命を守る
- 2014.02.09 Sunday
- 11:56
【2月2日 AFP】スペインの首都マドリード(Madrid)で1日、妊娠中絶の権利を支持する数千人の人々が集まり、中絶を制限する政府の計画に抗議の声を上げた。 デモ隊は、「私の権利、私の人生」と書かれた横断幕を掲げシュプレヒコールを上げながら、同国北部から「フリーダムトレイン(自由の電車)」に乗って到着する他のデモ参加者らを出迎えるためマドリード市内の駅周辺に集まった。
妊娠中絶は女性の権利である、または、生むかおろすかは女性の選択の自由である、という意識が一般的になっているようである。 これは、人間の生きる権利と、自由の概念を混同している事例である。
人には生きる権利がある。 それは生命が他者の恣意的な行動から脅かされないことを保障される権利である。 人はいつの時点で生命を授かるのか。 それは受胎の瞬間である。 これは、当ブログの意見でも主張でもない。 どこかの宗教の意見でも主張でもない。 どこかの政党や政治家の意見でも主張でもない。 これは事実である。 これは感情的な声明ではなく、事実に基づいた声明である。
人には自分の判断で行動する自由がある。 社会の基本的なルールさえ守れば人から干渉されずに行動する権利がある。 だが人には他人の所有物を奪ったり、他人の所有権を侵害する権利は無い。 ましてや他人の生命を脅かしたり、奪ったりする権利はない。
生命は人が一番最初に与えられるものである。 人は生命を守るために政府をうちたてる。 国家、政府、社会にとって「生命を守る」というのは至高の義務であり、原則である。
中絶は、この人間が最初に与えられる権利である「生きる権利」を、他の人間が恣意的に奪う行為である。 言い換えれば、殺人である。 中絶は殺人だ、というのは感情論ではなく、事実を述べているに過ぎない。
その行為が認められているという事実は、その社会の自由度を表すものではなく、その社会の道徳的、精神的、論理的倒錯状態を示すものである。 むしろ声なき人間の「生きる自由」が完全否定されているわけである。 アウシュビッツやダッハウをつくりだしたナチスの思想に限りなく近いと言える。 ナチスの思想の根本には優生学がある。 優生学とは「優れた人間だけが生きる権利を持つ」という思想である。
「予期せず授かった子供、望まれない子供、障害を持つ子供には生きる権利は不要」
これはホロコーストでユダヤ民族の抹殺を図ったナチスの思想と根っこは同じである。
ここで、「では、レイプで妊娠した女性に対してどうするのか? 生むことを強要するのか?」という質問が必ずある。
これは当事者であれば非常に感情的になる問題であろう。 しかし感情は別として原理原則は明確にしておかなければならない。 レイプされた女性は被害者である。 悪いのはレイプ犯であり、裁かれるべきはレイプ犯である。 レイプ犯の親兄弟といった家族は関係者ではあるが犯人ではない。 レイプ犯を死刑にしたくらいでは気持ちが収まらないから、といって彼ら親兄弟含む一族郎党を死罪にすることは出来ない。 犯罪を犯したのはレイプ犯一人であり、罪を償うことができるのはレイプ犯一人だけである。 当然ながら、犯罪の結果として声明を授かった子供を死刑にすることも出来ないのである。 よってこの質問は感情を揺り動かすものの問題の本質とは程遠いのである。
また一方、「では、生んだら女性の命が危険に晒される場合はどうするのか?」という質問もあろう。
「命を守る」というのが原理原則である。 どちらが生きられる可能性があるか、母子ともに救えるのか、もしくはどちらかを選択せざるを得ないのか。 こうなると、これは純粋に医学的な問題である。 女性の生む権利、生まない権利、選択する自由、などという問題とは次元の異なる問題である。
上記の記事は最近のスペインの出来事に関するものである。 アメリカでは中絶が合法化された1973年以来、去年までに56,662,169もの命が犠牲になっている。 ホロコーストは6百万である。 これをジェノサイド(大量殺戮)と言わずしてなんと呼べばよいのか。 そして我が日本は「中絶天国」などと形容されるくらい中絶の名のもとに殺人がまかり通っている。
「汝殺すべからず」
この人として最も基本的な道徳が崩壊したとき、いったい社会には何が残るのか。
同じように「なに言ってんだ、こいつら」というような
気持ちになります。
が、中絶はすべて禁止というところまでは
思いが至りません。生きて産まれてきて
地獄より地獄的な人生を歩む可能性もあるでしょう。
望まれない妊娠のなれの果てがそのような
結末になりがちです。
若いカップルにデキ婚が多いのは中絶を避けているから
なのだと思いますが、そうしたカップルで、早期に
離婚し、シングルマザーが頼ってくっついた次の男が
乳幼児を虐待するという例がよく報道されています。
いっそのこと中絶しておけばこんな不幸にならなかったのに。。。
と思う人もいそうです。
中絶は殺人という原理原則を貫くあまり、
新たな不幸が生じることもある。
この不幸について、基本的な道徳はどのような
解答を持っているのでしょうか?
家庭が基礎だということを感覚としてわかってない人たちをどう教育するか。これは格差の原因が家庭にある(家庭教育や、親の考え方など)ことを考えると重要です。
日本人の倫理観の劣化がここに表れています。1990年には離婚は認められないという考えが58%だったのに、今は32%。それに伴い離婚も増えています。
だから、子供の貧困などの問題が生まれたのであり、離婚はよくない、家庭は守るべきだ、という意識を再建していくことが日本社会にとって重要だと思われます。
賛同できるわけですが、好きでもない夫婦を同じ屋根の下に
しばりつけておくのもある意味残酷ではないかとも思えます。
特に結婚と妊娠の順序が入れ替わってきている現在、
そこまでの覚悟をさせるのには相当手がかかるのでは
ないかと。
結婚前にはエッチはしないという貞操教育か、
エッチするときには必ず避妊するという性教育を
行う方が中絶を減らすのには効果的かと。
あと、中絶を殺人と言い切るのは、なかなか
難しいところがあると思います。医学の進歩により
300グラムちょっとの嬰児が育つという時代ですから
殺人といえる中絶も増えてきているとは感じてます。
受精卵が着床せずに体外に排出されてしまったとき
それを防ぐことをしなかった親を殺人の罪で問うのは
無理があると思うのですが、このあたりと似た
グレーゾーンの議論なんだと考えてます。
好きでもなければ結婚しなければいいのです。
ようですが、「中絶は殺しである」ということについても
議論あるところなんじゃないですかね。
不妊治療のなれの果てに、受精卵を廃棄することが
ありますが、これはどうしましょう。中絶じゃないから
殺しじゃないとは言えないと思いますが、
廃棄以外の手段がなさそうです。
翻って、必要悪の殺しということで消極的に
存在を認めるという考え方もあると思います。
権利だといって積極的に認めるというのは
私も反対ですが、一切認めないとなると
生まれてきた子供に地獄より地獄的な
人生を歩ませることにもなりかねない。
シングルマザーの子供が虐待死する事件が
起きている。結婚のない出産もまた
不幸を呼びます。
こうした問題がある以上、中絶はなくせないと
思うんですけどね。
中絶は命を絶つ行為であることを自覚するべし
ということには私個人としては大いに賛同できます。
記事中において、中絶と大虐殺を結びつける炯眼の流れにあるものに、マザー・テレサもあるようです。
彼女は、日本の中絶問題に関してこういうメッセージを送ったそうです。
「もし母親が自分の子を殺すことができるなら、他人に対してはどうなるでしょうか? 新聞には毎日、家庭で起こされた恐ろしい事件がのっています。ちょうど愛が家庭で始まるように、この種のひどい貧しさもまた、家庭で始まるのです」
これは八木秀次氏編著『教育黒書』(PHP研究所)の渡邊毅論文で知ったものです。
そして、これは質問なんですが、たしかレーガン大統領も同じ流れにある示唆に富んだ言及をされていたはずなんですよね。未生の存在であるからと中絶を認めることはその社会にいつでも大虐殺が起こりうる可能性がある、という内容で、あるブログにあったんですが、もうそのブログはなくて真偽のたしかめようがないのです。
CBJさんは何かご存知でしょうか?
もしご存知なら、お教えいただけると幸いです。
Ronald Reagan against abortion
http://www.youtube.com/watch?v=1Elph9CfsKs
「How can we survive as a free nation when some decide that others are not fit to live and should be done away with? 誰かが人の生きる権利を否定し、処分されなければならない、と決定する社会がどうやって自由な国家として存続できるであろうか」
Ronald Reagan on adoption and abortion
http://www.youtube.com/watch?v=PH5l1Ka8YMI
「She said "I am adobted" and then she added the unforgetable line - "I'm glad no-one killed me..." 里子として育てられた少女はこう言った。 それは忘れがたい言葉だった。 ”殺されなくてよかった...”」
大変心にしみる言葉です。