「神の存在を証明する5つの論考」読了

  • 2019.05.12 Sunday
  • 15:53




本書は、歴史に残る哲学者達の論考に光をあて、論理によって神の存在を立証せんとするものである。

著者、エドワード・フェーザー氏はアリストテレス、プラトンの後輩達、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ライプニッツ、その他の哲学者達と彼らの展開する理論に基づき、宗教的な信仰に依拠せずに神とは何か、そしてなぜ神は存在するのかを説明する。

フェーザー氏は5つの論考を展開し、神の存在を証明する。

第一に、変化とは潜在性の具現化である。潜在性を有するものが具現化力を有するものによって具現化されるときに変化が起こる。全ての変化(change)の背景には変化者(changer)がいる。あらゆる変化は、すでに具現化された何かによってもたらされる。

ヤカンに水を入れて火にかけると沸騰する。これは火という「既に熱が具現化されたもの」によって水の温度が上昇する(潜在性が具現化する)ことによって実現する現象である。

このような変化の原因は永遠に過去に向かって遡っていくことができる。だが過去、現在、未来において変化が存在すること自体の原因は永遠に遡ることができない。どこかに起点がなければならない。

潜在性を有するものが、既に具現化された何ものかによって具現化され、それが更に他の潜在性を有するものを具現化していく。

潜在性と具現化の混合体であるあらゆるものは、他の潜在性と具現化の混合体であるなにものかによって変化させられる。

ということは、これらの「変化」を支えている何ものかがなければならない。自らは変化せずに他を変化させる何ものかが。

自らは変化しない、ということは潜在性を持たないということであり、潜在性を持たない、ということは変化する余地を持たないということである。変化する余地がないとは、それが物質的ではなく、時間の外に存在するものであり、永遠なものであり、完全なるものであり、全知なものであり、至高の善であることを意味する。フェーザー氏は「完全に具現化した具現者」あるいは「不動の動者」呼ぶ。

物質は生成と劣化を繰り返す。変化するものは全て物質的なものである。逆に、変化しないということは物質的なものではなく、精神であり、知性であり、抽象的なものであることを意味する。

物質の生成と劣化は時間の経過によって発生する。よってあらゆる物質的なものは時間の中に存在する。生成と劣化が無いということは時間の外に存在するということに他ならない。時間の外に存在するということは始まりも終わりもない。すなわち永遠である。

潜在性を完全に具現化した存在とは何一つ欠けたところのないもの、すなわち完全なるものである。これは他の全ての潜在性を具現化する主体、すなわち全知全能であり、至高の善である。

完全なるものは二つとして存在しない。複数あるものの間には必ず違いがある。違いとは潜在性の具現化における差異に他ならない。完全なるものは潜在性を完全に具現化したものである。よって完全であるものは唯一の存在である。

フェーザー氏は更に第二〜第五の論拠へと進める。

第二に、我々の周りに存在するものは全て部品や部分を持ち、何かしらの「組み合わせ」によって形成される。人や動物の体、机やいす、木々、山、岩石、その他様々なものに言えることである。これらすべてには起源がある。その起源は完全に単純にして部分による「組み合わせ」を形成しないものである。完全に単純であるということは単一であるということであり、変化しないことを意味する。変化しないということは時間の外にあるということである。「組み合わせ」によってこの世のものを構成する起源になっているということは意思を持つということであり、それは精神として存在するものであることを意味する。

第三に、赤、青、黄色のような色識別、人間、動物、植物のような分類、〇△□といった図形、数や数式、「雪は白い」というような命題、その他様々な一般概念や抽象概念。これら概念は時空を超えて存在する。これらは単なる人間の想像ではなく現実であると同時に人間の頭脳に依存するものでもなく、その限界に制限されるものでもない。一方これらは物質ではなく時間の経過で劣化するものでもない。始まりがあり、終わりがあるわけでもない(数字は永遠に数えることができ、1+1=2は時間の経過で劣化することもなければ変化することもない)。これらが依拠するのは全知全能の知性、至高の知性である。

第四に、我々が遭遇するあらゆる物事には本質と存在があり、本質と存在は別個である。石は石としての本質を持ち、石として存在する。人は人としての本質を持ち、人として存在する。木も、犬も、想像上の竜も同様である。いわば本質とは潜在性であり、存在とは具現化である。石は石としての潜在性が具現化されるから石として存在し、竜は竜としての潜在性が具現化されるから実在する代わりに人間の想像の中で竜として存在する。このような物事が存在するためには必ず本質と存在が一致した存在(潜在性が完全に具現化したもの)によって存在が原因づけられている必要がある。

第五に、科学(物理、化学、数学、生物学等)が示すとおりこの世界は規則だっている。論理的に、あらゆる物事について、それが存在する理由と性質を認識することが可能、あるいは説明することが可能である(実際にどの程度まで究明できるかは別問題)。現時点で存在するあらゆるものはその存在を他のものに依拠している。例えばある人が存在するためにはその親がいて、その親が存在するためには更にその親がいて、という具合にこの連鎖は永遠に過去にさかのぼることが可能である。だがこの連鎖の存在自体、何ものかに依拠している。なにものにも依拠せず、必然的に存在するものによって。

単純で、変化せず、物質的ではなく、無形で、永遠で、必然的に存在、全能、全知、完全なる善、意思があり、愛があり、そして我々の想像を絶する不可解な存在 ・・・ この存在を、古くより人々は様々な宗教を通じて神、あるいは天、あるいは創造主としてとらえてきた。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教において神は一つであるとしてきた。

宗教的な信仰の論理的根拠が哲学的思索によって与えられたのである。

フェーザー氏は各論考において、無神論者の反論を挙げ、それに対する反駁を展開している。

科学を盾に神の概念を「非科学的なもの」として退ける無神論者に対してフェーザー氏はこのように切り返す。

科学とは、この世界の様々な現象から規則性を数学的に抽出し、そこで得られた知識を適用することである。数理的に説明できない事象をバッサリ切り捨てるからこそ明晰な分析ができ、高度な技術に発展させることが可能。化学は原子がどうやって分子になり、分子がどのようにモノになるかを説明するが、そもそも原子がどこからやってきたのかを説明することはできない。それが科学の限界である。科学こそ全て、という人を筆者は闇夜のランプの下で探しものをする酔っ払い(なくしたものがランプに照らされたところ以外にあるはずがないと信じる人)に例える。

また、「至高の善であり、全知全能であり、全ての潜在性を具現化するはずの神が、なぜこの世を不完全な状態にしておくのか。なぜ地球は天変地異や災害に襲われるのか。なぜ人間はこれほどに欺瞞と残酷さと愚かさにまみれているのか。それは神が全能でも善でもない証拠ではないか」という反論にフェーザー氏は答える。

勇気は人間存在の本質のひとつであり、具現化されるべき潜在性である。もしも地球環境も人間界も完全なる平安であったならば、人間は勇気という特性を育むことができるであろうか。

赦しも同様に人間存在の本質のひとつであり、具現化されるべき潜在性である。もしも人間界が完全なる善人だけであり、悪行が存在しないならば、人間は赦しという特性を育むことができるであろうか。

自由意志も同様に人間存在の本質のひとつであり、具現化されるべき潜在性である。もしも人間が良い行いだけをするようプログラムされた機械であったならば、自由意志を育むことができるであろうか。

神の存在は論理的思考を突き詰めれば否定することができない。本書は圧倒的な根拠をもってこの事実を突きつける。

本書は哲学の素養の無い読者にも理解できるよう、身近な物事を随所に例示しながら論を展開する。私にとってはそれでもかなり手ごわいものであったが、神というものについて考えることが多い昨今、重要な示唆を与える一冊であった。

【参考】
Edward Feser | The Ben Shapiro Show Sunday Special Ep. 17


Can You Prove God Exists? —Dr. Edward Feser


Proof of God's Existence—Part II

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