「森友問題」 教育の自由の危機

  • 2017.04.09 Sunday
  • 15:40

ここ数週間にわたり国会とメディアを賑わした「森友問題」とは何だったのか。
 

  • 小学校認可の経緯が不自然
  • 国有地売却の経緯が不自然
  • 補助金の受給経緯が不自然
  • 塚本幼稚園での「異常」で「偏った」愛国教育


これら疑惑に関して森友学園の理事長である籠池氏が国会喚問に呼び出され、「迷惑」をこうむった自民党が籠池氏を叩き、自民党と籠池氏の過去の癒着をネタに攻撃をしかけた民主党が自らの氏との関係を暴露されるという顛末に至った。双方叩き合いに明け暮れた数週間が経ち、いまやどうでもよくなった白けた空気が漂っている。

恐らくこのまま世の関心が薄れていき、この「森友問題」が表出させた本質的な部分は一顧だにされないまま立ち消えになるであろう。

塚本幼稚園の教育は問題ではない。その教育方針に賛同するか否かは個人の自由である。教育勅語を園児に暗唱させる教育を素晴らしいと思えば子供を入れればよいし、「安倍総理頑張れ!」の合唱が変だと思えば入れなければよい。

この「問題」の本質は、許認可制度と補助金制度の弊害、そして失われる教育の自由である。

許認可制度と補助金制度があるから「森友問題」がある。

許認可制度と補助金制度がなければ「森友問題」はありえない。

基本的に土地を所有するのが民間であり、国有地は国家防衛に関する一部の土地に限定しておれば、「土地売却の価格が適正であったか否か」などという論争は起こりえない。

教育における許認可制度と補助金制度は、公平中立を謳いながら実のところある方向性の政治的な偏りを押し付ける仕組みに他ならない。その偏りとは文科省と日教組が良しとする方向性である。彼らの基準に沿い、彼らの方向性を向く教育は保護され、補助され、優遇される一方、そっちを向いていない教育は否定され、不利な競争を強いられる。あるいは否定されないためには地方政府や中央政府との関係づくり(忖度や口利き)が必要となる。

しかし、いわゆる右もいわゆる左もこの側面に全く触れることなく泥仕合に興じる。それを眺める大衆はどちらかについて互いになじりあう。まさに一億総愚鈍社会である。

一億愚鈍社会から身を引き離してこの件を考えれば、民間教育に対する熾烈な破壊工作が行われていることが分かろう。

大阪府が森友学園に立ち入り調査に入り、小学校の許認可申請は取り消され、出資者や親(顧客)にも動揺が広がっている。制度と関係によって成功した籠池氏は制度と関係から遮断され、窮地に立たされている。

政府基準に合わない民間教育は攻撃に晒され、じわじわと絞め殺される。教育の自由はますます狭められている。

"Better Late Than Early" 読了

  • 2015.01.18 Sunday
  • 02:54

"Better late than early" 早いより、遅いほうがよい。 本書は「遅い」初等教育のススメである。



世界、そして日本の教育界の趨勢はひたすら集団教育の低年齢化へと向かっている。 世界、国、そして自分自身の将来への不安を抱えながら、親は少しでも良い未来を子供に託そうと、一歳でも早くから集団教育をスタートさせることに余念が無い。

本書はそのような趨勢に警鐘を鳴らす。 早期教育は子供をカタワにすると。 近眼、どもり、非行、勉学への意欲喪失、これらは早期教育の結果である。 逆に言えば、これらを未然に防止するには初等教育の開始を遅らせることである。

ここでいう初等教育とは保育園や幼稚園を含む、施設での集団教育のことである。 「遅い初等教育開始」とは、すなわち子供を何らかの教育機関に入れる時期を遅らせ、その間家庭で教育することである。 更には家庭での教育とは机に向かっての学問的教育ではなく、人間としての徳を叩き込む教育である。

子供の育成において父親の役割は欠かすことができない。 だが家庭での教育で主役となるのは母親である。 母親と子供の20分間の遊びは3時間の「学校教育」に匹敵する。 本書が勧める集団教育の開始時期(小学校入学)は8歳〜10歳である(ただし1年生から始めるわけではない)。 全人格的な人間形成及び、視覚・聴覚・認識・判断など、学ぶための準備を整えるにおいて決定的な時期となるのが生まれてから8歳〜10歳になるまでである。 この時期に、幼児と大人である親とが暖かい家庭において安定した関係を築くことが、その後の子供の人生を決定づけるほどに重要である。

子供を教育するにおいて母親に必要なのは学位でも知識でもない。 必要なのは子供に対する献身的な愛である。 母親が求められるのは子供に断片的な知識を詰め込むことではなく、生きる基本を身に着けさせることである。 子供は母親と一緒にあらゆる家事を行うことで、皆から必要とされる一家の一員であることを実感する。 親と一緒に掃除、片づけ、料理、買い物、家庭菜園の手入れをすることで生きるための経験を与えられる。 この経験はテレビやゲームからは決して得ることができない。

子供は学校で受け身になるのではなく、自分の目で見、耳で聞き、手で触り、動かすことで能動的に生きることを経験する。 ご飯の時間までに料理を作り終えるには何時から作業を始めればよいのか、そのためにスーパーで何を買えばよいのか、塩・砂糖・バターは何グラム必要か、4人いる家族と2人の来訪者のために箸を何本並べればよいのか。

こういった作業を親と子供が一緒に行うことで、子供は実体験において言葉と時間と空間を肌感覚で把握し、同時に計画し、計測し、計算し、記録することを学ぶ。

読むことはあらゆる学びの基本である。 読むとはすなわち考えることである。 しかし人間は目が見えれば「読める」わけではない。 読めるためには言葉が有機的に実体験と繋がっていなければならない。 そうでなければただ単に文字ヅラを追っているだけに過ぎない。

家庭教育において、子供は以下「読むための基礎体力」を8歳〜10歳までに身に着ける。

視覚(本の文字など、近いものをしっかり捉えて落ち着いて追える)
認識(文字として読んだものを現実とつなぎ合わせて理解できる)
聴覚(音の違いを正しく聞き分けることができる クとグ、オとヨなど)
滑舌(正しく聞きとった音を正しく発音することができる)

逆にそれ以前は準備期間であり、準備が完了していない時期に無理に学習を始めれば結果は学びへの意欲喪失となる。 学校教育とはまさに学びへの意欲を喪失した子供の大量生産の場である。

本書の著者は早期集団教育提唱者と対立する。 早期集団教育において、子供は早いうちから家族から引き離され、集団の型に押し込められる。 親は子供を自分の影響が及ばない場所に子供を送り出すわけである。 幼い子供が他人の子供との共同生活でストレスに悩まされ、それが精神的障害の原因となっている事実は数々の事例によって証明されている。 崩壊した家庭の子供にとっては集団教育の場は有意義でありうる。 だがそれは特別な事例であって、全ての子供を学校へ送ろうとするのは病人も健常な人も全員を病院へ送ろうとするようなものである。

準備不足の状態で学校に送られた子供はついてゆけずに脱落する。 あるいは一見成績はよくても内なる葛藤を抱え、後に学びへの興味を失う。 失敗することへの恐れが子供の心に委縮やフラストレーションをもたらす。 失敗→興味の喪失→諦め→脱落.. こういった負の連鎖は往々にして「早すぎる集団教育」の産物である。 学問的な能力の開発が比較的に遅いからといって知能遅れとは限らない。 準備不足な状態で学問教育を強いられれば、文字ヅラは読めても本当の意味が分からない。 意味が分からなければ面白さが分からない。 面白さが分からなければ、読むことへの興味は失われる。 学習障害が学校教育を始める時期が早期であればあるほど発生する確率は高い。 賢ければ賢いほど、自分がすべきことと実際にできることのギャップに苦しみ、精神的なトラブルを抱える傾向がある。

しかし、子供を集団教育の場に置かずに家でずっと教育してどうやって「社会性」が身につくのか? これは最も一般的な疑問である。 早期学校教育が子供の社会性育成に有効であるという神話は根強い。 そもそも社会性とは何であろうか。 社会性とは、自制心ある人間として礼儀と節度をわきまえ、他人を思いやり、責任ある正しき外交的な振る舞いが出来ることである。 ギャグをかましたり人の顔色をうかがったり空気を読んだりと、いわゆる世渡りに長けることではない。 社会性は人から与えられ、人に与えることによって醸成されるものである。 社会性を教えることが出来るのは他でもない親である。

逆に、同年代の子供から何かを学ぶとすれば、それは子供の世界でしか通用しない振る舞いか、生の暴力と脅しである。 子供の世界でモノを言うのは理性ではない。 強きが弱きを従える、力ありきの社会、それが子供の世界である(ある意味国際社会の縮図である)。 集団教育の現場にて、大人(教師・職員)が一人一人の子供に親身に接するのは不可能である。 従って、集団教育の場では子供の社会性の形成は遅れることになる。

多くの親は、集団教育こそが教育であるとの意識のもと、子供に権利を与える一方で責任を教えることをせず、その結果手に負えなくなると学校に責任を押し付ける。 その間子供は人間としての基本を結局誰からも教わることなく成長する。

社会性は教えないわ、余計なストレスをかけて精神障害を引き起こすわ、学びへの興味を喪失させるわ、手短に言えば集団教育は欠陥商品である。 いまどき欠陥商品を唯々諾々と買い続けるのはよほど愚かな消費者だけである。

だが、10歳まで家で教育をし、それから学校教育を始めて本当に大丈夫か?という疑問はあろう。

往々にして家庭で教育を受けた子供は最初は同年代よりもやや遅れてスタートするが、あっという間に同年代に追いつき、追いつくだけでなくリーダーシップを発揮するものである。 なぜならば、そのような子供は早期に学校に入った子供には得られない体験をしている自信があるからである。 基礎的な体力が備わっていることに加え、学ぶことへの明確で強い目的意識があるから同年代の子供よりも一歩も二歩も先を行けるのである。

生まれた直後から8〜10歳になるまで、本格的な学習を開始するまでの準備期間に何をするべきか。 本書は以下に挙げる項目を軸に、―仍此18か月、1歳〜3歳、2歳〜5歳、4歳〜7歳、6歳〜8、9歳のそれぞれの期間、家庭において子供をいかに教育するべきかを述べる。

 
  • 自制心と服従(自分の欲求を制するのは人間として生きる基礎である。 家庭は民主主義ではない)
  • しつけ、マナー、規則、法律(やってよいこととやってはいけないこと)
  • 触ってよいものダメなもの、自分の持ち物と他人の持ち物との区分(所有権とその範囲=大人になってもこれが分からず、人の金も自分の金だと思っている人間が多い)
  • 好きに行動することが許される範囲(他の家に行って恥をかかないように)
  • 子供の友達をどうやって選ぶか(友人選びは教育の一環である)
  • 規則的生活(幼児に対する"feeding on demand"は「我儘っ子」への早道)
  • 好き嫌いの無いバランスの取れた食事(前の食事で残ったものから食べさせるべし)
  • 生活回りのあらゆる手段・機会・対象を使っての言葉の習得。 雑誌の切り抜きを使う手作りのジグソーパズルなど、金をかけなくても出来ることは山ほどある (名詞から始まり、形容詞、副詞、そして動詞、現在形・過去形、正しい文法の習得)
  • 音楽:旋律とリズム (ピアノを習わせる前に音楽に合わせて空き缶でドラム叩き)
  • 安全衛生(刃物の扱い、熱湯やガスコンロやドアへの注意、交通安全)
  • 他の生きものへのいたわり(小動物を飼ったり植物を育てることで、生かされている自分を知る)
  • 他人へのいたわり(これが教えられるのは、子への無限のいたわりの気持ちを持つ親だけである)
  • 整理整頓、信頼性、迅速性、配慮、勤勉、清潔(「来た時よりもきれいに」と「整然とした作業環境で効率良い仕事を」の精神を叩き込む)
  • 辛抱(撒いた種はすぐに花を咲かせるわけではない。 花を咲かせるには日々の観察と水やりと光合成が不可欠であることを家庭菜園で知る)
  • 計画性(規則性のある生活を回していくために先を読んで行動する癖をつける)
  • 情報の正確な把握と伝達(「〜を〜へ伝えて」「〜を〜から持ってきて」の指示を実行させて正確さへの意識を植え付ける)
  • 社会の仕組み(警察、消防、政府、企業はどうやって社会を構成しているのか。 政府と市場のあるべき関係を知る)
  • 経済の仕組み(定額のおこずかいで収入と支出、貯金と消費を知る。 特に貯蓄の大切さは重要)
  • 調査(「教わっていないから知らない」ではなく、分からないことをいかにして能動的に調べて知識とするか)
  • 目標、実行、挑戦、結果(レゴを組み立てる、お絵かきを仕上げる、のような小さな作業を完了させることで達成の喜びを知る)
  • 愛国心・社会と国家と歴史への敬意(自分が生を受け生きられるのは誰のおかげであるか。 家族、地域、国家、そしてそれらを守り育んできた歴史と伝統とその有難さを知る)

朝起きてから夜寝るまでの全ての時間が教育である。 朝から晩までぎゅうぎゅうにカリキュラムを組めという意味ではない。 子供が大人に向かって育つのを助け導くために、一刻も無駄にするなかれということである。

8歳にもなれば、家事のほとんどが自分でできるようになる。 一人前に家族のためにいっぱしの食事が作れるようになる(本書では8歳でパンが焼ける子供が紹介されている)。 読み書き計算を早々と始めさせようとするのではなく、生きる基本をしっかりと身に着けさせる。 自分の身の周りのことを自分で片づけ、周囲の人のために何かをしてあげることのできる自立した子供を育てる事。 それが家庭教育の真価である。

大学に行く価値があるのか?  "Is College Worth It?"読了

  • 2013.06.23 Sunday
  • 00:12
 

この本を手に取った(Kindleでダウンロードした)きっかけは私が常々感じていたことを直接的に問いかけるタイトルを目にした(ラジオで耳にした)からである。 著者の一人であるウィリアム・ベネットはレーガン政権で教育長官を務めた人物でありその道に関しては権威がある。 内容的にもまさに私の考えていたことを追認するものであった。

 

"Is College Worth It?: A Former United States Secretary of Education and a Liberal Arts Graduate Expose the Broken Promise of Higher Education" (Amazon)

 

学生ローン問題がアメリカを揺るがしている。 住宅バブルの再来とも言われる。 大学・大学院の学費がここ十数年でうなぎ登りに上がり続けている。 その一方で学生が大学や大学院に行くために何千万単位で借金をする。 4年間の学生生活を全うできず途中でドロップアウトする者もおれば、晴れて卒業しても就職できなかったり、就職できても低収入に苦しむ人間がいる。 問題は、益々悪化する経済状況の最中、借りた借金を返すことが出来ない者や返す当てがなくて破産宣告する者が益々増加しているということである。 学生ローンは一種の不良債権となりつつあるのである。

 

2011年の後半からOccupy! Movement(占拠せよ!運動)というのがウォールストリートを起点として全米各都市で発生した。 ナチスシンパ、共産主義者、アナーキスト、ゴロツキ、不良少年少女、反ユダヤ主義者、イスラム主義者、ルンペン、ホームレス いわゆる「しょうもない」人間達が大集合したわけだが、その中核をなしていたのが「学生」あるいは「学生崩れ」達であった。

 

「俺たちは学生だ!」

 

8万ドルも返せってか!?」

 

「大学出たって就職できねえじゃねえか!どうしてくれんだ?」

 

破壊行為は非難されるべきは当然として、彼らに一片の同情を与えるとすれば、彼らは”板挟み”にあったといえる。 「大学に行くのは当然...」「大学に”行かない”ではなくて”行けない”のだ...」「大学くらい出なきゃ肩身狭い...」「大学出なきゃ”まとも”じゃない...」 そんな風潮の中で周囲からの期待と圧力とをそれなりに受けて大学に行き、過ごし、卒業する。 しかし彼らを待っていたのは就職難という現実 「クソッタレ」くらい言いたくなる気持ちは分かる。

 

これから大学に進学しようと考える学生、あるいは子供を進学させようとしている親に対する本書のメッセージはこれである。

 

  • あやふやな「夢」から目を醒まして「現実」を見よう。 大学卒業イコール高収入ではない。 ハーバード・プリンストン・スタンフォード・MITなど、教育内容以外にも絶対的な「箔」と「人脈」がその後の人生を約束するほどの大学がある一方で、カネばかりかかって何の役にも立たない大学もある。
  • 「学びたい」のか、「卒業証書」を手にしたいだけなのか、もう一度問い直せ。 パーティーに明け暮れたいだけなら、残るのは「多額の借金だけ」になる可能性を直視せよ。
  • 本当に投資(=学費)に見合うリターン(=教育)が得られるのか、確証を持って進路(大学に行くのか?行くのならどの大学か)を決めよう。 STEM (Science, Technology, Engineering & Mathematics)分野は学業面でチャレンジングな一方で一般的に就職には有利で高収入を得られるのに対し、人文学科(特に「人間学」「文化」「芸術」「哲学」といった定義しにくい学問)は学業面で比較的とっつきやすい一方で一般的に就職には不利で低収入である、という事実を冷静に見たうえで、この学費を本当に払う価値があるのか、考えよう。
  • 多くの大学はリベラル(左翼)であり、高額な学費で「音楽界における同性愛者の役割」「ボブ・ディラン学」「フローラル・アート(いわゆる”お花”、 植物学として...)」「レディー・ガガ学」といったナンセンスなコースを提供している事実を知ろう。 当然そういった学科は就職には何の役にも立たない。
  • 高額な学費の使い道を冷静に見つめよう。 目的は「学ぶこと」にあるはずなのに、キャンパス内を走るミニ列車、大理石張りの堂々たる学生センター、映画館、ステーキハウス、プラズマテレビ据え付けの学生寮、古代ギリシャ風の屋外温泉といった施設に湯水のごとく金をつぎ込み、「普通じゃない環境で、普通じゃない自分を見つけよう」みたいなキャッチフレーズで学生を釣る大学は数多い。 親が必死で働いたカネを使う、あるいは自分が借金を背負うことを考えよう。 その価値があるのかと。

 

本書はまた、大学の学費がインフレ率よりも遥かに高い率で上がり続ける原因を明らかにする。 その原因は、またか、と言いたくなるが、「住宅ローン」「サブ・プライム」と同様に「政府の政策」である。 政府は「国民全員へ高等教育を受ける機会を!」「高等教育による豊かさを!」といったスローガンのもとで大学に対する補助金と学生に対するローンを増やし続けた。 税金を財源としたカネであるから「底なし」である。 補助金を得た大学側はコスト削減に対する動機を失う一方で、社会の風潮に乗って学生を釣るための「設備投資」や「人的投資(有名人教授)」に走る。 ローンを得た学生側は「政府が後押ししてくれる」「周りも皆ローンを組んでいる」という漠とした安心感と「教育を受けるのは権利だ」という変な権利意識から後先考えずに高額な買い物をしてしまう。 供給側にも需要側にもコスト上昇要因が圧倒しているのである。

 

本書は大学を卒業した後バーテンダーとしてその日暮らしをしている男性をはじめ、数多くの実例を挙げて巨額の借金を背負って苦い思いをしている多くの人々の例を紹介している。 そして多くの人々がその轍を踏まないよう呼びかける。 昔も今も、大学に行かなければまともな仕事に就けないなどということは”あり得ない”のだと。 時代がどれだけ変わろうが、エレベーターは故障するはトイレは詰まるは車はぶつけるは何やらで、「手を動かす仕事」「学位ではなくて経験と技術がモノをいう仕事」は絶対になくならないのだ、と。 学術的活動に興味の無い人が無理して大学に行って分からない授業にかじりついたり読みたくもない本を読まされるよりも、高校や専門学校で出て就職し、技術を習得して手に職をつけたほうがよほど充実感と収入を得ら得るのである、と。 また、更にはビル・ゲイツのようにもともと飛びぬけている人間にとっては大学など無意味なのだ、と。

 

本書は大学の問題を論じると同時にそれ以前の義務教育(アメリカの場合、小学校、中学校、高校の12年間)の問題にも言及する。 義務教育があまりに疎かになっているのだ、と。 「世の中の大部分の仕事は基本的な読み・書き・計算の能力とやる気があれば出来るのだ」「だから高等教育は一部のベスト&ブライテストだけが受ければよいのだ」という私の従来の主張にも通じる部分である。

 

本書はアメリカの教育問題を論じたものである。 しかし日本でも「大学レジャーランド化」など既に古い話で奨学金返済が滞る事態が年々悪化し、借りた学生が「返すなんて、無理ですよ!」などとデモ行進するくらいであるから他人事ではない。 子供一人あたり何千万は”絶対にかかる”だから...などと人生設計しなければならない社会は不健全である。 大部分の人々が中学あるいは高校を出たらさっさと仕事をし、家計を支え、貯金し、経験を積んで収入を増やすそれが健全な人々の姿であり、世の姿である。

 

 

参考:著者インタビュー HIGHER EDUCATION TODAY - Is College Worth It?

 

 

待機児童 - 政府による市場攪乱がもたらす困難

  • 2013.03.31 Sunday
  • 13:21
 

 

苦しみから逃れんとする人々が自ら進んで苦しみに向かって突き進んでいくのを見る様は心が痛む。 待機児童の問題はまさにそれである。 先日も新聞で報道されていたが、全国で保育所に入ることが出来ない児童が増え続けていて、その親たちが地方政府に対して不服申し立てをしているというのである。 この事態を打破するためにどうするべきか、新聞報道の一般的な論調はこうである「国や自治体が施設の整備を急ぐべきだ

 

需要が増加しているにも関わらず供給がそれについていかない。 簡単に言えばそういうことである。 それは衣服であろうが食べ物であろうが住居であろうが、なんであろうがそのような現象が起きる場合、その原因は共通している。 政府による市場への介入、それによる市場の持つ調整機能の阻害、そしてそれによる需要と供給のバランスの攪乱である。

 

なぜ保育所が増えないのか。 なぜ認可保育所でまかないきれない分を認可外保育所でカバーできないのか。 原因は規制にある。 施設に対する規制と料金に対する規制である。 

 

認可保育所はその名の通り「国の基準を満たして都道府県から認可された」保育所である。 認可外保育所は認可を受けていない保育所であるが、では規制は無いのかといえばあるのである。 保育士の人数、保育面積、設備等、やはり自治体の定めた基準を満たさなくては営業が出来ないのである。 例えば、広い家に住み、子育て経験が豊富なある人が一念発起し、子育てのひと段落した主婦を雇って家の一角を使って託児所を始めようか、などと考えても基準を満たすことが出来ない。 だから結果として諦めるしかないのである。

 

認可保育所は料金設定が地方政府によって決められている。 例えば東京都の福祉保健局のウェブサイトにはこうある。 『東京都認証保育所事業実施要綱4に定めるところにより、原則として、月220時間以下の利用をした場合の月額は、3歳未満児の場合80,000円、3歳以上児77,000円を超えない料金設定とすることとしています』 国を問わず、時代を問わず、共通する経済の法則がある。 それは、恣意的に料金を抑えると需要に対して供給が減少する、という法則である(逆に、下限を設定すると供給に対して需要が減少する - 例えば最低賃金)。

 

世の中には高収入家庭と低収入家庭がある。 自治体が設定した価格を無理だと感じる貧困家庭もあれば、しんどいと感じる家庭もある一方、ある程度いけると感じる家庭もあればハナクソ程度だと感じる富裕家庭もある。 富裕家庭にしてみれば裏のコネとカネを使ってスペースを確保するのは簡単である。 当然コネもカネもない家庭は限られたスペースを探し回ることになる。 これはそのまま医療(医師不足)にも言えることである。

 

自治体にしてみると「善意で」価格上限を設定したのかもしれないが、結果は市場の攪乱である。 例えば貧困家庭にしてみれば、わいわい騒ぐ大勢の子供たちに僅かな保育士の貧弱な設備の保育所でもよいから子供を預けたい。 一方で、例えば空調と空気清浄が効いた絨毯張りの心地よい部屋で子供にモーツアルトの音楽や英語に親しませ、読み書き教室を提供するようなサービスに金に糸目をつけない富裕家庭もあるだろう。 だが現実に提供されるのは画一化された「国に認可された保育所」である。

 

「保育は市場ではない!資本主義の原理を持ち込むな!カネの問題じゃない!」こういった感情を抱くのは個人の自由である。 しかし問題は、個人の思想に関係なく「経済の原理はいかなる体制においても厳然として存在する」のが事実であり、「それを無視しようとも胡散霧消することはない」という現実である。 事実と現実を認めるかどうかの問題である。

 

しかし子供を預ける保育所なのだから国の認可くらい必要だろうが! 認可どころか基準にも満たしていないところに預けるのは心配だろうが! そういう声もあろう。 では「国の認可」「自治体の基準」がもつ意味を考えてみればよい。 「国の認可」するから、「自治体が基準を設ける」から、では国や自治体はそこで起こることに対して何らかの責任を持つのか、そして持ち得るのか、ということである。 

 

昨年、大津市で中2男子が自殺した問題が社会に波紋を広げたが、この学校は国の認可を受けているし、この学校の教師も全員国の認可を受けている。 生徒にいたずら行為をする小中学校の先生のニュースは時々あるが、彼らは全員国の認可を受けた大学の、国の認可を受けた教職課程を経て、国の認可を受けた試験を受けて合格し、国の認可を受けた学校で、国の認可を受けたプログラムに従って生徒を教えているのである。

 

ではこれらの事件に際して国は、自治体は、何かの責任を取ったのか? そもそも取りえるのか? 「国は責任を取れ!!」と怒号することと、実際に責任を取らせることは、別物である。 例えば不祥事の教師を指導した教師やその認可に関わった人員が全員責任を取って辞職したなどという話は聞かないし、今後も聞くことはないだろう。 保守主義の源流の一つである19世紀フランスの自由主義経済政治学者のフレデリック・バスティアは著書『法』の中で述べているが、政府は規制をかけることで「持ちえない責任を背負う」のである。

 

苦しみから逃れんとする人々が自ら進んで苦しみに向かって突き進んでいくのを見る様は心が痛む。 なぜならば、苦しみを解決する方法は以外にも簡単だからである。 それは規制の「緩和」ではない。 規制の「撤廃」である。 日本人の持つ創意工夫の精神と現代の情報テクノロジーを駆使しさえすれば、明日すべての規制が蒸発してもなんら困ることはない。 それどころか、規制を解かれさすれば、多くの企業や個人が参入し、上の述べたような対処方法をはじめ様々なイノベーションによって待機児童の問題は胡散霧消するはずである。

 

国家と人々を蝕む教育なる癌、そしてその治療方法

  • 2013.02.23 Saturday
  • 14:06

"Our public school system is our country's most inefficient monopoly, yet it keeps demanding more and more money." - Phyllis Schlafly

 

“Education spending will be most effective if it relies on parental choice & private initiative -- the building blocks of success throughout our society.”

― Milton Friedman

 

 

医療と福祉は国家財政不健全の象徴であるが、教育もそれらと並ぶ癌である。 社会主義化した日本において、教育・医療・福祉といえば国家の最重要任務だとされている。 誰もがより高い教育こそより良い生活の保障であると考えている。 財政の癌を生きながらえさせているのは「教育は投資だ」と考える、マインドコントロールされた我々自身である。

 

人々は高い学費を払ってせっせと学校に通い、そして卒業する。 就職し、大学を出たばかりの新入社員がまず通過するのは挨拶研修である。 会社に来たら「おはようございます」、電話が鳴ったら「はい、○○株式会社でございます」、「対外的に社内の人間はサンづけしない」、「名刺を交換するときは...」、帰るときには「お先に失礼します」。 「あなた方は大学で経済を、経営学を、マーケティングを学んでこられました。 早速その知識を使って我が社の未来を決する新商品開発に携わっていただきたいのです」「あなたは文学を学ばれました。 早速その技能を使ってお客様の心に響くキャッチコピーを作成してほしのです」とは決して言われないものである。

 

新入社員がまずやらされるのが書類のコピー程度の仕事である。 これをコピーしてくれ、と言われてコピー機の前に行ったはよいがどう操作すればよいのかよく分からない。 適当にやって渡すと怒られる。 「両面でっていったでしょうが」「○部って言ったよね」「なんで真ん中でホチキス留めるんだよ、縦なんだから左端だろうが普通は」 自分はかのケネディ大統領が”無知を憎み、真理を愛する人たちの集まる、地球上で最も美しい場所”と呼んだはずの大学へ四年間通った。 そして今、”目先の金のことだけを追求する浅はかで精神性の皆無な”企業という場にいて「コピーの仕方がなっとらん」などと言われてコケにされている。 何なのだこれは...

 

大学を出て就職した人が身に染みて理解するのは、大学で学んだ知識など社会では何の価値もないということである。 コピーを取るのに必要なのはコピー機についているスイッチとモニターの機能を知ることであるって経済学の学位をとることではない。 適切な挨拶をするに必要なのは挨拶をする場を経験することであって経営学を学ぶことではない。 名刺の交換の仕方を知るに必要なのは商談の機会であってマーケティングを学ぶことではない。 これらの技能を習得するのに必要なのは「高価な学位」ではなくて常識と基本的な日本語力以上のものではない。 これら初歩的な技能を足掛かりとして人々はそれぞれの企業で必要とされるスキルを身に着けて階段を上がっていく。 そしてその間に高い金を払って学校で学んだことはきれいさっぱり忘れていく。

 

まあ分かっている、世の中はそんなものなのだ と多くの人はシニカルに構え、返すあてのない借金までしてまで大学へ、そして大学院へと進む。 借金とは奨学金のことである。 奨学生は学校を出たらすぐに返済を始めなければならない。 月に一万円程度だが、新米社員の給料には響く。 四十過ぎまで延々と払い続けなければならない。 奨学金の滞納が問題になっている。 日本学生支援機構(旧育英会)の2010年度末時点で123万人以上にも上り、総額1118億円を貸し出し3カ月以上の滞納額は約2660億円に上るという。 財源は税金である。 返せない・返さない理由は低所得だという。 大学や大学院に行くためにした借金を返せないほどに低所得であるというならば、その借金はいったい何のためだったのか。 そしてその借金を長い年月をかけて返す苦労は何のためなのか。 そしてその借金を国民として肩代わりする意味は何なのか。

 

実社会では大学院はもとより、高校、大学で教えられた知識をせっせと使って仕事をしているなどという人間はほぼ皆無である。 誰でもよく考えてみると分かるが、大多数の仕事に必要な知識は中学までに教わることで網羅されているのである。 そしてそれ以上の知識・技能が必要になる場合はコンピューターで処理出来てしまうのである。 私は自慢ではないが高校数学の微分積分の授業は眠って過ごし、試験では完全なる赤点だった。 だがエクセルを使って数値を駆使した業務をするに何の支障もない。 複雑な計算も、これはどうやるんだ?と思えばネットで関数を調べて打ち込めばそれでおしまいである。 

 

大学・大学院に何年も通い、何百万も使い、その後社会に出てから何の役にも立たない知識を詰め込むくらいであれば、むしろ中学卒業したらさっさと就職して仕事をしたほうが遥かに良い。 本人にとっても家族にとっても社会にとっても国家にとってもである。 それは企業では学校では得ることの不可能な、On the Job Trainingを基礎とした実質的な(コピー取りから始まって)教育・訓練が受けられるからである。 しかも収入まで得られるのであるから一石二鳥である。 企業にしてみれば若い労働力を安く雇えるわけであるからコスト面でも非常にメリットがある。

 

「大多数の人間が高校・大学・大学院へ進学すること」の意味を否定するからといって「高等教育」を否定しているのではない。 すべての仕事が中学レベルの知識・技能で実行できるわけではない。 一つ例を挙げれば、医薬の開発はどんな天才でも中学のレベルでは無理である。 化学、物理、数学、生物、薬学高度の知識が必要である。 もっと効く薬を、もっと安価に、もっと早く、それが我々全員の願いである。 そのためには科学技術の集積が必要であり、その伝承・発展には高等教育が不可欠である。 秀でた頭脳を持った人間が本当の高等教育を受ける、それが社会全体の利益になる。

 

一昔前に三高なる言葉がはやった。 男性の価値を表す指標として、高学歴・高収入・高身長であることがよい、というやつである。 日本の財政を健全化するためには三低社会を目指すことである。 三低とは、低学歴・低身長・低負債のことである。 なぜ低学歴かといえば、中卒だからである。 なぜ低身長かといえば、中学を卒業してもまだ成長するからである。 なぜ低負債かといえば、年齢からして親元に住みつつ働き収入を得るわけで、借金はゼロだからである。 不健全なる三高から健全なる三低へ、高校・大学・大学院の七年〜十年の時間的・金銭的浪費の不健全さと決別し、三低が格好良い時代になれば自然と社会は活性化するはずである。

 

三低社会を実現するために必要なのは雇用である。 小さな企業が雨後のタケノコのように出てくる環境にあれば、必要な人材の基準は学歴ではなく働く気である。 限られた雇用においては企業は規格化された人材を求める。 四年制大学を出た、高等学校を出た、といった規格である。 一方雇用が無限にある状況においては人を型にはめる規格は意味をなさない。 雇用主にとって必要な要素が備えた人材かどうかだけが問われるからである。 それがやる気であろうが笑顔であろうが言葉遣いであろうが心使いであろうが、である。 

 

雇用増進のために必要なのは投資である。 手元のカネをつかって大小様々な事業を起こして利益を回収することが容易に可能な環境が投資を呼び込むのである。 投資環境を作り出すのは規制緩和と減税である。 あらゆる産業を縛るあらゆる規制を撤廃する。 最低賃金法や労働安全法、PLこれらを撤廃し、京都議定書やモントリオール議定書といった国際条約からも撤退する。 関税を聖域なく撤廃する。 規制緩和は産業を規制する省庁への財源の強制削減によって、減税は教育を含めた社会福祉の撤廃によって成し遂げられる。

 

これらをやって初めて雇用が爆発的に増える。 なぜならばこのような自由な環境こそ世界の企業家・投資家を引き寄せるからである。 これらを成し遂げた暁にようやく人々はマインドコントロールから解かれる。 そして振り返って思うことであろう。 あの不自由で窮屈な時代は何だったのかと。 あの癌の痛みは何だったのかと。

「体罰で自殺」メディアの誤報

  • 2013.01.16 Wednesday
  • 22:07
 


Jiji.com
大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、市教育委員会は15日、同校のバスケ部と体罰問題の再発が発覚したバレーボール部について、無期限の活動停止とした上で、1カ月以内に体罰の有無に関する実態調査を終え、両部の存廃も含め活動再開を検討すると発表した。 市教委は同日、永井哲郎教育長を本部長とする「体罰・暴力行為等対策本部」を設置した。調査対象は市立小中高の全466校。5人の弁護士からなる外部監察チームと連携して調査を進め、桜宮高校を除く学校については、3月末までに実態把握し、再発防止策をまとめる。(2013/01/15-23:55)

 

 

自殺をした少年と家族は気の毒である。 大切な子供を失ったうえに無責任なメディアにあることないこと書き立てられ、気の毒なことである。 翻って、この事件を報道する左翼メディアというものは亡骸の肉をつつきに飛んでくるカラスのようなものである。 事実を報道するならば、そこまではよい。 だが彼らはそこに留まることはない。

 

左翼メディアの報道では顧問の教師が少年に加えた体罰によって少年が自殺したことになっている。 私はこの学校も知らないし、この先生も知らないし、この生徒も知らないし、バスケットボールにも全く興味ない。 だがこの報道が事実無根であるということを知っている。 なぜならば、常識の目をとおして物事を眺めれば自ずと真実が浮かび上がってくるからである。

 

少年は体罰で自殺したのではないし、ましてや、どこぞのアホがのたまうように「精神力が弱いから」自殺したのでもない。 体罰は受けるほうはしんどいものである。 だが、それを苦に自殺はしないものである。 体罰ごときで生徒が自殺するならば鉄拳やビンタや鞭がうなりをあげていた戦前・戦中の日本の学校は自殺だらけであったはずだ。

 

自殺した生徒はスポーツ推薦で入学し、強豪バスケットボール部に入った。 顧問の先生としては「強豪チーム」の名に負けない成績を上げることを学校から期待され、また「強豪チーム」へ子供を送り出す親の期待も背負っているわけだから必死である。 多少の「物理的手段」に訴えるのも当然である。 

 

このような責任を負った先生がいじめ心でチーム員に暴力を振るうはずがないのである。 少年は体罰によって鍛えられるのであり、体罰によって真剣さを知るのであり、体罰によって痛みを理解するのであり、体罰によって耐えることを学ぶのである。 体罰とは愛であり、知性であり、学びである。 優れた教師とは体罰の技を心得たる者である。

 

少年は「逃げ道の無さを苦に自殺したのであって体罰が殺したのではない。 少年が自殺前に体罰を苦に思う内容を綴っていたとしても、である。 厳しさについていけない…だがもう少し踏ん張る。 それでもよい。 厳しさについていけない…もう限界だ、別の道を歩もう。 それでもよい。 生き方は一つではない。 挫折してもよいのである。 別の道で挽回すれば。 だが少年にはその道は閉ざされていた。

 

スポーツ有名高に推薦で入り、強豪チームにはいり、そこで挫折したら退学しかない。 退学したら転校はない。 高等学校の転校は親の転勤による引越ししか認められていない。 スポーツで挫折したから転校したいといっても受け入れる先はない。 とすれば行き着く先は「中卒」である。 小卒でも中卒でも会社に入って上に昇っていけた明治、大正、昭和初期ではない。 全てが制度化され、経済は縮小する一方。 レールから外れた人間に与えられた選択肢は益々少なくなっている。 少年はその雰囲気を感じ取って自ら命を絶ったのである。

 

学校制度と資本主義の精神・自由競争の原理とは水と油である。 カリキュラム、教科書、教員、施設、あらゆるものが政府によって規制されている。 どれほど優れた人生経験を持った人が私塾を開いてもそれは学校とは認められない。 どれほど知識豊富な教師が優れた愛国的歴史教育を行っても文部省の方針と違えれば教育とは認められない。 生徒が行ける学校、受けられる授業、出会える先生は、自ずから決まってくる。 教える側にも、教えを受ける側にも、選択の自由は無い。 レールから外れて、あるいは外れそうになってもがく生徒達の絶望感は想像するに難くない。 大きな政府の予期せぬ結果、というか、起きているのに気づかれない結果である。

 

左翼メディアはあらゆる機会をとらえて我々の社会の良きものを破壊する。 社会は左翼メディアのプロパガンダにまんまと騙される。 そしてその欺瞞がいつの間にか慣れとなり、常識となり、事実となる。 しかし我々心ある保守はそのような流れに組するべきではないし、目を閉ざすべきでもない。 あらん限りの手を尽くして声を上げるべきである。 未来の日本の世代のために。

 

追記

体罰を復活し、復権させるべし

いじめ対策費73億円 - 大きな政府の気違い沙汰

  • 2012.09.07 Friday
  • 00:25
 

Nikkei.comより

大津市で中2男子が自殺した問題などを受け、文部科学省は5日、「国主導で解決に取り組む」として、いじめ問題の総合対策を発表した。学校や家庭を支援する専門家チームを全国の200自治体に置くなど早期解決に努め、深刻なケースは警察との連携を強化する。 ■これまでいじめ問題への対応は原則として学校や自治体の教育委員会に任されていた。平野博文文部科学相は記者会見で「国は踏み込み不足の面があった」と反省を示し「今後は正面から向き合い、積極的に関わっていく」と強調した。 ■同省は、いじめ対策費として来年度予算の概算要求で今年度比6割増の73億円を要求する。

 

我々の住むこの日本社会は中央集権化に向って突き進んでいる。 我々の日常生活の細事を、我々自身ではなく、中央官庁が決定するような状況にますますなりつつある。 国民はそんな状況に慣れきっている。 規制、規制、そして規制の世の中を、「日本人の遵法意識の表れ」だと勘違いしている。 「多少窮屈でも」規制があるのは「仕方ない」と勘違いしている。 そして遂には「学校のいじめ」までもが、それを解決するのは「中央官庁である」となってしまった。

 

ミルトン・フリードマンはかつて「教育荒廃の原因は教育の中央主権化である」と喝破した。 親が教育に関する主導権を官僚機構に奪われ、官僚機構がカネをつぎ込めば注ぎ込むほど教育レベルは質、量ともに下がる、と。 それは事実によって裏付けられている、と。 需要と供給の関係の欠如、市場原理の欠如がその原因である、と。 教育官僚が彼らのプログラムに税金をつぎ込む一方、親と子供(需要側)からのフィードバックを無視する。 そのために必要とされない低品質な商品がコスト度外視で際限なく製造される状態である。 その結果、顧客満足度が著しく低下するのは当然である。

 

教育は第一に家庭内で行われるべきものである。 それから読み・書き・計算と対人関係を学ばせるために親が子を学校に送る。 学校は、親に対して、彼らの子供達にこれらを学ぶ場を提供する責任を負う。 初等、中等教育のうちは対人関係の重要性が高く、中等教育から高等教育になるにつれて学業面の重要性が上がる。 対人関係を学ぶということは、端的に言えば、強きにおもねり弱きを叩いてはならない、ということを体で会得するということである。 それは別の言い方をすると、いじめる者がその悪を知るということである。

 

対人関係を教えることの出来る者は対人関係を知る大人である。 対人関係とは対人関係から会得するものであって学校、大学、ましてや大学院で学ぶものではない。 ところで教職大学院でいじめの専門家を養成する、などという発想は狂気の沙汰である。 「クールジャパン」もそうだが、狂気の沙汰を真面目に実行してしまうのが中央官庁の怖いところである。 自分よりも弱いものをいたぶる、という行為に対し、それが悪いことである、と知らしめるのは言葉ではない。 それは拳骨である。 対人関係を教える人間は拳骨を使う達人でなければならないのである。 少なくとも、新人教師は生徒を殴りながらそれを会得するくらいでなければならない。 親と教師との間にそのくらいの信頼があって初めて教育は成り立つ。

 

親と教師との間にある信頼を引き裂いているのは「体罰禁止」の法律である。 教師は法律抵触を恐れて小さなモンスターに対して手も足も出ない。 親は教師がちょっとでも子供を手荒に扱おうものなら法律を盾にとって訴える。 法律によって両者が互いに「信頼感の無さ」を強制されている状態である。 ではどうすればよいのか。 すべきことは国の主導でもなければ専門家チームの設置でもなければ警察との連携でもない。 それは両者の信頼の回復である。 それは信頼を引き裂いている法律・規制の撤廃である。 それは体罰の解禁である。 教師による体罰を解禁しさえすれば、73億円などという気違い沙汰の出費をせずともいじめは激減すると断言する。

 

 

追記: それにしても、警察との連携とは... 教育によって悪い部分を矯正すべき年齢の子供をいきなり犯罪者扱いするとは、いかにも中央官庁らしい極端さである。 

 

Milton Friedman: The Problem of Bureaucracy

http://www.youtube.com/watch?v=ViAT1TxhBk4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめを助長する心なき裁判

  • 2012.08.09 Thursday
  • 23:20
 

最近石川県で、ある男性が自分の子供が通う学校に乗り込んで行き、子供をいじめた生徒を教室で殴って怪我をさせ、それで罰金刑になったそうであるが、心無い判決である。

 

平鍋裁判官は「娘を助けたいという心情は十分理解できる」としたうえで、父親の行為を「男児やほかの児童に対し精神的に大きな不安と衝撃を与え、保護者や学校関係者にも大きな不安を与えた」と指摘した。 Asahi.comより

 

この男性は親としての見本である。 大人としての見本である。 子供が、特に自分の子供がいじめにあっているときにどうするべきなのか。 その見本である。

 

正しい裁判とはこういうものである。 「娘を助けたいという心情から出た一途な行為である。 男児やほかの児童に対しては重要な人生の教訓を与え、保護者としての手本を示した」と。 裁判官が正しい裁判が出来ないのであれば、このブログが代わって裁判を行ってあげてももよいくらいであろう。

 

この男性が刑の程度はどうあれ、罰を受ける、という事実は、とりもなおさず日本が法治国家ではないことを示している。 法治の基本は道徳である。 人々に道徳があれば基本的な決まり事を定めるだけで市民社会が成り立つ。 人々が「基本的にやってはならないこと」を知っているから余計な法律や規制は必要ない。 盗むな、殺すな、騙すな。 それだけで良い。 

 

この男性は盗んだのか、殺したのか、騙したのか。 この男性は子供が安心して学校に通い、勉強し、遊び、友達を作り、成長できるような環境をつくろうとした。 いじめた生徒が衆人環視の中殴られるのを見て、いじめを受けた生徒は「これで安心して通学できる」と思ったはずであるし、他の生徒もやって良いことと悪いことが分かったはずである。 また他の生徒も、悪い行いが断固たる制裁を受けるのを見て安心感を覚えたはずである。

 

しかし日本では教師の体罰が禁止され、教師としての機能が果たせなくなっているほどだから、社会全体が不要な規則でがんじがらめである。 「道徳」など入り込む隙間もないほどである。 だから本来は褒められるべき行為をしたこの男性が罰金刑に処せられるという、倒錯した結末になるのである。

 

社会はこの男性を裁くことで、人が自由に教育を授けるという権利を侵害したことになる。 いじめを止めようとした男性が罰せられるのだから、逆に言えば、いじめは報いられたのである。 このような社会で、子供は「道徳」も「法治の基本」も学ぶことなく大人になる。 知恵無き知識で詰まった頭で過去を振り返り、そしてつぶやく。 社会はあまりにも不完全である、もっともっと規制が必要である、と。

 

 

追記1:「殺す」のは殺そうとして殺すことである。 医療において殺そうとすることは無い。 医療は生かそうとする行為である。 だから余計な法律がなければ医療裁判などあり得ないわけである。

 

追記2:余計な法律や規制が無ければ、くだらない裁判も無くなる。 ベンゴシも必要なくなる。 企業や病院が「コンプライアンスだ」などといってびくつくことも無くなる。 良いことばかりである。

 

いじめ自殺 教育と道徳無き社会の犠牲者

  • 2012.07.11 Wednesday
  • 23:36
 

 

大津市の中学生が昨年10月にいじめを苦に自殺した事件について様々な事実が出てきている。 これら事実が示すのは、道徳を叩き込まれずに育った子供がいかに無慈悲・無情・残酷になりうるかということと、権限を奪われた教育者がいかに無責任になりうるか、という二点である。

 

道徳の源泉は宗教である。 「ヒューマニズム」でも「良心」でもなく、「宗教」、それが唯一の源泉である。 しかし日本では「政教分離」によってその宗教が目の敵にされている。 宗教への敵意は人々の心だけでなく政府の仕組みにも組み込まれている。 「政教分離」によって総理大臣の靖国参拝が阻まれたり、ハイエク・フリードマン流の経済政策とレーガン流の外交政策を掲げる日本唯一無比の保守政党・幸福実現党が不当な扱いを受けたりといったことはごく一部の例である。 

 

以前中国で幼児が車に轢かれて苦しんでいるのを何十人もの人間が見て見ぬふりをして通り過ぎるニュースがあった。 「人の心がないのか!」「なんという道徳の無さ!」「なんという非情さ!」と日本人はのたまった。 しかし日本も確実にその方向にいっているし、かなり重なる部分が出てきているのである。 道徳の源泉である宗教を国を挙げてないがしろにしているのだから当然の帰結である。

 

ところで一方、なぜこの状態が野放しにされ、自殺にまで至ったのか。 その理由は、教育者が「教育の手段」を奪われているから、という一言に尽きる。 「教育の手段」とは教科書やパソコンや教室のことではない。 それは「体罰を加える権限」のことである。 権限と責任は表裏一体であり、権限が奪われるということは責任を放棄するということに他ならない。

 

体罰とは、すなわち善と悪の違いを「カラダで」教えることである。 体罰とは、すなわち悪を罰することを「カラダで」教えることである。 体罰とは、すなわち善を守ることを「カラダで」教えることである。 これらは言葉で「説く」ことは出来ても「教える」ことは出来ない。 「教える」ことが出来るのは体罰だけである。 なぜならば知能未発達な子供は「カラダで」知るしかないからである。

 

善と悪の区別を知り、悪を行えば罰されることを知り、善を行う大切さを知る これらは呪文を唱えることによって成し遂げられる業ではない。 これらを成し遂げるのは鉄拳である。 人のモノを隠したり盗んだり壊したりしたために顔面に張り手を食らえば痛みとともに自分が何をしたかを知る。 弱き者をよってたかって小突きまわしたために顔面に拳骨を食らえば痛みと出血とともに自分が何をしたかを知る。 自分が感じる痛みと共に人に与えた痛みを知る。 感じた痛みは知識としてではなく感覚として体に刻み込まれる。

 

善と悪の区別を知り、悪を行えば罰されることを知り、善を行う大切さを知る これらは頭でではなく、体で会得することである。 頭で考えて納得できなければ、それはそれでよい。 そんなのは後でもよいからとにかく体に痛みを感じてでも叩き込まれなければならない。 これらを体で会得できるのは小中学校までである。 そのころまでであれば教師の腕力が勝る。 しかし子供がなまじっか図体がでかくなる高校ではもう手遅れである。

 

しかし日本では(他の多くの先進諸国でもだが)、この最も貴重な教育の手段が教師の手から奪われている。 法律によって、奪われている。 さらに言えば、日本国憲法によって、奪われている。 日本国においては教師は「無責任たること」が法的に定められている、といっても過言ではない。 そしてそのような教師が教える学校においては、子供は善悪の区別を知る機会が奪われているのである。 だから子供は「(自殺した生徒に対して)自殺の練習をさせる」などという人間とも思えぬことをし、された方は誰にも頼ることが出来ずに死を選ぶのである。

 

小学校、中学校で教えるべきことで最も大事なのは読み書きそろばんではない。 善悪の区別である。 なぜならば、それなしには社会も経済も成り立たないからである。 善悪の区別を知る市民、それは国家としての、社会としての基礎である。

 

衰退する国家、衰退する経済、そして衰退する教育。 これらは個別の事象ではなく、一つの事象である。 一つの事象を別の角度から見ているだけに過ぎない。 犠牲になるのはいつも、罪のない子供や弱き者達である。 自殺した少年の事件は公に報道されたために知られることとなったが、氷山の一角である。 

 

国家が道徳を取り戻すまでは、彼らは犠牲になり続ける。 

教師が「教育者」となるまでは、彼らは犠牲になり続ける。 

そして社会は顔をそむけ続ける。

 

 

体罰の会

http://taibatsu.com/index.html

公民の教科書

  • 2012.02.12 Sunday
  • 23:44
 

新聞やテレビで学者や評論家のいう事を聞いているとろくなことを言わない。 彼らは社会に出る前に何を学んできたのか。 それなりに名のある学校を卒業しているようだが彼らの言う事が何一つ響かない。 いう事を聞いていても真実が見えてこない。 一見トレンドに乗ったようなことを言っているが、その実時代の垢にまみれた議論を延々と繰り返している。 

 

時代の垢とは何か。 そもそも垢とは何か。 垢とは不要物である。 皮膚が老化し、要らなくなったので自然と剥がれ落ちる。 それが垢である。 社会主義が社会に停滞をもたらし、人々の生活を惨めにすること、そして社会主義を極端に進めると共産主義となり、それは大虐殺や大粛清といった恐るべき事態をもたらすこと、反面、資本主義は行動の自由、選択の自由、経済の発展、技術の向上をもたらし、人々の生活に便利さと幸福をもたらすことそういったこと証明され尽くしたのが20世紀である。 社会主義思想は20世紀に既に不要となったもの、すなわち時代の垢である。

 

小学校の社会科や中学高校の公民で何を教わったか、すっかり忘れてしまった。 今の学校でどのようなことを教えているのかもよく知らない。 しかし教科書会社のウェブサイトを見ると大切なことを教えていないのがよく分かる。 環境保護や企業の社会的責任、社会保障の大切さ、といったこれまた時代の垢を匂わせる内容が随所に見られる。 このようなものを教わって子供から大人になるまで教育を受けているのだから、良い大学を出たはずの人間がろくなことを言わないわけである。

 

社会科や公民について言えば、学校で教育するべきなのは国防の重要性、政府権力の抑制(小さな政府)、資本主義の偉大さ(及びそれと対比して社会主義の悪)である。 それ以外は社会で生きていれば自然と覚える。 左翼教育家に求めても仕方ないが、こういう肝心なことを教えないから評論家の嘘をうのみにするダメ国民がはびこるのである。

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