緩めてやる」という上から目線の考え方である。 必要なのは不自由をもたらすあらゆる規制を撤廃するという考え方である。 ましてや嘘を起源とする規制などは悪の際たるものである。 例えば「地球温暖化」によってあらゆる産業が規制されているが、それら規制は真っ先に撤廃されなければならない。

 

規制を外しすぎたら混乱に陥るという説があるが、それは机上の空論である。 今の我々の社会は「規制が多すぎる」どころの状態ではない。 日々の日常生活において規制されていないものは何一つとして無い。 「使うもの」だけではなくて「使わなくなった」ゴミまでもが事細かく規制されている。 何は捨ててよい、何は捨ててはいけない、これを捨てる場合は誰がどうやっていくらで引き取らなければならない (家電リサイクル法) 

 

我々の生活は規制によって始まり、規制によって終わる(ベッドやシーツも規制されているから実際は終わらないのだが)。 いわば我々は「規制を生きている」といっても過言ではない。

 

灰色の日本をもたらしているのは日本社会の成熟でも少子高齢化でもない。 経済のグローバル化でも過当競争でもない。 日本を窒息させているのは規制と社会福祉である。 我々目の当たりにしているのは国民が後生大事にする規制と社会福祉によって日本がゆっくりと壊死する過程である

 

歴史を振り返れば、その昔台湾が日本の領土だった当時、終戦から国民党軍に接収される間の二か月無政府状態であった。 規制も社会福祉も無かった。 それでも秩序が保たれた。 皆こぞって協力し、ルールを守り、治安を維持した。 略奪も暴行虐殺発生しなかった。 徳と規律と誇りを持った人々が究極の自由を謳歌した儚い一瞬だったのである。

 

それが理想だというのではない。 そこまで規制も社会福祉も無い状況においても、自立と節制と互恵の精神を持って平和で自由に生きられるのが我々日本民族であり、その精神こそが太古の昔から我々の血に脈々と流れる日本文化なのだということである。 そしてその精神を最大化することで規制も社会福祉も不要となり、明るい未来を前提に将来への展望を描くことが出来るということである。

 

 

追記:音楽産業で有名なエイベックスの松浦勝人社長が「富裕層は日本にいなくなっても仕方ない」と発言したことに対して批判が相次いだという報道があった。 「こんな国に住んでいられるか」というのがお金持ちの正直な感情であろう。 その正直な感情を批判し、日本から追い出したとして、その後に何が残るのか。 あるいは金持ちから富を収奪したら、その後に何が残るのか。  怒りの矛先が余りにも的外れである。

"アベノミクス" よろず屋と化す政府

  • 2013.05.05 Sunday
  • 18:09

安倍政権の経済政策は巷では"アベノミクス"などという名称を与えられて持ち上げられているが、簡単に言えば「社会主義」以外の何物でもない 民主党という社会主義らしい社会主義政党から自民党という保守っぽい社会主義政党に変わっただけのことである。 アベノミクスの全ては社会主義政策らしく、政府が権力と官僚機構の機動力を行使して個人や企業の活動を制御し、より良い方向に操作し、それらの結果に対する責任を負うべきだ、とする考え方に基づいている

 

歴史上、様々な社会主義的政策が試みられてきた。 高き志と清き心と熱き情熱が高度な専門知識によって政策化され、実施されてきた。 それらの政策ことごとく最終的に失敗へとたどり着いた。 政策立案者や支持者が失敗を認めることは無くても悪しき結果は隠しようのない事実である。 最低賃金制度は労働者の生活を守りたいという理念から生まれたが、結果は失業の増加であった。 週休二日制度は労働者のワーク・ライフバランスを守りたいという理念からうまれたが、結果はコスト増による産業空洞化であった。 労働基準法・最低年齢は子供を搾取から守りたいという理念から生まれたが、貧乏人が収入を得る機会を奪われる結果となった。

 

社会主義政策というものは、いかに高邁な理想と高度な知識によって制度化・実行されようが、必ず失敗するという運命にある。 何故かといえば、当然といえば当然だが、少数の集団が何千、何万、何百万、何千万という人々に代わって意思決定をし、良い結果を生み出すのは不可能だからである。 鍛冶屋には鍛冶屋の、木こりには木こりの、油屋には油屋の、駄菓子屋には駄菓子屋の、積み上げた歴史と経験による知恵がある。 東大・京大・慶応早稲田を出ても、そこからハーバードやプリンストンやケンブリッジに留学しても、鍛冶屋にも木こりにも油屋にも駄菓子屋にもなれないのである。

 

東大・京大を出た人間が駄菓子屋なんぞになりたいわけがあるまいという問題ではない。 社会主義政策というのはまさしく政府が個人や企業にとって代わって細々としたことまで決定を下すということなのだから、自動的にそうならざるを得ないのである。

 

安倍政権は少子化や子育ての問題に積極的に取り組もうとしているようだが、子供を産むのも育てるのも政府の仕事ではなく親や家族の仕事である。 親が子供を保育所に預ければ、その子供の責任を持つのは政府ではなくて保育所である。 保育所の人員や設備の管理に責任を持つのは政府ではなくて保育所の経営者である。

 

保育所の園長さんはその道一筋で長年の経験がなければ勤まらないし、そうであっても様々な困難に直面しながら時には失敗し、時にはうまくこなしながら日々の業務をこなしている。 その道のド素人である政府・官僚が育児や保育に手を出してうまく可能性は万に一つもないし、そもそもそのような考えを持つこと自体、傲岸不遜にもほどがあろうというものである。

 

安倍政権は女性の票を狙ってか、育児休暇を1年から3年に延ばすことを企業に要請することを検討中だとか。 当たり前のことであるが、最低賃金を上げると労働者を雇うコストが上がって結局労働者のために全くならないのと同じで、女性を雇うコストが上がるために企業としては女性を雇いにくくになり、結局は企業側も「書類選考にて見送り」といった当たり障りのない理由をつけて女性を雇わなくなるだけのことである。 企業の人事としては、これが政策として実施されも法制化されもする以前に、政治家が「話し」を始めた段階で今後の採用方針を考え始めるはずである。

 

いったい政府は「何屋さん」になりたいのか、はたまた「よろず屋」になりたいのか  政府はあくまでも政府であって保育所の経営者ではない。 政府はあくまでも政府であってよろず屋ではない。 政府の仕事は国民の基本的な安全を守ることであって、保育所の園長さんの真似事をすることではないし、不用意で愚にもつかぬ発言をして国民の生活や将来を脅かすことでもない。 安倍首相は下野していた間、政府とは何たるものか、政治家とは何たるものか、それらを突き詰めて考えたのではなかったのか。

「日本精工:独禁法違反で罰金」国家による収奪のひとコマ

  • 2013.03.30 Saturday
  • 11:34
 

 

法とは何か…. 保守主義の源流の一つである19世紀フランスの自由主義経済政治学者のフレデリック・バスティアは著書『法』の中で言う。 「法とは正義である法とは個人が身体、自由、そして財産を自衛するための集団的組織である」と。 バスティアの言に従えば、今日の世界そして日本に存在する法律のほとんどは「法」の名に値しない。 すなわち悪法である。

 

人間は歴史上、法の本来的な存在理由を捻じ曲げ、人間の悪しき性質である「収奪」のために法律の持つ強制力を利用してきた。 その法律が悪法すなわち収奪かどうかを判断するにはどうすればよいか。 バスティアは言う。 「その法律が、ある人からその人に属する所有物を取り、その物が属さない別の人に与えるのであれば、それは収奪である」「その法律が、個人であれば犯罪を犯すことによってのみ可能な方法で、一人の市民に不利益を与えることと引き換えに別の市民を利するのならば、それは収奪である」と。

 

独占禁止法という法律がある。 ベアリングの大手の日本精工という会社が独禁法違反で3億8000万円の罰金を科された。 2010年に日本精工の幹部が業界の他3社の幹部と会合を持ち、鋼材価格の値上がり分を産業機械向け軸受けの価格に転嫁することで合意していたのだという 判決を述べる裁判長がこう言ったそうである 「犯行は大規模かつ組織的に行われ、悪質。市場占有率が最大の日本精工がカルテルの中心的役割を果たした」と。

 

独占禁止法はバスティアの言う収奪であり、すなわち悪法である。 収奪の定義に完全に一致するからである。 ある企業がその業界でシェアを拡大すれば、その企業は”その業界における”独占に向かって限りなく近づいていることは間違いない。 だがそのシャア拡大は品質とサービス改善という企業の努力なしには成しえないものであり、すなわち、企業の財産であり、企業を構成する個々の社員の財産である。

 

独占禁止法なる悪法は空想の論理に基づいている。 「企業は独占によって我々市民の生活を牛耳ることが出来る」という空想である。 だから「政府が国家権力を行使して介入し、企業からその財産を奪って別の企業に与える”調整”をしなければならない」となる。 

 

なぜ空想なのか例えば、テレビ製造の業界である1社が何らかの理由でシェア1番となり、他社を買収して完全な独占状態を実現したとする。 ではそのテレビの会社は好き放題の値段をつけられるのか。 今まで1万円だったのを10万円や100万円や一千万円の値段をつけられるのか。 つけるのは勝手である。 では消費者はどう反応するか。 消費者にとってはスマートフォンもあればパソコンもあればI-Padもあればあれもこれもある。 テレビ好きには痛いだろうが死ぬことはない。 テレビを買わなくなるだけ、というのは容易に推測できることである。

 

独占禁止法成立に関わった”偉い人達”がいかに単細胞であるかが分かろうというものである。 しかもその単細胞ぶりと無知無能を恥じるでもなく堂々とその独善的論理を振りかざすのだから政府というのは恐ろしいものである。 法が機能する国は栄える。 栄える国は国民が幸福を享受する。 一方、法が捻じ曲げられ、収奪に利用される国は停滞と後退に苦しむ。 そのような国において国民は不幸と惨めさを味わう。 今の日本がどちらに向かっているか、言わずと知れたことである。

児童労働と希望ある社会

  • 2012.10.09 Tuesday
  • 00:16
 

児童労働は悪いものである、と多くの人々が信じている。 酷いものであり、汚いものであり、そして不道徳なものであると。 邪悪な大人が年端もいかない少年や少女を無理やり働かせ、利益を掠め取る。 子供たちから学校で学ぶ機会を奪い、無知なままにして一生奴隷のようにこき使う。 それが児童労働であると。

 

児童労働の撤廃に向けて取り組む国際機関がある。 ILO-International Labor Organization(国際労働機関)という組織である。 この機関のウェブサイトにはその起源が説明されている。 

 

The ILO was created in 1919, as part of the Treaty of Versailles that ended World War I, to reflect the belief that universal and lasting peace can be accomplished only if it is based on social justice. 「世界的な永続的な平和は社会的正義を基礎としてのみ確立することが出来るという世の機運を背景に設立された」 

 

社会的正義という言葉は社会主義とそのまま置き換えることが出来る。 社会的正義とは左翼が考案した一種のまやかし言葉である。 なぜならば、そもそもが「正義」には社会的も国家的も地域的も個人的もへったくれもないからである。 正義とは、時には個人の利益に反することがあろうとも良き行いを追求する、ということである。 常に他者あるいは外界との関わりの中で問われる概念である。 自分一人だけが存在する中での正義など有り得ようか。 否応なく社会性を帯びる。 社会的などと言うまでもなく、この世にあるのは「正義」のみである。

 

このILOという社会主義組織が撤廃せんとする「児童」労働とは何なのか。 かつて「児童」労働が当たり前だった時代、社会には希望があった。 かつて「児童」労働が当たり前だった時代、社会は明るかった。 かつて「児童」労働が当たり前だった時代、社会には活気があった。 なぜか。 それは「児童」労働こそが、児童が児童から大人へと脱皮することを助け、自由と富を得ることを助け、そして自信と自尊心を得ることを助けてきたからに他ならない。

 

本田宗一郎知らぬ人なき立志伝中のこの人物は小学校卒である。 小学校を卒業するとすぐにアート技研という会社に入社し、その後ホンダを創立、巨大な産業へと押し上げた。 

 

松下幸之助この人の名前を知らぬ人もいない。 この人物は小学校中退である。 9歳で丁稚奉公に出て様々な仕事を経験し、パナソニックの前身である松下電器を創立した。 

 

ホンダもパナソニックも何万何十万何百万という雇用を作り出し、社員とその家族、株主とその家族、取引先社員とその家族が生活をするための収入を与え続けている。 彼らは我々消費者にとってみれば高性能で便利で長持ちする製品を安く提供してくれるありがたい存在である。

 

両者とも、幼い時分から仕事の現場に出た。 非常に若くして責任を負った。 彼らはいわゆる良い子ではないし、いわゆる秀才でない。 いわゆる良い家の出でもない。 貧しくても額に汗して手を汚して働く親の姿を見る。 そして自分も一緒になって働く。 あるいはほっぽり出されて他人とまみえて働く。 金を稼ぐことの大変さを知る。 同時に若くしてスキルを身につける。 頭を使い気を使うことを知る

 

彼らの出自を眺めて気づくのは、あの時代だからこそ「こんな生き方が許された」という事実である。 学校へ行けなくても、行きたくなくても、行かなくても、生きる道があった飛び抜ける道があった飛躍への、卓越への道があった 誰でも出来るわけではない。 一握りの人間にしかできない業を為し、そして多くの人々に恩恵をもたらした。 それが彼らの偉大性である。

 

しかし、もしも「児童労働禁止… 14歳以上は働いてはならない 14歳以上18歳以下の”若年”労働者にはこれこれの事をさせてはならない 雇用する場合はこれこれの条件が必要である」という社会であったならばそこには本田宗一郎や松下幸之助は出でなかったに違いない。

 

日本は今消滅に向っている。 不況と弱体化と少子化と...。 年間3万人もの人々が自ら命を絶つ。 厳しい社会に出るよりも生活保護をもらった方がいい... この流れを断ち切る策はあるのか。 「具体的な政策」が好きな左翼にはこのように答えればよいそれは「児童労働禁止の撤廃」であると。 

 

それ自体がマジックを起こすのではない。 そうではなく、「お子様の権利」という左翼がこよなく愛する概念を木端微塵に打ち砕くことに意味があるのである。 子供は働けないのだ、という通念をぶち壊すことに意味があるのである。 そして社会を希望で満たすことに意味があるのである。 学校で勉強も運動も全然ダメなら全部ダメ、という通念をぶち壊し、そうじゃないのだと、生きる道は星の数ほどあるのだと。 学が無くとも金が無くともあれが無くともこれが無くとも何が無くとも...世の中やればなんとかなるのだと...

 

 

参考:

 

社会主義インターナショナルと国際労働機関

 

国際労働機関(ILO)とは

 

国際労働機関を基礎とする国際基準SA8000

 

SA8000 Standard

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