待機児童 - 政府による市場攪乱がもたらす困難
- 2013.03.31 Sunday
- 13:21
苦しみから逃れんとする人々が自ら進んで苦しみに向かって突き進んでいくのを見る様は心が痛む。 待機児童の問題はまさにそれである。 先日も新聞で報道されていたが、全国で保育所に入ることが出来ない児童が増え続けていて、その親たちが地方政府に対して不服申し立てをしているというのである。 この事態を打破するためにどうするべきか、新聞報道の一般的な論調はこうである「国や自治体が施設の整備を急ぐべきだ… 」
需要が増加しているにも関わらず供給がそれについていかない。 簡単に言えばそういうことである。 それは衣服であろうが食べ物であろうが住居であろうが、なんであろうがそのような現象が起きる場合、その原因は共通している。 政府による市場への介入、それによる市場の持つ調整機能の阻害、そしてそれによる需要と供給のバランスの攪乱である。
なぜ保育所が増えないのか。 なぜ認可保育所でまかないきれない分を認可外保育所でカバーできないのか。 原因は規制にある。 施設に対する規制と料金に対する規制である。
認可保育所はその名の通り「国の基準を満たして都道府県から認可された」保育所である。 認可外保育所は認可を受けていない保育所であるが、では規制は無いのかといえばあるのである。 保育士の人数、保育面積、設備等、やはり自治体の定めた基準を満たさなくては営業が出来ないのである。 例えば、広い家に住み、子育て経験が豊富なある人が一念発起し、子育てのひと段落した主婦を雇って家の一角を使って託児所を始めようか、などと考えても基準を満たすことが出来ない。 だから結果として諦めるしかないのである。
認可保育所は料金設定が地方政府によって決められている。 例えば東京都の福祉保健局のウェブサイトにはこうある。 『東京都認証保育所事業実施要綱4に定めるところにより、原則として、月220時間以下の利用をした場合の月額は、3歳未満児の場合80,000円、3歳以上児77,000円を超えない料金設定とすることとしています』 国を問わず、時代を問わず、共通する経済の法則がある。 それは、恣意的に料金を抑えると需要に対して供給が減少する、という法則である(逆に、下限を設定すると供給に対して需要が減少する - 例えば最低賃金)。
世の中には高収入家庭と低収入家庭がある。 自治体が設定した価格を無理だと感じる貧困家庭もあれば、しんどいと感じる家庭もある一方、ある程度いけると感じる家庭もあればハナクソ程度だと感じる富裕家庭もある。 富裕家庭にしてみれば裏のコネとカネを使ってスペースを確保するのは簡単である。 当然コネもカネもない家庭は限られたスペースを探し回ることになる。 これはそのまま医療(医師不足)にも言えることである。
自治体にしてみると「善意で」価格上限を設定したのかもしれないが、結果は市場の攪乱である。 例えば貧困家庭にしてみれば、わいわい騒ぐ大勢の子供たちに僅かな保育士の貧弱な設備の保育所でもよいから子供を預けたい。 一方で、例えば空調と空気清浄が効いた絨毯張りの心地よい部屋で子供にモーツアルトの音楽や英語に親しませ、読み書き教室を提供するようなサービスに金に糸目をつけない富裕家庭もあるだろう。 だが現実に提供されるのは画一化された「国に認可された保育所」である。
「保育は市場ではない!資本主義の原理を持ち込むな!カネの問題じゃない!… 」こういった感情を抱くのは個人の自由である。 しかし問題は、個人の思想に関係なく「経済の原理はいかなる体制においても厳然として存在する」のが事実であり、「それを無視しようとも胡散霧消することはない」という現実である。 事実と現実を認めるかどうかの問題である。
しかし… 子供を預ける保育所なのだから国の認可くらい必要だろうが! 認可どころか基準にも満たしていないところに預けるのは心配だろうが! そういう声もあろう。 では「国の認可」「自治体の基準」がもつ意味を考えてみればよい。 「国の認可」するから、「自治体が基準を設ける」から、では国や自治体はそこで起こることに対して何らかの責任を持つのか、そして持ち得るのか、ということである。
昨年、大津市で中2男子が自殺した問題が社会に波紋を広げたが、この学校は国の認可を受けているし、この学校の教師も全員国の認可を受けている。 生徒にいたずら行為をする小中学校の先生のニュースは時々あるが、彼らは全員国の認可を受けた大学の、国の認可を受けた教職課程を経て、国の認可を受けた試験を受けて合格し、国の認可を受けた学校で、国の認可を受けたプログラムに従って生徒を教えているのである。
ではこれらの事件に際して国は、自治体は、何かの責任を取ったのか? そもそも取りえるのか? 「国は責任を取れ!!」と怒号することと、実際に責任を取らせることは、別物である。 例えば不祥事の教師を指導した教師やその認可に関わった人員が全員責任を取って辞職したなどという話は聞かないし、今後も聞くことはないだろう。 保守主義の源流の一つである19世紀フランスの自由主義経済政治学者のフレデリック・バスティアは著書『法』の中で述べているが、政府は規制をかけることで「持ちえない責任を背負う」のである。
苦しみから逃れんとする人々が自ら進んで苦しみに向かって突き進んでいくのを見る様は心が痛む。 なぜならば、苦しみを解決する方法は以外にも簡単だからである。 それは規制の「緩和」ではない。 規制の「撤廃」である。 日本人の持つ創意工夫の精神と現代の情報テクノロジーを駆使しさえすれば、明日すべての規制が蒸発してもなんら困ることはない。 それどころか、規制を解かれさすれば、多くの企業や個人が参入し、上の述べたような対処方法をはじめ様々なイノベーションによって待機児童の問題は胡散霧消するはずである。