"Darwin on Trial" 読了・・・進化論という宗教

  • 2017.11.05 Sunday
  • 17:37

「アメリカ南部の保守的な地域の学校ではいまだに進化論が教えられていない。なんと後進的なのか!」という類の意見を目にすることがある。日本では進化論が輸入され、無批判に科学として受け入れられ、学校で教えられ、人々は疑いの念を持たない。



本書はダーウィニズム(進化論)が実のところ科学の衣をまとった宗教に過ぎないことを明らかにする。

科学は宗教ではない。宗教というものは、神による地球、生物、人類の創造やキリストの蘇りといった通常我々の知識常識では考えられないことをも信じることである。科学というものは、仮説を立て、それを証明する証拠を集め、その証拠を批判的に検証して正しいことを実証することである。

ダーウィニズム(進化論)によると、まず地球上に無機物の浮遊する海があり、それが何らかの力によって有機物となり、それが何らかの力によってバクテリア(生物)となり、それが何らかの力によって徐々に進化して獣弓類(哺乳類型爬虫類)や始祖鳥となり、獣弓類から哺乳類となり、その中からサルへ、サルの一部が人間となった、というものである。

ダーウィニズムが科学であるためにはこれらの流れを証拠によって裏付け、更にその証拠が妥当であるか否かを批判に晒さねばならない。

進化論の最大の敵は考古学である。なぜならば、ダーウィンの時代から今まで次々と発掘される化石はダーウィンの理論を証明するどころか、逆にダーウィンの理論の誤謬を示すもの以外の何ものでもないからである。

40億年前から存在し始めたバクテリアや藻類、6億年前のカンブリア大爆発によって突如として大量出現した様々な生物、数百年前から今まで何の進化も遂げずに存在し続けるオウム貝のような「化石生物」の存在・・・ これらが証明するのはダーウィンが唱えた進化ではなかった。

化石が示す事実は、生物はある時点で前触れもなく突如として出現し、その後何百年もの間変化もせずに存在し、そしてある時に突如として滅亡し、その後別の生物がやはり突如現れては変化せずに絶滅するまで生きるという繰り返しである。

ダーウィンの進化論は生物は徐々に進化を遂げたというものであるが、人間を含む生物の進化途中の状態を示す化石等の証拠は皆無である。例えば、無機物から有機物(アミノ酸)が生成され、そこから生物が誕生、というくだりを証明するために様々な科学実験が行われてきたが失敗に終わっている。生物のDNAは奇跡的ともいえるほど複雑である。「何らかの力で生物が誕生」という進化論の考え方を、本書では「まるで都市を襲った竜巻によって巻き上げられた様々なモノが偶然ボーイング747号機に組み立てられた」ようなものだと形容されている。

進化論は適者生存の理論であり、生存に適した特性を持つ生物が生き残り、それによって生物は徐々に進化していくという考え方であるが、ここでも矛盾を抱えている。本書では孔雀の例が挙げられている。孔雀のオスは目立つ派手な色彩の大きな羽を持つ。それはメスを引き寄せるためのものである。しかしその羽は飛行には全く適さず、逆に天敵をおびき寄せてしまう。このように「生存に適さない」羽を持つオスを求めるようなメスが「適者生存」によって生き残ってきたのは何故なのか、ということである。

また、例えば陸上生物が「長い期間を経て徐々に」鳥になったとすれば、かなりの期間、その生物は「手でもなく羽でもない」中途半端な突起物を持った状態で過ごすことになる。これはモノを掴むこともできず、さりとて飛ぶこともできない、という生存上非常に不利な状態を意味する。適者生存の考え方とは真っ向から矛盾するものである。

そして、そのような中間状態の化石証拠は皆無である。

証拠の欠如に対する進化論者の説明は「まだ見つかっていないだけだ」といった言い逃れに類するものばかりである。

更には「徐々に進化」が証明しえないがために「ある時点で大きく飛躍して進化した」という説を唱える亜流がダーウィンの後で出てきている。これはいわば「変身」であり、「神が人を作られた」という宗教と非科学という点では同じである。

著者は進化論者の持つ非科学性と宗教性について説明する。進化論者にとって、その説に疑問を呈する者は許されざる者である。信じぬものは呪われる。信じぬものは異端。それはマルクス主義やフロイトの心理学といったイデオロギーに通じるものである。主張が先にあり、それを裏付ける「証拠」が選定される。それを否定する証拠は「存在しない」あるいは「意味をなさない」。

本書を著した人物は宗教的な人物でもなく科学者でもない、中立な立場で論理によって説の確かさを検証しようとする法律家である。本書の目的は「神が人間を作った」という創造論を支持するためではない。

本書の目的は生物はどうやって生まれたのか、そして人間はどこからやってきたのか、それはまだ解き明かされていない謎なのだ、ということを証明し、科学を進化論という宗教から解放することである。

教育無償化というファシズム

  • 2017.11.05 Sunday
  • 10:46
 

教育無償化財源、経済界で意見割れる 3000億円の拠出めぐり疑問の声
11/3(金) 7:15配信 SankeiBiz  日本商工会議所の三村明夫会頭は2日の定例会見で、安倍晋三首相が、教育無償化の財源の一部として、企業に対して3000億円の拠出を求めていることに対し、「さまざまな疑問があり、オープンな議論が必要だ」と発言し、早急な決定に対して牽制(けんせい)した。また、政府や、安倍首相から協力を直接要請された経団連から「説明がない」ことに対して不快感も示した。


世の中の多くの問題は市場経済の機能を阻害することから生じる。人は往々にして政治と経済を別ものとしてとらえるが、それは間違いである。日本は「経済は一流、政治は三流」なる戯言があるが、これも勘違いである。個人や個人の集団である企業がモノを売り買いする経済に直接の影響を与えるのが政治である。

政治が動けば経済がその波を受ける。政治が経済を解き放てば経済は成長し、人々は豊かさを享受する。政治が経済を拘束すれば経済は縮小し、人々は生活水準の低下というしっぺ返しを受ける。政治と経済は不可分の関係にある。

教育無償化なる欺瞞に満ちた言葉が流布されるこの世は道徳なき荒廃した社会である。商品やサービスを提供する場面においては必ずコストがある。空気から魔術のように商品やサービスが生まれることはない。商品やサービスは人々の血と汗と涙の結晶である。無償化というものがあるとするならば、ある人が思いやりの心でそのコストを他の人々に代わって自己負担する場合だけである。

教育無償化と言われるとき、そこに厚意は無い。そこにあるのは強制である。その商品やサービスを欲しようが欲しまいが、顧客である国民全員に強制的に税金という形で負担させようとするものである。教育無償化を提唱する政治家は大嘘つきであり、それを求める国民は愚か者である。

欺瞞と搾取の横行という道徳的退廃もさることながら、「無償化」はコストの「見えない化」に他ならない。世の全ての経済活動において、コストを明確にすることで初めて人は事業の収益性を判断することができる。商売を始めようとする者が、その商売をする上でのコストが「分知らない、興味ない」では始まらない。そのまま巨額の投資に突っ走れば破綻は確実である。

政府がその権力を使って破綻確実な事業への出費を要求しているわけである。これはファシズムである。イタリアでムッソリーニという社会主義者がその全体主義的な政策をファシズムと名付けた。そのファシズムに対抗する勢力は共産主義という同類だけであった。ちょうど今の日本と同じである。

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