道徳の授業風景に見る我が国の惨状
- 2018.07.01 Sunday
- 13:59
大切なものを公(政府)に任せることのリスクを知ることは重要である。公(政府)というものは、間違いを認めない。どこかおかしい、と多くの人が感じても突っ走る。無尽蔵の財源を持ち、間違いが組織の存亡に関わるということがないため、自動修正というものが効かない。
教育、特に道徳教育はその最たるものである。
ここに、ある道徳教育の現場の様子が紹介されている。
「道徳の教科化は、これまで一貫して価値観の押し付けにつながるのではないかと、見送られてきたが、国はいじめ問題などを理由に教科化を進めた」のだという。
前提が間違っているとその後に続く思考も間違いである。そこで使われている教材もひどいものである。この記事ではある事例として二つの愚にもつかない話が紹介されている。
“ある朝、たかしがお母さんに1枚の紙切れを渡しました。それは、せいきゅう書でした。たかしは、「お使い代」「お掃除代」「お留守番代」として、500円を請求したのです。お昼どき、お母さんは500円と一緒に小さな紙切れを渡しました。お母さんからの請求書でした。「病気をしたときの看病代」「洋服や靴」そして「おもちゃ代」など、いずれも0円。それを目にした、たかしの目には涙があふれました…。”
これを読んでウルっとする人間は相当イカレていると自覚した方がよい。
家庭の一員として、家庭内の仕事を分担するのは子供の義務である。家事をする代わりに小遣いを与えるかどうかは親の教育的判断である。家族のために無償で何かを行うことも重要であるし、お金というものが必ず価値ある労働に対して与えられるものであるということを学ぶのも重要である。どちらをどのくらいに配分にするかは親が決めればよい。そして子供はそれに従えばよい。
親が決め、子が従う。その関係が重要なのである。子供が親に対して請求書を渡すということは、関係が対等であるという前提がある。対等であるからこそサービスに対する対価という概念が発生するわけである。子供が巣立って大人になればそのような場面も生じる可能性はあるが、子供が親の庇護下にあるうちはありえないことである。
このような思いあがった行為自体が言語道断なのであり、厳罰ものである。それを「あり得る事」のように紹介し、教材にするなどというのは狂気としかいいようがない。
また別の例ではこのような場面が紹介されている。
“星野君は少年野球の選手。チャンスで打席が回ってきたとき、監督に呼ばれました。監督は、確実に1点を取るため送りバントを指示。しかし、星野君は得意なコースにボールがきたため、監督の指示を守らず打ちました。結果は二るい打、勝利に貢献しました。ところが、試合の後、星野君は監督の指示に従うというチームの約束事を守らなかったとして、とがめられたのです。”
これを道徳の教材にしようと考えること自体、道徳の何たるかを理解していない証拠である。野球をはじめとするスポーツにはルールがある。そのルールを守ることが競技の前提である。そのルールを守って全力を出し、勝利せんとするから競技が成り立つのである。
「監督のいうことに従う」などというルールはどこにもない。監督の仕事は指導者としての役割を果たすことである。重要なのは監督が選手の信頼を勝ち得ているか否かである。監督がある指令を出し、選手が無心に、あるいは「そうだな」と思って従えば、それは監督が選手の信頼を勝ち得ているということである。逆に選手が監督の指示に対して「アホか。俺は俺のやり方でやる」と思えば、それは監督の力量がその程度だということである。
勝ちたい気持ちは分かる・・・
でも監督に従うことも大事・・・
自分を試したいという気持ちも分かる・・・
でも集団で動くことも大事・・・
などと悶々と悩みたいなら勝手に悩めばよい。だがそれは道徳とは完全に無関係な次元の話である。
道徳とは何か。端的に言えば、それはモーセの十戒に集約される。
その一:神は一つである。善悪の基準は一つである、と解釈してもよい。
その二:偶像を崇拝してはならない。勝手に都合よく善悪の基準を創造してはならない、と解釈してもよい。
その三:神の名を無為に使ってはならない。自分で勝手にデッチあげた”善の概念”を悪用してはならない、と解釈してもよい。
その四:安息日を守らなければならない。一週間に一度は立ち止まって静かに自分の行為を見直す時間を持たねばならない、と解釈してもよい。
その五:父と母を敬え。解釈は不要であろう。
その六:殺人をしてはならない。※戦争を禁じるものでないことは聖書を読み解けば明らかである。
その七:姦淫をしてはならない。解釈は不要であろう。
その八:盗んではならない。解釈は不要であろう。※実際この国では管制の盗みが壮大に横行しているが。
その九:隣人について偽証してはならない。解釈は不要であろう。
その十:隣人の財産を欲してはならない。解釈は不要であろう。※実際この国では人の財産をなんとも思わぬような社会主義思想が流布されているが。
これらの規範を、
日々の生活において実践すること
日々の生活においてどのように実践すべきかを考えること
日々の生活において実践しているかを反省すること
日々の生活において実践することの難しさを実感しつつ、日々向上せんと模索すること
これこそが、まさに道徳というものである。
道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者の、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者による、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者のための道徳教育。
それが我が国の公教育における道徳教育の現実である。
追記:
人類はモーセの十戒以上の道徳規範を未だかつて持ったことがない。モーセの十戒は神からの授かりものである。このモーセの十戒を神から受け取り、人類に授けたのがユダヤ民族である。故にユダヤ民族は選ばれし民なのである。