「男性保育士」 政府介入の産物としての社会問題

  • 2017.01.29 Sunday
  • 15:47

 

「男性保育士に娘の着替えや排せつの世話をやって欲しくない」。こんな保護者の意見は、男性保育士に対する「性差別」にあたるのか。千葉市の熊谷俊人市長(38)がツイッターで投げかけた問題提起が、いまインターネット上で盛んな議論を呼んでいる。千葉市幼保運営課によれば、市内の公立幼稚園・保育園では、男性保育士が幼児のオムツ交換や着替えの業務を「外される」ケースが目立つという。こうした状況について、熊谷市長は「女性なら社会問題になる事案です」と訴えている。  記事


本来問題となる必要がなかった「社会問題」という現象は珍しくない。

何十年も前に、我々は男女雇用機会均等法を制定した。雇用の機会という点において、男女間で差別があってはならない、という善意に基づく考えだったのであろう。この考え方は個人の考え方としては別に悪いものではない。本来はそこで留めておけばよかった。だがそれが法律となったことにより、この「考え」はその意図を超えて社会の変質をもたらした。

「男性保育士」なる存在は変質した社会の産物である。

私は別に男性保育士や保育士になろうとする男性を敵視しているわけではない。圧倒的大多数は善良な人々であろうと思う。だが「男性保育士」という問題はそれとは無関係である。この問題に対して彼らは一切責任がない。むしろ被害者である。

なぜならば、この問題は問題である必要はなかったからであり、彼らの存在、あるいは無存在は人々の意識を呼ぶ必要性すらなかったからである。

千葉市内の公立幼稚園・保育園において、保護者の要望によって男性保育士が幼児のオムツ交換や着替えの業務を外される事態が発生し、その事について千葉市の市長がツイッターで発言した。

この市長の発言にはこの問題を問題たらしめた根源が見え隠れするため、いかに紹介してコメントしたい。

 

|棒保育士の件について最後に。日本全体ではまだ不信を持つ方は少なくないでしょう。保育所、男性保育士を知らない人が多数です。しかし、実際に保育所に預けた経験がある方は保育士の専門職を理解し、反対の比率は減るでしょう。さらに男性保育士と接したことがある方はより理解が広がるでしょう。

 

男性保育士が増え、男性保育士と実際に接する保護者と保育された方が増えれば自然と解消していくでしょう。それまでは行政・保育所長などが保育士の職務への理解促進と信頼関係構築、不祥事防止に向けたシステム構築に努め、保護者の不安払しょくと志ある保育士を守る取り組みを進めていきます。


この発言からは、保育がサービス業であるという理解は微塵も見られない。保育というサービス業の顧客は親である。サービス業は顧客のニーズにこたえるものである。そのニーズは往々にして潜在的なものである。人は潜在的なニーズが満たされたとき、嬉しい驚きを感じる。逆にそれが外れたときは嫌な驚きとなり、事業者の試みは失敗となる。その反応に対して「まだ我が社の製品に不信があるだろうが、それは製品を知らない人が多数だからだ。キミたち顧客がきちんと我が社の製品を理解すればそれは自然と解消していくはずだ」などという対応をすれば会社そのものが市場撤退を迫られよう。

以下のコメントは極めて愚鈍である。

 

娘を男性保育士に着替えさせたくないと言う人は、同様に息子を女性保育士に着替えさせるべきではないわけですが、そんな人は見たことがありません。社会が考慮するに足る理由無しに性による区別をすることは差別です。女性活躍を進める中だからこそ、真剣に日本社会が議論し、乗り越えるべき課題です


これがサービス提供者(市として)が顧客もしくは潜在的に顧客となりうる市場一般に対して発する言葉であろうか。一般企業であれば一発で不適格者である。

女性の保育士に子供の着替えをさせたい、させたくない、あるいは男性の保育士に子供の着替えをさせたい、させたくない、というのは顧客の要望である。それを第三者が妥当と思おうが思うまいが関係はない。

女性の清掃員が男子トイレで掃除できるのだから男性の清掃員が女子トイレを清掃できなければ「職業差別」だ、と言うに等しい。男性と女性は非常に異なった生物である。男性トイレで女性の清掃員がいきなり入ってきても、トイレを利用中の男性は何とも感じない。一方女性トイレにいきなり男性の清掃員が入ってきたらトイレを利用中の女性はどのように反応するであろうか。

「理由無しに」というが顧客要望そのものが理由ではないのか。行政は我々一般市民の代わりに家族の日常生活の細事を考慮してくれるのか。「差別だ」というが消費者として選択することが差別ならばあらゆる消費活動が差別ではないのか。「社会が」というが具体的に社会とは誰なのか。曖昧かつ専制的である。

市長のツイッターに人々が否定的に反応し、それに対して市長が言い返す。

 

@○○○ なるほど、では乳幼児間の性的悪戯等も完全排除しなければいけませんね。こちらの方が確率は遥かに高いので。男児クラスと女児クラスに分け、トイレも完全分離しましょう。保育士不足・保育所不足に拍車をかけ、待機児童が大変増えますが、仕方がないですよね。


乳幼児同士のイタズラと大人の乳児に対するイタズラを完全に同列に語るこの人物は大丈夫であろうか。乳幼児は遠慮がないので他の乳幼児のちんちんをつついたり自分のちんちんをつついてみせたりする。それはありふれたことで記憶にも残らない。だが大人から乳幼児への悪戯は場合によっては生涯癒えない精神的な傷を残すこともある。この天と地ほどの違いを認識しない稚拙な人物が市長という地位に収まるとは恐ろしいことである。

顧客の要望に応えるとサービスの供給が不足する、とは恐れ入った見識である。そのようなことは物理的にあり得ないことである。「保育士不足」「待機児童」は規制の産物である。

この市長はツイートする。

 

大事な娘さんのかけがえのない日々の保育を代わりに託し、日々専門職として保育をしている目の前の保育士に対して犯罪予備軍の疑いをかけるのは悲しいですね。相互チェック体制などを確認するのは分かりますが、保育士個人の資質に問題が無いにも関わらずの要望であれば保護者側が対応すべきかと


我々は消費者として刻一刻と選択をする。どこのスーパーで買い物をするか。どこのブランドの商品を買うか。やや高い信頼性を確立したブランド品を買うか、安いが無名ブランドの商品を買うか。同じ商品でも鮮度や消費期限はどうか。それまでに蓄積した経験、知識、直観、そして母として、あるいは父として家族の利益を考えて熟慮して一つ一つの購買に際して決定を下す。

そのような消費者の決定プロセスを、ましてや「大事な娘のかけがえのない日々の保育を託す」相手を選ぶための決定プロセスを「犯罪予備軍の疑いをかける」などと形容する市長の存在ほど「悲しい」ものがあろうか。

私は男性保育士という存在そのものを問題視しているのではない。個人的な意見を言えば、男性保育士は不要である。それは「俺はビールはプレミアムモルツしか呑まん」という人にとって発泡酒が不要なものであるのと同じである。発泡酒がその人のニーズに合わないのと同様、男性保育士も私のニーズに合わないのである。

プレミアムモルツしか呑まないというのは発泡酒に対する差別だ、などと言われれば「大きなお世話だ」となる。あらゆる製品やサービスに関して言えることである。

市長は”ほいく男子会”@hoiku_mens という男性保育士を応援するアカウントのコメントをリツイートしている。

 

病院で男性医師に子どもの裸を見せることは問題にならないのに、保育園や幼稚園でで男性保育者に裸を見せることは問題になる。私がほいく男子会の活動をしていて憤りを感じるのはその点なんですけど…


これは稚拙な比較である。一般化して言うと、保育は昔から女性の仕事である。医者は昔から男性の仕事であると同時に女性の仕事である。男性の医師は当然ながら、女医という存在は珍しいものではない。明治時代から津田塾大学などから次々と有能な女医が輩出されてきた。

一般的に保育で必要とされる資質は母性と慈愛であり、これは女性の得意分野である。一方、医術で必要なのは高度な専門的医療知識と技術である。顧客が求める特性の違いは明白である。こんなことが直感的に分からずにこのような愚鈍なコメントをリツイートしている人間が市長であることのほうが問題であろう。

この市長のツイートは反応を呼び、その反応は更に反応を呼んだ。私のもとに別の人物から次のようなコメントが入った。市長のコメント同様に我々の社会における病理を表すものであるため紹介してコメントしたい。

 

なら、男性保育士のいる保育園の行かなきゃえーやん幼稚園入れたらええがな。男性保育士がダメなら男性小学校教師も女子高の男性教師もダメやんけ。無料の行政サービスに文句たれとらんで女性シッターでも雇えや。子供への性的犯罪は年間3000件程度で子供への虐待の方は年間10万件圧倒的に家族からの虐待の方が良いんですよね。しかも虐待をするのは母親である女」 


行政サービスと民間サービスとの比較は民間企業同士の比較、例えば「アサヒにするか、キリンにするか」「日産にするか、トヨタにするか」「ニトリにするかIKEAにするか」「パナソニックにするか、日立にするか」といった比較と同じではない。行政サービスというものは往々にして本来民間でやるべきことを政府(地方自治体・国を問わず)が行う事業のことである。

ある産業における行政サービスの存在は、行政によるその産業への規制と介入を意味する。それはその産業における市場性が歪められるということを意味する。ベビーシッターを雇えば一日で軽く万単位である。なぜベビーシッターは高額なのか。それは許認可等の規制があるからであり、対応をするためにコストがかかるからである。

政府の介入により、市場全体が影響を受け、現在の顧客のみならず、潜在的顧客を含めた多くの人々が多かれ少なかれ選択肢の減少とコスト増という影響を受ける。

「男性保育士が嫌なら男性小学校教師も女子高の男性教師も不可のはずだ」というのは極めて稚拙な議論である。まず、消費者の購買決定において他人による「〜のはずだ」はお門違いである。次に、一般的に教育保育の顧客である親が保育に求めるのは母性と慈愛に基づく「世話」であるに対し、学校教師に求めるものは「知識の伝授」である。 

最後に子育てに費やす時間が圧倒的に女性と企業等で働く時間が圧倒的に長い男性を比べるのは不毛である。子供を授かると、女性は本能的に子育てへと注意を傾け、男性は本能的に子供と子供を育てる妻を守るべく収入を安定させることに注意を傾ける。これは誰に意見でもなく、事実である。

「男性保育士」は問題が引き起こした現象であって問題そのものではない。

「男性保育士」は極左ジェンダーフリー思想と政府による社会実験的規制の産物である。とるべき対策は「男性保育士」を政府の力で普及させることではなく、規制なき自由な保育市場の創出である。自由な市場において、消費者の選択は様々な考慮によってなされる。直観も一つの重要な決定要素である。

雇用機会均等法等で規制された市場は自由な市場ではない。なぜならば、本来一般的に男性が適正を発揮する職場に女性を、また逆に女性が適性を発揮する職場に男性をあてがうことを企業や事業者は強制されることを意味し、そのためのコストは目に見えない形で我々全てにかかってきているからである。

まずは雇用機会均等法を撤廃しなければならない。

その環境において男性保育士が出てくるならば、問題にすらならないはずである。なぜならば、その男性保育士の存在は、選択肢がある上での確かな需要に支えられているからである。


追記:
男性の保育士が必要とされる可能性のある局面として考えられるのは母子家庭における男児の子育てである。母子家庭において決定的に欠如しているのは頼りになる男性の存在である。往々にして母親の男友達は頼りにならないだけでなく、子供に危険を及ぼす存在になりうる。男児には母親の慈愛だけでなく男性的なインプットも重要である。それを与えることができるのは男性だけである。

コメント
コメントする








    
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728    
<< February 2017 >>

time

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM