オバマ広島訪問に思う
- 2016.05.29 Sunday
- 11:15
米大統領が現職で初めて広島訪問、慰霊碑に献花 核なき世界訴え
[広島 27日 ロイター] - オバマ米大統領は27日、現職大統領として初めて広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した。献花後のスピーチで大統領は「亡くなった方々を悼むために訪れた。あの悲惨な戦争のなかで殺された罪なき人々を追悼する」と述べた。その上で「歴史の観点で直視する責任を共有する。このような苦しみを繰り返さないために何をすべきか問う必要がある」とし、核保有国は核なき世界を追求する勇気をもつ必要があると語った。
オバマの広島訪問を喜ぶ自称保守がいるが、極めて情けないことである。
先の大戦で日本が得るべき教訓は何だったのか。
それは、戦争へと至るどのような経緯があろうとも、ひとたび戦争が始まったら負けてはならないということである。そして負けないために手段を選んではならないということである。
負けないために「何をしてもよい」ということではない。
負けないために「可能な限り全ての手段を講じなければならない」ということである。
敵方の一般市民を大量殺戮しようが核兵器のような大量破壊兵器を使おうが、とにかく手加減をしてはならない。相手が戦意喪失して降参するまで叩きのめさなければならない。
それが戦争というものである。その現実こそが我々の体験である。
アメリカは日本を敗退させるために手段を選らばななかった。そして原子爆弾を使った。それはアメリカの立場からすれば何らおかしなことではない。アメリカ保守がオバマの広島訪問に激怒するのも当然といえば当然である。
日本の歴史は日本の歴史であり、アメリカの歴史はアメリカの歴史である。両者が同意しない部分があっても何ら不思議なことではない。ましてや死闘を繰り広げた大戦前後の歴史に関しては互いに完全に相反して当然である。
原爆投下は国際法違反だった、などと寝言を言っている者がいるが、そのようなことを言っている限り日本が自主独立の道を歩むのは不可能である。
国際法は法ではない。おまじないである。なぜならば国際法をあまねく執行する機関は存在しないからである。国際社会は強いものが制する無法地帯である。保護者不在の幼稚園である。力こそが唯一の言語である。それは過去、現在、そして未来永劫変わらぬ現実である。
「核なき世界」とは何か。それはマシンガンや大砲や手りゅう弾で人々が殺し合う世界である。第二次世界大戦以降、大国同士が直接戦火を交えずに来たのは核兵器のおかげである。
「核兵器は悪いものだ・・・」
それで我々はどうするのだ。
核保有国である中国、北朝鮮、ロシアの脅威の前に核保有どころか国防そのものを放棄しつつアメリカ駐留軍の存在に頼る。
この自己矛盾が我が国の姿である。
我々がアメリカ大統領から原爆投下の謝罪を受けて得るものは何もない。我々の自己矛盾と混乱が深まるだけである。
この自己矛盾を解決しない限り我が国が歴史と国防を取り戻すのは不可能である。その道は遥か遠いと言わざるを得ない。