「同性婚 - 神の意志は如何に」読了

  • 2015.12.12 Saturday
  • 23:58



"Same-Sex Marriage: A Thoughtful Approach to God's Design for Marriage" Sean McDowell & John Stonestreet

本書の目的は、同性婚が先進各国において支持を得つつある今、LGBT活動家の勢いに押されて意気消沈したキリスト教徒達を目覚めさせ、勇気づけ、行動へと駆り立てることである。

過去数十年の間、社会は大きく変わった。1996年には27%だった同性婚への支持は、現在53%へと増加。しかも18歳〜29歳の若者による支持率は73%にもなる。

すっかり「古臭い価値観に頑迷にしがみつく時代遅れの差別主義者」のレッテルを貼られたキリスト教徒は苦々しい思いで孤立主義や逃げに走り、あるいは「寛容の精神は神の意志だ」とうそぶき同性婚を受け入れる。

著者はいずれの方向性も間違いであると言う。

結婚は政治家や官僚が考案した制度ではなく、神が創造したものである。神はまず天地を創造し、それから自らの代理として男性をつくり、世界をあまねく支配せよと命じる。世界を支配するためには子孫をつくり、増やさねばならない。そこで神は女性をつくり、男性に与え、それを結婚とした。

夫と妻は単なる「気の合う二人」あるいは「愛し合う二人」ではない。子孫を増やして世界を支配せよとの神の意志を実現することを目的とした共同体である。「気が合うこと」は大事である。お互いに憎みあっていては子孫を増やすのは難しい。

「気が合う」や「お互いの愛情」は子孫を増やすための強い動機を与える。だがそれはあくまで動機であって目的ではない。目的は神の意志を実現することである。

性行為も神の意志であり、その目的は結婚した男女の間に子孫を増やすことである。不貞は、それが異性間においても同性間においても、同様に神の意志に反する行為であり、罪である。ゆえに異性間での罪にまみれた「健常者」が一方的に同性愛者を指さして彼らの罪を糾弾するとすれば、それは偽善に他ならない。

自ら「健常者」としての罪を認めつつも、キリスト教徒は真実を語らなければならない。聖書の教えから逸脱することなく、神の意志に忠実であり、神の創造物である全ての人々に対して愛を持って接しなければならない。

同性愛者を断罪するのではなく、愛を持って接しなければならない。彼らに愛して結婚の真の意味を語り、罪なる行為である同性愛から引き離し、神の意志に従った姿へと導いていかなければならない。

著者は同性婚がどのような経緯で今日の姿に至ったかを説明する。

かつて社会で「道化」扱いされたLGBTは長い年月をかけて現在の「地位」を獲得した。LGBT活動家の動きは戦略的であった。まず彼らはLGBTを何かにつけてドラマ、映画、音楽等々に登場させる。LGBTの存在が珍しくなくなると、今度は「LGBTに対する差別」を訴え、健常者を差別主義者として描く。優しく善良で聡明なLGBTと粗野で邪悪で愚鈍な健常者という対比を強調することで論理ではなく感情で訴える。これらメッセージに日々晒された人々はついにLGBT活動家の軍門に下り、LGBTの地位はゆるぎないものとなる。

キリスト教徒にも責任の一端がある。彼らはLGBT活動家が次々と攻勢をかける間に有効なカウンターを撃つことができず、なすがままであった。しかも異性間での性の乱れを許容し、放置し、あるいは自ら放蕩に耽った。古くはプレイボーイからはじまりポルノ、不倫、安易な離婚、結婚前の性行為、妊娠中絶 - これら神の意志に反する行いは他でもなく健常者によるものであった。

このような健常者の行為によって徐々に結婚は生殖(子孫を増やして世界を支配するという神の意志の実現)から切り離されていった。結果として結婚は単なる「同居」へと形骸化していった。結婚が同居となった今、それは一男一女のものから「誰にでもできるもの」となり、当然の帰結として同性婚が出現した。

健常者の神の反逆がLGBTへと道を開いたのであった。健常者の性の堕落がLGBTをもたらし、そして同婚へと繋がった。同性婚は社会の堕落をもたらす「原因」ではなく、社会の堕落がもたらした「結果」である。

もう結婚は終わったのか?社会はもうもとには戻らないのか?キリスト教徒は敗退したのか?

著者はキリスト教徒に対して絶望するなかれと説く。

キリスト教徒には神の意志への回帰を主導する義務がある。それは困難であるが不可能ではない。

歴史上においても性の乱れが極限に達し、「神の意志による結婚」が危機に瀕した時代は存在した。古代ギリシャ・ローマ時代はその一つであり、そこでは女性や子供は「慰みもの」として扱われた。性の神聖性と人間の尊厳を教えて彼らを救ったのがキリスト教であった。

なぜ結婚が必要なのか?本書は4つの目的を挙げる。

1. 性行為を制御するため。
2. 男性を制御する(粗暴性を緩和して生産的行動へ向ける)ため。
3. 女性を保護するため(結婚制度の最大の受益者は女性である)。
4. 子供が成育する環境を整えるため。

これら4つを全て行うことが出来るのは伝統的な男女間の結婚だけである。それ以外のいかなる関係もこれらを全て満足することは不可能である。結婚の定義を人為的に変えたとしてもその事実は不変である。

結婚は社会に安定をもたらし、結婚の失敗は社会に不安定をもたらす。強い結婚文化を持つ社会は安定・発展し、結婚文化が廃れた社会は不安定化し衰退する(文化的にも経済的にも)。

ゆえに、キリスト教徒は「同性婚」を語るのではなく、「結婚」を語らなければならないのである。

キリスト教徒が置かれた環境は敵対的である。彼らは日々様々な試練に晒されている。

「私たちが同性婚したってあなた達の異性婚には影響ないでしょ?何が悪いの?」と言われたら?

もしもゲイの親友から同性婚すると言われたらどう反応したら?

彼らから結婚式に参加してもらいたいと言われたら?

それが勤務先の関係だったら?

同性婚のためのサービスを提供するよう求められたら?

それを断ったがために訴えられたら?

もし同性愛者の友人や知人に同性愛や同性婚についてどう思うかを聞かれたら?

もし知人のキリスト教徒がLGBT許容発言をしたら?


本書はこういったキリスト教徒を取り巻く現実の課題に対して明確な示唆を与える。勇気をもって、機知をもって、そして英知をもって対応しなさいと。

本書はキリスト教徒ではない者が読んでも面白い一冊である。キリスト教の結婚観に非キリスト教徒が同意するか否かは別としてもである。

我々現代の日本人は結婚について曖昧模糊とした観念しか持ち合わせていない。結婚の堕落が社会の堕落をもたらす、とはまさに日本のことである。現在我々が直面する少子化は結婚の減少がもたらしたものである。これは「結婚はコスパが悪い?」といった議論が交わされるシラケた社会ならではの現象である。

そのシラケはどこから来たのか。それは別の探求が必要であるが、信仰心の薄さと関係するように思えてならない。結婚が「神の意志」なら信仰による再興も可能であろう。だが結婚が「コスパ」ならまず無理である。

「同性パートナーシップ」が地方自治体で徐々に導入されている日本において、既に「流れ」は同性婚である。同性婚の法制化は時間の問題であろう。

我々は唯々諾々とその「流れ」を許容するのか。それともいくばくかの抵抗を試みるのか。

そのようなことを考えるキリスト教徒ではない日本人にも強い示唆を与える一冊である。

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