同性婚合法化という非寛容
- 2013.07.09 Tuesday
- 22:47
非寛容を容認するのは寛容ではない。 非寛容を容認するのは非寛容である。 『寛容というのは塩のようなものである。 それは必要かつ有用なものである。 しかし多く摂りすぎれば死をもたらす』と言った人がいるが、けだし至言である。
"Tolerance is like salt. It’s necessary and beneficial. But, too much of it will kill you" Pat Condell
人を殺したり物を盗んだりした犯罪者に対して寛容に接するのはその犯罪者以外の全ての人々に対する非寛容である。 同性婚という制度を法で認めようとする行為は家族の崩壊をもたらす。 結婚が認められるのは「男女間のみ」という人類が営々と積み上げてきた経験による制度が否定されれば、後はなし崩し的に「なんでもあり」となる。 相手が兄弟姉妹であろうが犬猫であろうが、はたまた土偶であろうが石であろうが、「愛があれば」よくなってしまう。 「この愛が分かるのは俺らだけだ」と。 家族が崩壊した後に来るのは専制である。
男と女の契りによって子をもうけ、子は成長して大人になって結婚し、家族が続いていく。 それが人類が何千年もの間続けてきた営みである。 家族は常に、個人を守る最後の砦であった。 社会からつまはじきにされたり弾圧されても家族で結束して生き残る。 誰も信用できない世の中では家族だけが頼り。 家族がばらばらになれば後は自分だけ。 一人で出来ることなどタカが知れている。 家族を捨てれば世を捨てたも同然。 だからどれほどの嫌われ者でも大概は家族だけは大切にする。
歴史上、家族を崩壊させようとした試みは何度もあった。 そして多くの家族が崩壊させられてきた。 ソビエト連邦において、家族はシステマティックに崩壊させられてきた。 子供が親の会話を当局に通報する。 その夜、その家庭は当局によって訪問を受け、翌日はシベリア行きの列車に。 親を売った子供は人民の英雄として表彰される。 誰が誰を見張っているのか。 誰が誰を売っているのか。 分からない。 誰も信頼できない。 それが家族が崩壊した社会の成れの果てである。
同性婚が成立した瞬間に家族が消えるのか? そうではない。 社会の変革は緩やかである。 緩やかであるが故に、人は変化に気づかない。 気づいたときは時既に遅しである。 ナチスは一夜にしてやってきて、一夜にしてクーデターを起こして権力を奪取したのではない。 ヒトラーがどこぞの馬ともしれぬ辻演説者だった頃からコツコツと支持者を増やし、政権を取った後も一つまた一つと根気強く、辛抱強く、緩やかに政策を導入していった。 ヒトラー時代を生きたオーストリア人は言っている。 「ヒトラーが来たときにはまさかこんな結末になるとは思わなかった」と。 だが、「なんという社会になってしまったのか」と思ったときには社会の変革は既に進行し、そのスピードはフルに加速しているものである。 そのときは個人はなすすべがない。
「やってみなければ分からない」 ならば「やらない」のである。
世界最古の歴史を持つわが国においては良きことは全て既に実行され、良き結果を出している。 良き事は伝統の中にあるのである。
「やってみなければ分からない」 「わからない」のではない。 「知らない」のである。
「やってみなければ分からない」 そこまで言うのならば既にやっている国に行けばよい。
同性婚は非寛容であり、その非寛容を容認するもの非寛容である。
非寛容に対して寛容で接すれば非寛容が勝利する。
非寛容が勝利すればその後に来るのは更なる非寛容である。
非寛容に対して取るべき姿勢は徹底した非寛容である。
追記:私の「非寛容」が同性愛者に対する専制だというのであれば、この専制はいったい何と呼ぶのか?
まず、「男と女の契り」という文化のみが「婚姻」と捉えられてきたわけではありません。
例えば、北アメリカのクワキウトル族では、首長の特権は、息子ではなく娘の夫(義息)を通じて孫に伝えられました。娘がない場合は、息子が他の男を「婿」として迎え入れて結婚式を行い、「婿」に権利を譲渡しました。文化面からも「同性婚」は実現していたのです。
あなたの主張する「婚姻の文化」「結婚の文化」は「一部異性婚の文化」と呼べるものではありますが、「婚姻の文化」「結婚の文化」と断定できるものではありません。
法律上、同性婚と異性婚の違いは、婚姻の当事者が同性愛者であるか異性愛者であるかというだけです。
異性夫婦にも子どもを作らない/作れない夫婦はいるので「子どもを作るか/作れるか」ではありませんし、同性夫婦にも養子その他の子どもを持つ夫婦はいるので「子どもを持つか/持たないか」でもありません。
ここで同性婚を否定することは、単なる同性愛者差別でしかないので、法的根拠として正当性を持ち得ません。
また、あなたは、同性婚を認めるのであれば動物と人間の婚姻、物質と人間の婚姻も認められるようになるのではないか、という非常にユニークな見解を示していらっしゃいますが、同性婚とは「同性同士の人間の結婚」を意味するものであって、「動物と人間の結婚」や「物質と人間の結婚」といった話題とは一切関係性がありません。
同性婚を認めると「動物と人間の結婚」「物質と人間の結婚」も認められるようになるとの発想は、私たちが「人間」と「動物」「物質」の区別を付けられないという異様な前提によってのみ成り立つもので、論理的思考を踏まえた意見であるとは到底思えません。
「家族による家族の密告」と「同性婚」を同列視して語ることには、一切、論理的正当性がありません。
同性婚が「家族を崩壊させようとした試み」であるとの結論を示すために、同性婚が「家族を崩壊させようとした試み」だと仮定することは初歩的な詭弁であり、屁理屈の名にも値しません。
あなたの主張は保守主義的というよりも保身主義的なものであり、一度決まっている法律は、矛盾や問題性、改善点があっても、時代の要請に応えることなく存置させるべきだという反近代的・非現実的な主張です。
感情的に受け入れられないがあまり、論理性をことごとく放棄して同性婚否定に走る様子はいささか滑稽でもあり、それならばまだ差別主義者だと公言する者のほうがいくらか潔いとすら感じてしまいました。
大変失礼な言い方になりますが、CBJさんは、同性婚どころか婚姻について初歩的な段階からして無知でいらっしゃいますね。無知であることは罪ではありませんが、無知であるにもかかわらず憶測や妄想をもとに出鱈目な主張を展開することは百害あって一利なしですし、そのような姿勢で「保守」を自称することは、他の「まともな保守派」に対して失礼な話だとも思います。
これは法律の知識のある法学者であれば必ず共通して認識している基礎的な事実ですが(もっとも、法学者に法律の知識がなければ困るのですが)、日本の婚姻法は、婚姻を男女で行うものとは定めていません。
日本の婚姻法には「男」「女」という単語が登場しますが、一部の外国の結婚に関する法律のように「婚姻とは一人の男と一人の女が交わすものである」と定義しているわけでもなく、同性婚を禁じているわけでもなければ、異性婚のみを認めているわけでもないのが偽らざる事実です。
技術論として同性婚が日本で認められていないのは、婚姻届の「父母との続き柄欄」にあらかじめ「男」「女」という文字が印刷されているためであって、日本で同性婚が実現していないのは、法律レベルではなく手続きレベルの話なのです。
もしもCBJさんの文章が、このような基礎的な事実さえ踏まえずに書かれたものだとしたら(もはやその可能性しか見出せませんが)、CBJさんは、正しい知識を持った人々に対して「私は無知ですが、私個人の憶測や妄想をもとに感情論を振りかざしています」と公言しているにすぎません。
私の知る限り、保守思想というものは、事実から目を背け、自らの主張を虚偽によって正当化するようなものではないはずです。上記の文章を拝読するに、「このような不誠実な姿勢で『保守』を自称するとは、これは新手のアンチ『保守』運動だろうか」とすら感じてしまいます。
CBJさんは事実ではない憶測をもとに同性婚に反対しているのであって、CBJさんが同性婚に反対しているのは「CBJさん個人の問題」にすぎません。その反対論には、「事実」も「保守思想」も関係ないのですから。
自らの誤りをきちんと認めることが保守主義者にとっては大事ですものね(保守主義者以前に、一人の人間としても)。
あとは、CBJさんが事実を受け入れるか、それとも事実を無視して妄言を述べ続けるかのいずれかです。通常、後者を選択することは「差別」と呼ばれます。
もしも後者を選択するのであれば、あなたは「保守主義者」などではなく、単なる「差別主義者」と呼ばれることになるでしょう。
保守主義にとって重要な要素の一つは「現実」なのですから、「現実」という事実から目を逸らすことは保守主義の理念から大きく逸脱する行為です。
CBJさんが、保守主義者として、正しい知識と認識を得られることを願っております。
最も重要なのは、「『なぜ』私は正しい」のか、「『なぜ』貴方は間違っている」のか、ということです。
「なぜ」は、事実をもとにした論理的正当性によってのみ裏付けされます。「私がこう感じたから」などという感情論は、主張の根拠とはなり得ないのです。
「社会の敵」という表現を使わせていただくならば、私には、事実から目を背け妄言を述べ続ける人間こそ「社会の敵」であるように思われます。
いつから、「保守主義者」は事実を無視し、事実を指摘されると「あなたは社会の敵だ!」と喚くような存在に堕ちたのでしょうか。
もしも私に反論があるのであれば、「私は正しい」「あなたは間違っている」などというくだらない文章を書き残すのではなく、事実でもって論理的正当性を主張すべきです。
それができない以上、CBJさんは「私の主張には正当性はない」と述べているだけのことになりますし、そんな人間に「保守主義者」などと自称する資格はありません。
他者に向けて発信する性質を自動的に有しているのですから、当然、その記述内容に指摘や批判が投げかけられることもあります。文章の間違いを指摘されると「このブログは俺様のブログであるから批判は受け付けない」という姿勢ならば、このブログは非公開にすればよいのではないでしょうか。
「あなたと私は違う惑星に住んでいる」とお書きになっていますが、論理的反論ができないからといって、そのような表現でしか自らの正当性を訴えられないCBJさんを残念に思います。
「私の目に映る世界は貴殿には見えない」ともお書きになっていますが、だからこそ私は、「CBJさんの目に映る世界」が事実を無視した憶測や妄想の世界であることを指摘させていただきました。
事実さえ受け入れられないような人間が「保守主義者」を自称することは、「保守主義者」全体にとってもマイナスだと思いますし、社会現実を受け入れることをかつて求めたエドモンド・バーグも草葉の陰で泣いているのではないかと心配です。
先程のコメントにおける最後の行にて、バークの名前を誤って「バーグ」と書き込んでしまいました。
訂正させていただきます。
今回は、CBJさんの立場と主張自体に指摘や批判がなされたわけで、すでに「立場」自体は冒頭から示されているのですから、CBJさんが「私は批判に耳を傾けないし、立場を変えない」とアナウンスすることは、批判を受け付けていないことだけを意味するのです。
バークを知らない方が「保守主義者」を名乗るようになったのですね。バークに触れずして保守主義を標榜した人間は、かつて存在しないと思います。
それではもはや、CBJさんは「保守主義」の体系には則っていないということになりますから、「保守主義者」ではなく「感情主義者」とか「保身主義者」とか名乗り改めてみてはいかがかと、率直な感想を抱きました。
いつの時代から「憶測と妄想のみに依拠した感情論」のことを「英知」と呼ぶようになったのでしょう。
CBJさんがそのようなふざけた主張展開を続ければ続けるほど、真に「英知」ある読者からは、CBJさんの見解は倦厭されていくだけでしょう。もっとも、倦厭されるどころか無視されているのが現状のようですが。
CBJさんが保守主義者でもないのに保守主義者であると自称することは勝手ですが、「保守主義」という言葉と概念をこのように悪用されてしまったことで、本来の保守主義者のみなさんを気の毒に思います。
なお、CBJさんに対しては特別同情しておりません。
大事なことは、CBJさんが、憶測と妄想のみに依拠して感情論を展開し、それを「保守主義者」の主張としてなさっていることです。
もしもCBJさんの主張の中に何か一つでも論理性にかなうものがあれば主張に価値はあるのですが、残念ながら、主張におけるいずれにも論理的正当性はありませんし、歴史的正統性もありません。コメント欄にて、私はそのことを指摘させていただきました。
何か一つでも論理性にかなう主張や反論がなされるのであれば、コメント欄でのやり取りも有意義かと存じますが、未だにCBJさんからは妄想と憶測以外の主張は繰り出されていません。それどころか、CBJさんは、反論に対してネタ色に満ちた煽り文句を返すことしかできていません。
どうか何か一つでもいいので、論理的な主張や反論を示していただきたいと思ったのですが、やはりCBJさんは、憶測や妄想のみに依拠した感情論を「英知」と呼んでいただけだったのでしょうか。
婚姻法に関する正しい知識を持った人物にとっては、日本の婚姻法が同性同士の婚姻を禁じていないことは周知の事実です。私の知り得る限り、日本において同性婚が実現するよう主張している人々の大半は、この基礎的な事実をもとに同性婚の実現を訴えています。
日本の婚姻法は、同性同士の婚姻に関しては「認めている」以前に言及をしておらず、また、異性同士の婚姻のみを婚姻として定めているわけでもありません。先に記したとおり、同性婚が日本で認められていないのは法律レベルではなく手続きレベルの話です。
同性婚を実現するための方法としては、手続き上の障壁が撤廃される以外には、民法による積極的アプローチが想定されます。
同性婚を禁じているわけでもなければ異性婚のみを認めているわけでもない法的実情から一歩踏み込んで、民法によって同性同士の婚姻もまた婚姻であることを明確に定め、同性夫婦にも異性夫婦と同様の権利と義務を付与する方策は、現実性のあるアプローチの一つです。
なぜ、CBJさんが「婚姻」を知らずして「婚姻」や「同性婚」を語っていたのか、その厚顔無恥ぶりを今一度確認させていただきました。
論理的正当性を有していない時点でその主張は論理でも何でもないのですから、当然のことながら、CBJさんは「結論」などという単語を使うことはできません。
CBJさんが「同性婚反対」と述べる時、そこには理由がないのですから(あるいは、理由となり得ないことを証明された理由しかないのですから)、「結論」ではなく、せいぜい「感想」という単語を使うことしかできないでしょう。
理由がないのであれば(あるいは、理由となり得ないことを証明された理由しかないのであれば)、CBJさんが「同性婚反対」を表明する場合、その主張は単なる「差別主張」でしかないということになります。
差別主張は論理として無効となるので、少なくとも、CBJさんが「同性婚」について語ったこのエントリはすべて無価値であったことになります(もっとも、「CBJさんが言論者として破綻している」ことを示す意味では価値があるかもしれませんが)。
CBJさんが、論理でもなければ保守思想でもなく、単なる感情的嫌悪のみに依拠して自らの主張を喚いていた経緯からは、いささかの「英知」も感じられませんでした。
ただただ、「保守主義」が可哀想です。
先に記した通り、無知であること自体は罪ではありません。しかし、誤りを指摘されたり事実を提示されたりしてもそれを受け入れぬことは、「英知」を示す行為とは正反対の行動です。
「英知」が理性的かつ悟性的な認識である限り、事実を知らぬばかりか事実を受け入れられない者に、「英知」を示すことはできません。
CBJさんは事実から目を背けることしかできていないのですから、CBJさんから溢れて出て尽きないのは「英知」ではなく「憶測・妄想」なのです。
私は、CBJさんのそれら虚偽と非論理性をコメント欄にて指摘させていただきましたが、お読みいただかなかったのでしょうか。もしくは、読んだ上で事実から目を背けることにしたのでしょうか。
私がコメント欄にて事実を指摘した経緯を無視して、今更「事実ってなんですか」「貴殿は何をおっしゃっているのですか」などと述べる姿勢からは、CBJさんの非英知的な態度を感じ取らせていただきました。
お二人の意見は偏っているように感じられました。
Diceさんは博学ですし論理的に隙がなく、正しい事を仰っていますが、論理で詰め過ぎていて、批判のようにしか受け取れません。
一方、CBJさんはスタート地点からして不思議です。
なぜ結婚は男女間でするものと決めなければ、後はなしくずしてきになんでもありの世界となってしまう、と言い切る事ができるのか。
当方同性愛者ですが、好きでなったわけではありません。
CBJさんは概念を話すことがお好きのようですが、当事者意識が欠けています。
CBJさんが同性愛者になってしまったら、それを本能的に変えることが出来ないレベルのものであったら、このブログを読んでどう思うでしょうか?
理解の上で非寛容ならまだマシです。
当事者の状況を置いてけぼりで論理を展開される、しかも最初から非寛容な態度で論理を展開されるのは止めて頂きたいです。
何か悪いことをしたから同性愛者になってしまった?
それとも、人間的に欠陥があるから同性愛者になってしまった?
どう思われますか?
非寛容な雰囲気が漂う社会で、自身の生きる意味を見出すために、孤独に真っ当な人生を歩もうと日々地味に生きています。この状況を理解頂けるかはわかりませんが、最初から非寛容な態度で論理を展開するのは、Diceさんが暗に指摘され、これ以上のアドバイスを諦めて去っていったように、ただの傲慢です。
せめて、ただの私的な意見だと最初に断った上で論理を展開すべきですし、コメント欄も投稿出来ないようにすべきでしょう。
最初の方で、同性愛の結婚を否定しないと家族は乱れる、と仰られています。具体的にどのような事例を想定されていますか?真剣に、責任をもって意見を述べられている方の考えをお聞かせ頂きたいです。
わかりあえないのであればせめて当事者の権利にまで踏み込まないで、そっとしておいて欲しいというのが当事者としての願いです。有難うございました。
と書いてありましたね。。。たまたま通りがかった私が意見を言いたくなるくらいの内容でしたので、気をつけたほうがよいかと思います。私のような知らない誰かに影響を与えている可能性もありますよ。余計なお世話かも知れませんけど。。。
CBJさんのブログなのに当事者の気持ちを考えろと言われても困りますねw
僕は同性婚に寛容的な社会になってもいいんじゃないかなあと思ってましたが、こんなに気持ちのごり押しばかりされる人達がいると思うと、嫌になりました。それでは
共同体のルールは、基本的に共同体を存続させるために規定されてきました。
おおまかに、昔は部族法だったり、近代以降は、法律と呼ばれ、国家間のルールは条約と呼ばれます。
もし、その共同体が、自身を存続させるために「異性婚」を推奨すべきと考えるなら、異性婚に対するインセンティブを与える規定を設けて当然、なのです。
同性のカップルに対する罰を用意しているわけではありません。
同性カップル間で扱いを変えれば、不平等かもしれませんが、非嫡出子の問題も同様、社会的な(共同体に与える)影響が異なるものを、同じと扱わず、インセンティブを与えないことを「差別」というのは、拡大解釈に過ぎる、んでしょう。
>「同性愛者」は何とも思わない
> 同性婚に寛容な社会
も、罰を与え、否定することなく、受け入れるという点で当たり前なんでしょう。
でも、異性婚に、制度的なインセンティブを与えようという感覚もまた当たり前なんじゃないでしょうか。
つまり、
> 私たちは皆当事者です。結婚は社会の問題であって、ゲイの問題ではないのです。
ですよね。
#同性婚は、事実婚の婚と同じ意味でしょうが、法律云々の文脈で語られると法律婚の意味と混同するので、同性カップルとでも呼べばいいのかな、と思ってます。
数か月前の出来事ですが、ひどいからまれように、同情しました。
嘘です。それなら何故、こんなにも伝統的な筈の家庭で虐待が溢れているのですか?
「毒親」でググってみてください。一見普通の人が家族を平気で痛めつける、信じられない例がザクザク出て来ますよ
また、外国ではゲイやレズビアンが子供を育てます。その中の大半のまともな人たちは家族を大切にします。