『はだしのゲン』を全国の学校から撤去すべし
- 2013.08.25 Sunday
- 18:02
少年時代に好んで読んだ漫画といえば『はだしのゲン』と『三国志』である。 特に『はだしのゲン』は夢中で読んだ。 これは作者の才能であろう。 引き込まれるようにページをめくったものである。
1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御された時に各テレビ局が一斉に報道を自主規制したのを見て、「なんでドコゾの爺さんがクタバったくらいでこんな騒いでんだ? 天皇って、そもそも戦争犯罪者じゃなかったっけ。 日本てまだ軍国主義か? そういえば、中国にも、韓国にも、アジア諸国にも戦争時代に非道を働いたことをきちんと謝っていなんだって? 日本て、なんて醜くていやらしくて恥ずかしい国なんだ...」と心底感じ入り、憤慨した。 「だいたいが、庶民がこんなに狭い家で我慢して生活してるのに、こいつら皇室はこんなだだっ広い敷地を占領してやがるなんて、おかしいだろうが。 こんなの民主主義じゃねえ。 追い出してちっこいアパートに住まわせときゃいいんじゃないのか」 「だいたい、いつも何してやがんだ、こいつら皇室は。 すました顔してやがるけど。 必要ねえだろ。 日本はいまや”民主主義”なんだから」と、皇室の方をテレビで見るたびに思ったのを覚えている。
その後20年にわたり、「日本は罪を背負っている」という意識は消えることはなかった。 その意識は次第に消毒されていったわけだが、その過程では長い年数がかかったと同時に、幸運な要素がいくつか重なっていた。 アメリカ生活にてアメリカの保守の歴史観や愛国心に触れたこと。 中国生活にて日本人と中国人との違いを認識し、それが歴史観の見直しにつながったこと。 そして中村粲による名著「大東亜戦争への道」に出会ったこと。 これらの体験がなければ私は意識的な反日左翼であり続けていた可能性が高い。
ある自営業の男性が松江市議会に『はだしのゲン』の撤去を求めて陳情し、この漫画が急に話題に上がったことで、少年時代のことが記憶に蘇ってきた。
「これだったな… 俺の反日の原点は」
- 首をおもしろ半分に切りおとしたり
- 妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊を引っぱり出したり
- 銃剣術の的にしたり
- 女性の性器の中に一升瓶がどれだけ入るかたたきこんで骨盤を砕いて殺したり
- 三光作戦という殺しつくし、奪いつくし、焼き尽くすでありとあらゆる残酷なことを同じアジア人にやっていた…
- 数千万人の人間の命を平気で取ることを許した天皇…
- いまだに戦争責任を取らずにふんぞりかえっとる天皇…
- 君が代なんか国歌じゃないわいっ…
子供の真っ白な頭に、これらのイメージとメッセージが強烈に叩きつけられたわけである。 これらを疑うなど、考えられもしなかったのである。 これらが嘘と欺瞞の塊であるなどということは、知る由もなかったのである。 「歴史を知るって、こういうことなんだ… こういう歴史から目を逸らしちゃいけないんだ… 我々は"古き醜き"日本を脱して"新しく美しき"日本人にならなきゃいけないんだ… 」と。 反日を経て愛国へと至り、左翼を経て保守へと至ったからこそ、この怖さが分かるのである。
常識的な人間であれば、学校の図書館という場所にポルノの類を置くべきでないことは分かるであろう。 写真や映像でなくてもエロ小説の類もダメであることが分かるであろう。 ましてやSMやレイプを肯定するような内容の書物は問題外であることは分かるであろう。 「はだしのゲン」を学校に置くということは、それらを置くのと同じかそれよりも酷いということである。
「書物を検閲するというのか! なんと時代錯誤な! なんと”専制的”な!」という声がある。 単なる勘違いならまだよいが、恐らくこれらは意図的な悪意による言いがかりである。 検閲とは国家が国家権力を行使して言論を規制することである。 いま話題になっているのは、子供が学校にいる時間に手に取る本をどのように選定するか、という問題である。 その違いは明瞭であろう。
子供の教育は一にも二にも親の役割である。 学校とは、親が子供の教育を部分的に委託する場である。 委託というのは丸投げするということではなく、(直接にせよ間接にせよ)対価を払ってサービスを受ける行為である。 いわば、教育において親と地域社会は受益者であり、顧客である。 対する学校はといえれば、授業というサービスを提供するサプライヤーである。 顧客として、サプライヤーに対してサービス向上を要求するのは当然の行為である。 だから、親や地域社会として、学校に対して「子供の精神を害する本を学校から撤去してくれ」と要求するのは当然のことなのである。
「はだしのゲン」は極悪の書である。 全国各地で学校から撤去すべき本である。 親として、絶対に子供に読ませてはならない本である。 この自営業の人が言うように、「読みたければ、あるいは読ませたければ、自分で買えばよい」のである。 更に言えば、この漫画は変態のための本である。 一部の変態が変態つながりで入手して、恥ずかしそうにコソコソ読んだらよいのである。 このような変態本が堂々を置いてある倒錯した今の日本の学校で、まともな教育を望むのは無理というものである。