金融緩和による再生 = 現代の天動説
- 2013.01.21 Monday
- 01:28
安倍政権が発足し経済再建の期待が高まっている。 民主党政権のダメさ加減に愛想をつかした国民の気持ちはストレートに選挙に反映された。 国民の気持ちは真摯である。 しかし残念なことであるが失敗する結果は見えている。 左翼メディアからは”右傾化””保守化”などと批判されて良い気分になっているのか知らないが、政権の経済政策に保守的な要素は何もない。
「金融緩和」を普通の言葉でいえば札を刷ることである。 日銀が金融機関から国債を無制限に買い取ることで、刷ったカネを市場に投入することである。 一方で政府は国債を発行し続ける。 国債を発行し、銀行に買わせ、それを日銀が買う。 カネあまりの状態にすることでインフレを起こし、「デフレを脱却しよう」というわけである。 経済「政策」というよりも金融遊びといったほうが適当である。 しかもヒトのカネを勝手に使ってやるのだから、悪質さ極まれりである。
政府が金融操作に興じる間、不況の原因である「経済の癌」は放置される。 経済の癌とは企業活動と投資を阻害する要因、すなわち「大きくなりすぎた政府」のことである。 大きくなりすぎた政府とは、すなわち増大する社会福祉と拡大する規制、そしてその財源である税金のことである。 放置どころか、その癌に更なる栄養を与えようとしている。 無制限の金融緩和ということは、それを無制限に行うということである。 その栄養はどこから来るのか。 他でもない、国民の資産からである。 政府とは国民の富を使うことによってのみ存続できる組織だからである。
国民は20年にもわたる不況に晒されてきた。 団塊の世代が定年を迎え、年金受給者となりつつある一方、働き盛り世代は収入減に直面している。 若年世代は就職難に直面している。 節約を続けてきたものの、あまりに長引く不況から「節約疲れ」という現象も出てきた。 貯金しようにも出来ないという現象が起きている。 国民は将来への不安を抱えながら手元にあるカネを頼りに生きている。
アベノミクスが掲げるデフレ脱却とはインフレを起こすことである。 インフレとはモノの価格が上がることだが、逆に言えば貨幣の価値を下げることである。 言い換えれば、国民がせっせと働いて稼いでいるカネ、一生懸命に節約して貯めているカネ、それらのカネの価値を下げることである。 それを「枠を取り払って大胆に行う」ということは、「吸血鬼のように国民から富を吸い取って経済の癌へ栄養供給をする行為」を急激に加速させるということである。
なぜこのような理不尽な政策が大手を振ってまかり通るのか。 それはいまだに一般庶民からお偉い経済専門家にいたるまで、「経済における天動説」に思考が支配されているからである。 17世紀の人々は空を見上げて地球の周りを星が回っているのだと思い、地動説を唱えたガリレオを宗教裁判にかけた。 それを笑う現代の我々は思う、「価格が下がりすぎる、あるいは上がりすぎるのは問題だ。 政府は人々の生活を守るために価格を制御しなければならないのだ」「デフレの環境だと投資がしにくい、だからインフレに誘導しなければ」と。
価格とは何か、現代の経済のガリレオ、トーマス・ソーウェル博士は言う... 価格が上がること、価格が下がること、それらはいずれも良いことでも悪いことでもない。 モノがある価格においての需要に対して豊富になれば価格は下降するし、逆に希少になれば価格は上昇する。 価格がある程度下降すれば供給者は(儲けが減るので)減り、すると今度は希少になって価格が上昇する。 ある商品の需要と供給がバランスの取れた状態であれば価格は一定を保つが、何らかの要因でそのパランスが崩れれば新たなバランスを求めて自然と価格は変動する。
本質的に「価格」とは「情報」に他ならない。 あるモノやサービスが、ある価格において、どの程度の需要があるか、その需要に対して供給はどの程度あるのか。 それらの情報を「かなり」や「ちょっと」という曖昧で大雑把な表現ではなく、また「水揚げされてから24時間以内の新鮮なシャケ10匹分」とか「袖にほつれがあるけど気にしなければ着られるワイシャツ5枚分」という恣意的な表現でもなく、普遍性のある表現で伝達するために人類があみだした方法が「価格」である。
価格が「高い」ということ、あるいは「安い」ということはモノの希少度を表す指標であるから、それを人為的に抑えたり上げたりしたところでその背景にある現実は変わらない。 それどころか、価格の持つ情報伝達力を阻害するわけであるから、人々は不正確な情報を受け取ることになる。 最悪な状況ではインフレが制御不能になり、価格の持つ情報が全く意味をなさない状態に陥る。 歴史上そのような状況は珍しい事ではない。 ドイツ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ロシア、ジンバブエ、その他多数…
どの時代のどの国のどの政府も経済を制御できたためしはない。 これらの政府は経済を制御したのではなく、人々の不満を抑圧してきた。 あるいはヒトラーのように独裁的権力掌握に利用してきた。 政府が経済をコントロールしようと足掻く最中人々は惨めさを味わう… これが歴史上何度も繰り返されてきたお馴染みの光景である。
苦しみの歴史から得られたのが「小さな政府」という知恵であり、それを実行したのがレーガン大統領であった。 国防、インフラ整備、治安維持以外の政府プロジェクトや規制を廃止して歳出を大削減する。 不要になった財源は国民に還元(減税)する。 通貨を安定化させ、増税や経済活動を阻害する規制を排除する。 澄み切った晴天に遥か彼方から富士山を望むかの如くに未来10年、20年、30年先までの見通しを可能にし、それによって長期・短期の投資を活性化させる。 投資を世界から呼び込むことで雇用を創出させる。 「操作」ではなく「くびきを解き放つ」によって経済は蘇る。
安倍首相の望みは経済を攪乱させることではない。 安倍氏が祖国の歴史へ抱く想いや現状への憂いの気持ちには疑いはない。 保守的な「心」も感じ取れる。 話しぶりを聞いていても真摯な人柄を感じる。 小泉政権以来、回転ドア状態だった首相の座を、長期間維持してもらいたいと願ってやまない。 だが、その願いとは裏腹に国家再生の希望は失われる一方である。 結末を想うと残念でならない。
追記:
経済は結果が見えているのでせめて国防に期待したいところである。 しかし尖閣を見ても侵入してくる中国軍機や船に対する対応を見る限りなんら前政権と変わりがない。 靖国神社参拝についても態度がはっきりしない。 「タカ派色を抑えている」などと左翼新聞に評価されて満足しているようである。 いずれにしても、気の重いことである。