ナショナリズムとは

  • 2014.04.27 Sunday
  • 18:02
 

ナショナリズム(=国家主義)とは何であろうか。 

 

危険なナショナリズム...

狭量なナショナリズム...

偏狭なナショナリズム...

排他的なナショナリズム...

拡張主義的なナショナリズム...

侵略的なナショナリズム...

 

大概の場合、ナショナリズムといえば悪いイメージを想起させる形容詞とセットである。

 

この「危険で邪悪な」ナショナリズムが無くなったらどうなるのであろうか。

 

ナショナリズムとは国家への思いである。 日常の何気ない場面において生じる「日本人でよかった...」という感覚、これがナショナリズムなのである。 そのような瞬間、我々は意識せずとも国家の歴史と伝統に感謝の念を抱いているのである。

 

国家への思いとは政府への思いではない。 政府というものは国家と国民に仕える使用人であり、使い捨てオムツのようなものである。 一方、国家とは国民そして国民の歩んできた歴史であり、国民が歩んでゆく未来である。 自分の国家は特別な存在なのだと感じる心、それが「国家への思い」である。

 

ナショナリズムが「国家への思い」であるとするならば、それなしに愛国心は無いのである。 愛国心無くして国家の存続は無いのである。 日本が日本であるのは、ひとえに過去の戦争において「お国のために」戦い、死んでいった一人一人の兵士達がいたからに他ならない。 国家への思い無くして戦地に赴く人間はおるまい(傭兵は?という愚問は無視する)。 

 

国家の存続無くして自由の維持は不可能である。 国家の威信なくして国民の安全を維持するのは不可能である。 国家も国家の威信も要らぬ、と思うならば、長らく国家を持たずに生きてきたユダヤ人がいかなる辛酸をなめてきたかに思いをはせればよい。 そして1948年に古代ユダヤ王国以来初めてイスラエルという国家を持ったことで、いかに世界のユダヤ人が安全に自由を謳歌できるようになったかを想起すればよい。

 

ナショナリズムとは塩のようなものである。多すぎれば高血圧で動脈硬化を起こすが、無ければ気力は失せ、疲れ、倒れてしまう。 ナショナリズムはコレステロールのようなものである。 コレステロールは多すぎれば健康を害するが、生命の維持に不可欠である。 ナショナリズムは酸素のようなものである。 それだけではいつ引火して爆発するやもしれぬ一方、それが無くては生物は生命を維持することはできない。

 

ナショナリズム無くして国家の存続は不可能である。 国家の存続なくして自由の維持は不可能である。 ゆえに、ナショナリズムは自由の維持に不可欠である。

 

ナショナリズムとは、そういうものである。



追記:

「日本人で、エカッタなあ」と感じるのは特に海外旅行をした時、入国審査でアラブだかイランだかの人があれやこれや言われているのをしり目に「日本人だから」とサッサと通される瞬間である。 多くの国々に入国する際に日本のパスポートを所持する者がビザを要求されないのも日本国の信頼があってこそである。 旅行のみならず、ビジネスをする上でどれほどありがたいか、ということである。

 

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