道徳はどこからやってくるのか
- 2014.06.23 Monday
- 01:09
不道徳と自由が両立する社会、そのような社会がこの長い人類の歴史の中で、たった一つでもあったであろうか。 不道徳でありながら自由であり続ける、それはある意味理想郷であろう。 しかし、そのような社会は存在した試しがなく、そして存在することは今後もなかろう。 それはユートピアであり、あらゆる専制主義者や計画主義者、あるいは一部の泡沫リバタリアン達の夢である。
不道徳は自由の敵である。 社会を構成する人々が一定の道徳観を持ち、道徳に則した行動をとるからこそ、その社会における自由は維持されるのである。 人々が道徳を失えば、それまで不文律で機能していた領域に問題が生じる。 すると人々は法律や規制を求める。 常識で律されていた行動が法律で規定される。 社会は杓子定規な決まり事だらけとなる。
一方法律は万能ではない。 人々がそれを守ろうとする意識が無ければ意味がない。 法をかいくぐるための資金とコネのある人間は得をし、そのような資金もコネも無い人間は些細な法への抵触で足をすくわれる。 全ての人が法の前に平等な透明性のある法治主義の社会から金とコネが幅を利かせる魑魅魍魎とした人治主義の社会へと変貌する。
道徳はどこから来るのであろうか。 道徳は信仰からくるのである。 信仰とは宗教のことである。 信仰を失った社会は道徳を維持することが出来ない。 それは信仰が道徳の源泉だからである。
信仰心など無くても道徳的な人はいる。 それは信仰など存在しなくても道徳は存在しうる、ということを意味しない。 宗教的でなくても善良で正義感のある多くの人々の観念は、世代を超えて伝えられてきた宗教を源流とする道徳の残滓に過ぎない。
人間は、生まれながらにして善ではない。 人間は、善を行うべく躾けられ、鍛えられ、導かれなければならない存在である。 共産主義者は信仰(神)を否定し、人間の理性を至高の存在であるとした。 人間の理性によって試みられたのがソビエト連邦であり、中華人民共和国であり、ポルポトのカンボジアであり、ホーチミンのベトナムであり、カストロのキューバであり、金王朝の北朝鮮であった。 結果は言うまでも無い。 人間の理性とは、かくも当てにならないものである。
仏教には五戒がある。 五戒とは、1)生き物を殺すなかれ、2)盗むなかれ、3)姦淫をするなかれ、4)嘘をつくなかれ、5)酒を飲むなかれ、である。
ユダヤ・キリスト教には十戒がある。 十戒とは、1)主が唯一の神である、2)偶像を拝むなかれ、3)神の名を無為に口にするべからず、4)安息日をまもるべし、5)父母を敬うべし、6)殺すなかれ、7)姦淫するなかれ、8)盗むなかれ、9)隣人に対して偽りの証言をするべからず、10)隣人の家を欲しがるべからず、である。
これらは命令である。 「守ったほうが長い目で見るとお得ですよ」というセールス文句ではない。 これらを守ることでたとえ命を失おうが関係ない。 とにかく守りなさい、という命令であるから、「なぜ守らなければならないのか」をくどくどと説明するものではない。 善人でありたいと願うならば、救いを得たいと願うならば、あるいは悟りを得たいと願うならば、これらを守りなさい、と。
時代によっても状況によっても変わらない、このような普遍的な道徳を、人々に与え続ける(命令し続ける)のが宗教の役割である。 しかし宗教が、人々が規範に従うことを命令する力を失えばどうなるか。 道徳はその時々の「状況判断」か、「好き好き」程度のものに堕する。 処世術や世渡り、根回しや談合、こういったものが至高の行動規範となる。 人と人の財産に対する尊重の念が消え失せ、いかに上手く立ち回って私腹を肥やすかが行動指針となる。
そこは既知の決まり事(伝統的な習慣も含め)さえ守れば誰からも阻まれることなく行動できる自由な社会では、もはやない。 金と権力を持った人の顔色を伺い、その場の空気を読み、自らの意思を殺して生きる、そんな不自由な社会である。
信仰を失った社会は道徳を維持することができない。 道徳を失った社会は自由を維持することができない。 これは私見ではなく、既に多くの自由を愛する先人たちが洞察している事実である。
追記:これは泡沫リバタリアンが勘違いするところである。 彼らは自由から道徳が生まれると考えるが、それは順序が逆である。