安倍談話 - 懺悔の継承
- 2015.08.22 Saturday
- 20:20
安倍談話、それは新たなる欺瞞と土下座の歴史の始まりである。それほど期待はしていなかったものの、やはり残念なものである。私はこの談話に心底落胆した人間の一人である。
政治家の仕事は他国におべっかを使うことではない。ましてや自国の過去を貶めることではない。政治家の仕事は真実を語ることである。だがこの談話は真実からほど遠いものである。
安倍首相はこの談話は謝罪の歴史に終止符を打つためのものだと言う。だが終止符を打つのは終止符が打たれたときである。自分で過去の謝罪談話を継承しておきながら「終止符を打った」と言明するのもおかしなものである。それが説得力を持つのは「とにかく安倍さんを指示する」派の人々に対してだけである。
ところどころ抜き出してコメントしたい。
「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」
”民族自決”、”国際連盟”、”不戦条約”、”戦争の違法化”、これらは人種差別主義者にして革新派の独裁者、ウッドロー・ウィルソンのスローガンである。なぜあれほど悲惨な戦争になり、あれほどの犠牲者を出したかといえば、ひとえにこのウッドロー・ウィルソンがアメリカとは無関係なはずのヨーロッパ人同士の殺し合いに介入したからに他ならない。ウィルソンがアメリカを参戦させたがためにドイツが完敗して高額な罰金を科されてナチズム台頭への道を開き、ロシア帝国は崩壊してボルシェビキ台頭への道を開いた。20世紀の大量虐殺者であるヒトラーもレーニンもスターリンも、生みの親はこのウッドロー・ウィルソンである。
日本は自ら選択して孤立したのではない。アメリカが貿易障壁を設け、ヨーロッパが対抗手段を取り、そのあおりを受けた日本は満州に活路を求めた。そこに「力の行使」があろうが、それは国家として当たり前のことである。政府の任務は国益を守ることである。その手段が外交なのであり、戦争は外交の一手段である。それを国際連盟が妨害したから日本は脱退したのである。日本は当たり前のことをしたのである。日本が戦争への道を進んだのではない。世界が戦争へと突き進んでいたのである。日本は自国防衛の方法を模索したに過ぎない。
浅い歴史観の首相を頂く国民は不幸である。
「中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」
我が国によって犠牲になった罪なき人々が存在するのは事実である。だがこれは日本が謝罪するべきことではない。なぜならば日本特有の現象ではないからである。戦争では必ず多かれ少なかれ罪なき人々は犠牲になるのである。罪なき人々を犠牲にしたのは日本だけではない。戦争に参加した国々全てが有罪である。南京において、罪なき人々を意図的に殺害し、そして殺害されるように仕向けたのは中国国民党軍であった。なぜ日本が謝る必要があるのか。
「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」
これは完全に倒錯した世界観である。これが安倍首相の「本心ではない」としたら、安倍首相は自ら空疎な「喋り屋」であることを証明したも同然である。また本心でもないことを談話で発表するなど国家のリーダーとしてあるまじき行為である。
国際紛争を解決する手段として、いかなる武力の威嚇や行使も用いてはならないのなら、駐留米軍など要らないではないか。自衛隊も要らないではないか。
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました」
日本は悪いことをした悪い国であったことを受け入れ、謝罪しなければならないと認め、そして謝罪行為を肯定しているではないか。「戦後レジーム」を肯定しているではないか。
「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか」
これが「南京大虐殺」というプロパガンダの肯定でなくて、いったい何なのか?日本軍から苦痛をうけた捕虜?では連合軍から捕虜としても扱われなかった我々の兵士達はどうなるのだ?では民間人とも認識されずに殺された我が方の人々はどうなるのだ?
「寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました」
復帰?日本はいつ国際社会から引退したのかね?国連からの脱退が引退で、国連への加盟が復帰なのか?なら台湾は国際社会に存在しないということか?
「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
何ら関わりがない?そんな人が日本列島にいまだかつて存在したのかね?前線で戦った兵士達のお蔭で我々がいるのでは、ないのかね?謝罪を続ける運命を背負わさてはならない?ならなぜ謝罪をするのかね?
「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」
過去を引き継ぎ、引き渡す?ならば文脈から言えば謝罪を続けろということではないか。
「唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります」
最近ウィンドウズ10が出た。今更「ウィンドウズ10の不拡散と、究極の廃絶を目指そう」などと叫んでも無駄である。ウィンドウズ10は更に次世代のウィンドウズとなって進化を遂げるのみである。核兵器も同じである。防衛を確かにしようとするならば、技術革新で勝ち残るしかないのである。それを「廃絶を目指そう」とは、とんだ人物が首相になってしまったものである。
「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります」
ならば女性が男性の半分以下の人権しか認められていないイスラム圏に喧嘩を売る覚悟はあるのか?すくなくとも、彼らに女性の人権擁護を啓蒙するくらいの気構えはあるのか?いまだかつてそのような話は聞いたことがないが。耳に入るのは「女性の社会進出を促進しよう」のスローガンだけなのだが。
「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます」
立派な謝罪ではないか。我々や後世の日本人も、その「過去」を胸に刻まないと(謝罪し続けないと)いけないのかね?
安倍首相のスローガンは「戦後レジームからの脱却」であった。だが実のところ、戦後レジームは安倍首相にとって生きるに不可欠な酸素のようなものであることがはっきりした。
安倍首相は言う。「これ(談話)が精いっぱいだ」と。そして多くの安倍支持者は言う。「これが今の日本に言える限度だ」と。
どちらもピントがずれている。恐らくは外交の目的が分かっていないのであろう。外交とは国益をかけた戦いである。その手段が閣僚会談であったり首脳会談であったり、はたまた戦争であったりするだけである。談話の発表も一種の外交である。そこに国益がかかっているのである。だが安倍首相の談話からは国益を守るという覚悟がひとかけらも感じることができない。
こと歴史認識においては「一歩も譲らない」という覚悟が重要である。談話を発表するならば、「我々は正しかった」が基調としてあり、「これからは我が国を取り巻く侵略国家である中国、ロシア、北朝鮮と対抗姿勢をとっていく。それにあたってはアメリカや他の同盟国との連携を今以上に強めていく」というメッセージでなければならない。
日本が歴史を肯定したら「世界中から袋叩き似合う」などという者もいる。世界中とは誰なのか?袋叩きとは具体的に何なのか?現状認識も戦略もない、空虚な言葉だけを並べるイメージ先行型の情緒的思考である。
「日本が歴史を肯定したらこの世の終わりが来る」という妄想を信仰している者が自称保守派にも多い。歴史を肯定する、ということはハリネズミのように誰彼構わず食ってかかっていくような、粗暴で短気で好戦的なイメージである。
「外交性」というものが分かっていないのであろう。「外交性」とは安易な妥協や自虐やおべんちゃらに走ることではない(当談話のように)。「外交性」とは対人関係において目的を達成することである。
「日本は正しかった」と明言しつつ、第二次大戦において日本が主に戦ったアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダといった国々の自由と繁栄への業績を高らかに讃え、彼らの精神的な支柱であるユダヤ・キリスト教的価値観を称揚し、戦後彼らとの間に培った関係を最大限に持ち上げ、現在の敵対勢力への共同戦線をぶち上げることはいくらでも可能であった。
だがもともと安倍首相にはそのような認識も精神的背景もないのであろう。
安倍談話が発表されてから数日後の今日、ロシアの首相が北方領土を訪問した。これはロシアの領土であると。日本側の抗議などどこ吹く風である。この土下座談話の後ならば敵に侮られても当然である。
南方に関しても、シナや東南アジアなど、至近距離の国々が欧米の植民地となっていたことは、我が国にとっては脅威でしかありませんでした。
だから、我が国はアジア諸国に民族自決や東亜新秩序を唱え、防共やブロック経済への対抗をさざるを得ませんでした。これこそ先の大東亜戦争が自衛のための戦争だったと言われる所以です。