「所得再分配」という邪教
- 2012.10.27 Saturday
- 13:41
人々に金を与えれば可処分所得が増える。 すると人々は活発に消費をするようになる。 そこに売買が生まれる。 売った側にも収入が生まれ、可処分所得がどんどん増える。 すると社会の消費活動が活発になる。 これが連鎖活動のようにどんんどん広がっていく。 設備投資が増え、経済全体が活気づき、いつの日か好景気がやってくる。 これが「所得再分配」という邪教の論理である。 ネットで「所得再分配 需要 投資」とでも入れればこの邪教を流布するサイトが沢山出てくる。
この邪教は社会に深く根を下ろしている。 これが広く流布されているのは日本だけではない。 アジア諸国、ヨーロッパ諸国、アメリカ大陸… 世界いたるところでこの邪教が信じられている。 この邪教の最大の問題点は間違っていることであり、人々の心を惑わす邪悪さを持っていることである。 この邪教は実際の事例によっても間違っていることが証明されているが、これが大学や大学院では「経済学」として崇められ、研究され、教えられている。 世界の経済の専門家とされる人間の多くはこの邪教にお墨付きを与えるための研究にせっせと励む人間達である。
この邪教の論理の間違いの出発点は、経済の原動力を「人が金を使うこと」としていることである。 経済を発展させるにはとにかく「人に金を使わせ」ればよいと。 この論理を分かりやすく極端な形にするとこうなる。 『群衆が棍棒を手に取り、家々のガラス窓を割って歩けばよい。 車を破壊して歩けばよい。 家々に放火して歩けばよい。 家や車を破壊された人々は家を補修したり立て直してたりするだろう。 車を破壊された人は車を補修したり買い替えたりするだろう。 人々は否応なく消費する。 消費が生まれれば「経済が発展する」… はずではないか?』 『経済発展は暴動から始まる』ということである。
実際の世の中はこのように動く。 経済発展は暴動=破壊からではなく、創造と蓄積から始まるのである。 あるAという人物は真面目に働き、倹約につとめ、つつましく暮らし、将来の蓄えとするためにせっせと銀行に預金する。 銀行はその金を使って金を儲けるために金を貸したい。 あるBという人物が創意工夫によって人々に優れた商品を提供し、客を喜ばせている。 彼はその商売を大きくしたい。 そのためには設備投資が必要で、そのためには元手がいる。 Bは金を借りたい。 銀行は金を貸したい。 そこで両者の利害は一致する。
Bは金を借りて設備投資し、事業の規模を拡大する。 土地を買い、工場を建て、設備を購入し、人を雇い、資材を購入し、材料を購入する。 この過程でそれぞれの事業者が利益を得る。 それら事業者の社員が収入を得る。 彼らの家族が生きる糧を得る。 必要なものを買い、残りは将来のために蓄える。 事業が成功すればBは利益を得る。 利子を得た銀行は更に金を貸し付けようとBに対して良い条件を提示する。 Bは更に金を借りて事業を拡大する。 更に多くの人が雇用される。
世の中には成功するBもいれば失敗するBもいる。 失敗したBは成功したBの下でAとなって働くも良いし、成功するBを目指して再チャレンジするもよい。 資本主義の社会において富は成功するBに集まる仕組みになっている。 Bとはいわば、勤勉・創意工夫・能力・才能・運といったプロセスによって資源を富へと変換しようとする者である。 最も優れたBは最も多くの富を創出することが出来、最も多くの富(収入・便利さ・楽しさ・安全・安心)を社会に分配することになる。
だから、「How an Economy Grows and Why It Crashes」の著者Peter Schiff氏が述べるように、「経済発展は消費によってではなく、貯蓄&投資によって促進される」のである。 貯蓄がなければ投資は生まれない。 人々(上の例で言えば多くのA達)に金をばら撒くだけならそこには消費しか生まれない。 「あぶく銭は身につかず」である。 飲み屋で散在したりパチンコで大枚はたいたり超豪華海外旅行に出かけたり…
国家政府による所得再分配は破壊活動である。 それは人々から貯蓄する動機を奪うと同時に投資家達の投資の動機を奪い、富の創出を阻み、真に効率的な富の社会への分配を可能にする活動を壊死させるからである。 人々の生活を支え、豊かにし、便利にし、楽しくし、それを次世代の生活にも引き継いでいくのは経済発展である。 その経済発展を促進するのは創造と蓄積である。 だから経済発展を阻害する活動を正当化しようとする「所得再分配」理論は邪教なのである。
追記
経済学という学問は本来不要である。 一般社会で生きるに際して学問的経済学(数学やチャートを使ったりする難しそうなやつ)のケの字も知る必要はない。 必要なのは上記に記したような常識だけである。 なぜならば本質的に経済とは人と人との売り買いであり、学問として一般化させ昇華させる必要のない活動だからである。 しかるにマルクス経済学から始まって上記のような邪教を広める輩がいるからには、それに対抗するためには同じ言語を駆使しなければならない。 邪教とそれを広めようとする勢力、それを薄めて浸透させようとする勢力、それを無力化せんとする勢力、それと戦おうとする勢力、これら勢力の争いが今日の経済学の姿である。