プロパガンダで始まるストロー宗教戦争

  • 2018.07.29 Sunday
  • 12:08

ここ数週間、毎日のように欧州や米国のリベラルな州におけるプラスチックストロー廃止に関するニュースが続いている。海外の左翼メディアの情報を翻訳して垂れ流すしか能のない日本のメディアはプラスチックストロー廃止の動きを日本でも受け入れるべき世界的な流れとして紹介している。

「意識の高い」リベラルな国や地域では既にプラスチック製ストローが禁止され、罰則も適用されている。全米で最もリベラルな州のひとつであるカリフォルニアのサンタ・バーバラではレストランが顧客にプラスチック製ストローを提供した場合1000ドルの罰金か6カ月の拘留という罰則を設けた。サンフランシスコでもストローが禁止され、違反者は100〜500ドルの罰金が科せられる。

健常者はストローが無くてもなんとか飲料が飲めるが、身体障害者にとってはたまったものではない。




また、コーヒーなどはストローが無くても飲めないことはないが、タピオカドリンクなどは無理である。スプーンですくって飲め、では面倒くさくて仕方がない。

プラスチック製でなくても他の素材がある・・・。紙や竹といった素材のストローのコストはプラスチック製の2〜3倍から5倍である。しかもコストは高くて品質(性能・耐久性)が低い。個人から見れば僅かな違いであろうが、それを仕事にしている事業者からすればとんでもないことである。

プラスチック製ストロー廃止を主導しているのは共産主義から衣替えした左翼・環境活動家達である。彼らは言う。ストロー廃止は環境との共生への一歩であると。

彼ら左翼は米国においては不法移民の容認・受入や薬物の使用や所持に対する罰則緩和といったリベラル政策を推進している。その結果、かつて米国で最も美しい街といわれたサンフランシスコはいまやホームレスと麻薬中毒者とゴミと人糞の街と化している。






サンフランシスコを廃棄場にした彼ら左翼と世界中の同類達が「地球を救うためにプラスチック製ストローを廃止」を叫んでいるのであるから笑止千万である。

プラスチックは20世紀初頭にこの世に登場し、その後の絶え間ない技術革新により人々の生活を革命的に改善した。重いものが軽くなり、割れやすいものが割れなくなり、曲がらないものが曲がりやすくなり、熱い/冷たいものが適温になり、分厚いものが薄くなり、高価なものが安価になった。

左翼が最も許せないのは一般大衆が豊かになることである。そのくせ彼ら自身は豊かさの恩恵を享受しながら高説を垂れる。「重要なのは”私一人”が豊かさを捨てることではなく、社会全体が”少しずつ”商業主義から脱却していくことだ」と。彼らはこう言いつつゲート付きの安全な住宅に住み、ジェット機で世界中を飛び回り、高額な講演料をせしめる。偽善者である。

先進諸国においてプラスチックストローを廃止したところで地球の環境は微塵たりとも改善されることはない。海洋に流れ込む全プラスチック廃棄物のうち、プラスチック製ストローが占める割合は0.02%に過ぎない(National Review 記事)。

海洋汚染を起こしているプラスチック廃棄物はほぼすべてが後進国の河川からくるものである。後進国では人々が現代文明の豊かさを享受する一方、市場経済が未発達で私有財産の概念が薄い。よって自分の生活空間以外はゴミ箱である。河川などはゴミ捨て場そのものである。先進国が自主的にストローを法規制したところでこれら後進国のゴミ捨て場からゴミが消えるわけではない。山のようなゴミはそのままである。

当然サンフランシスコの街に散乱するプラスチックのゴミや路上にこびりつく人糞もそのままである。

このプラスチック騒ぎの発端の一つはこの映像である。テキサスA&M大学の海洋生物学調査チームが中米コスタリカ近海で鼻に何かが詰まって苦しそうに呼吸するヒメウミガメをみつけ、ペンチで引っこ抜いてみたらなんとそれはプラスチック製ストローだった、という話である。



この映像が全世界の「意識高い」人々の心を揺さぶり、それほど「意識高くない」人々をも「目覚めさせ」ているわけであるが、よく考えれば極めて怪しいシロモノである。

なぜコスタリカなのか。プラスチック製ストローが海洋環境に壊滅的な打撃を与えているのであれば、ストローを鼻に突っ込んだ哀れなカメさんを探しに行くのにコスタリカまで行かねばならんのは何故なのか、ということである。コスタリカまで行かずとも、カメならテキサスにも沢山いる。彼らテキサスガメはストローとどのように対峙しているのか。

世界にウミガメが何匹いるのか推測は極めて難しいが、全米では68,000〜90,000と言われている。しかも、このテキサスA&M大学の地元のテキサス(メキシコ湾)ではその数が近年増加しているという研究もある。増加するテキサスのウミガメのうちストローを鼻に突っ込んだカメが一体何匹いるのか。ゴミを捨てまくる後進国の海を漁るよりもそちらを調べるのが先ではないのか。

映像の4分くらいのところで、やっとのことでペンチで途中まで引き出した異物をわざわざ根本から切断している。そしてそこで研究員らしき人物が言う。「Don't fucking tell me it's a freaking straw(まさかストローじゃねぇよな)」と。そして「だからいつも言っているように、プラスチックのストローなんて要らないんだ」と続ける。

事の経緯は知る由もないが、この映像は最初から最期まで上のセリフを言いたいがために企画され、撮影されたものであると断じざるを得ない。プロパガンダ映像である。

世の名だたる企業が次々とプロパガンダに屈して「プラスチック製ストロー廃止」を決定するなか、プラスチック製ストローへの風当たりはきびしくなっている。ストロー製造は見た目からも想像できるくらい単純なものである。小規模な会社で工員がせっせと作業している。世論を扇動する環境活動家の前に無力な存在である。

彼らの犠牲など、反プラスチック教という新興宗教を布教し、反プラスチックの宗教戦争を戦う環境活動家からみれば取るに足らないものである。

悪しき宗教に染まる社会とオウム真理教

  • 2018.07.15 Sunday
  • 17:20


ビート・タケシというと「歯にもの着せずズバリ本質」のようなイメージがある。タケシはかつて麻原彰晃とテレビで対談したことがある。

タケシが麻原に聞く。

小さいころから悩んでいるんですけどね・・・モゴモゴ・・・人間て、こう・・・自分が動くために・・・でも形あるものを食って糞にしなきゃならないとか・・・繰り返しているなあと・・・ 原子とか分子レベルでは形は変わっていないとかあるんでしょうけど・・・どういうことなんだろうかと・・・モゴモゴ

麻原が答える。

このような問いを発するというのは普通の人ではないですね。まさに神の域に達していますね・・・ 明らかに前世では神のような存在を経験されているはずです。やはりタケシさんは芸能界のカリスマであり、指導者であられる。

この愚にもつかない質問と応答において喜びを隠しきれないタケシの恍惚とした表情を見るとよい。一見宗教的でない人間がオカルト宗教にコロリと騙される瞬間である。



人間は宗教と不可分である。宗教に興味があるとか、無いとか、そういう問題ではない。神を意識するとか、しないとか、そういう問題でもない。

日本でいえば、宗教に興味無し、という人は多い。大概の場合、そういう人々が信仰しているのは宗教の名を冠しない何かである。その何かとは、政府による金融政策や規制であったり、地球温暖化や反原発や太陽光発電といった似非科学であったりする。これらは宗教の名を冠しないだけで根拠のない信仰であるからには宗教である。

地下鉄サリン事件を起こしたテロリストを称揚した日本のテレビ番組の水準と現在の日本のテレビ番組の水準は同じである。オカルト怪奇現象番組も芸能人の運動会もクイズ番組も相変わらずである。多くの家庭ではテレビが神殿と化し、聖堂と化し、神棚と化している。芸能人が司教と化している。

オウム真理教がテロを起こしたのはなぜなのか、真相を解明してからでなければ死刑執行をしてはまずい、という笑止千万な人間がいる。逮捕された後の麻原は意味不明な言葉を口走ったりしていて精神状態が正常ではなく、治療を行い回復した後でなぜあのような事件を起こしたのかを聞き取りして原因解明することが再発防止につながるだろう、と佐藤優という自称インテリは言う。




原因解明もヘッタクレもない。この世には悪しき宗教と良き宗教がある。悪しき宗教に染まった人間は悪しきことをやる。悪しき人間は麻原こと松本のように徹底的に人を欺く。このような悪人は死刑に処すのが正義というものである。

良き宗教を持たない人間は悪しき宗教に簡単に染まる。悪しき宗教に染まらないための唯一の方法は良き宗教を信仰することである。

西日本災害 植林と太陽光政策への祟り

  • 2018.07.15 Sunday
  • 15:12

原発を止めて太陽光発電を推進する政府(民主・自民)の政策により、太陽光パネルが全国各地の山林に敷設された。その様子はまるで癌細胞が広がるかのようであり、不気味な様相を呈していた。

何か悪いことが起こるのではないか、という不穏な予感をさせるものであった。

その予感は200名を超える犠牲者を出した西日本災害という形で現実となった。

豪雨は天災である。だが土砂災害は人災である。

戦後の政府の植林政策によって山林はスギだらけとなり、林業が立ちゆかなくなるとそのまま花粉を放出するままに放置された。スギは成育が速い反面根が浅いため保水力がなく地盤を固める力も弱い。だから土砂崩れが起こるのは決まってスギ林である。

2011年の東北大震災に端を発した反原発運動により太陽光発電が政府主導で促進された。太陽光パネルというものは、地震がくればぐらつき、風が吹けば吹っ飛び、大雨が降れば崩れる。水没した状態でも有害化学物質を放出させながら発電し続け、人々を危険に晒す。火災時も厄介である。

アスクルの倉庫火災において来る日も来る日も火が燃え続けた原因は屋根に設置された太陽光パネルにあることが知られている(処理に入る消防隊員を感電の危険に晒す恐れとパネルの化学物質による水質汚染を起こす恐れのため水をかけられない)。

その脆さと発電効率の悪さと危険さはここに至るまでに全国各地で実証されている。

太陽光パネルを敷設するために木々を伐採した後の山は禿山と同然である。過去実際にパネルを敷設した部分が土砂崩れを起こしている。仙台の例であるが、ものの見事にパネル部分だけが崩れている。



今回の豪雨でも山肌に取り付けられた太陽光パネルが山陽新幹線の線路に崩れ落ちるという事故があった。高速で走る新幹線を直撃しなかっただけ不幸中の幸いである。



政府の短絡的な思考によって植林し、原発を止め、木々を伐採して太陽光パネルを敷きつめるという愚かな行為が神の怒りを買い、災害につながったのである。この責任は、民主党、そして民主党から政権を奪ったにも関わらず政策を転換しなかった自民党にある。

石油資源も原子力も神が人間に与えたものである。神が与えたものに背を向けて偶像を崇拝すれば祟りがある。その祟りが西日本災害である。

道徳の授業風景に見る我が国の惨状

  • 2018.07.01 Sunday
  • 13:59

大切なものを公(政府)に任せることのリスクを知ることは重要である。公(政府)というものは、間違いを認めない。どこかおかしい、と多くの人が感じても突っ走る。無尽蔵の財源を持ち、間違いが組織の存亡に関わるということがないため、自動修正というものが効かない。

教育、特に道徳教育はその最たるものである。

ここに、ある道徳教育の現場の様子が紹介されている。

「道徳の教科化は、これまで一貫して価値観の押し付けにつながるのではないかと、見送られてきたが、国はいじめ問題などを理由に教科化を進めた」のだという。

前提が間違っているとその後に続く思考も間違いである。そこで使われている教材もひどいものである。この記事ではある事例として二つの愚にもつかない話が紹介されている。

 
“ある朝、たかしがお母さんに1枚の紙切れを渡しました。それは、せいきゅう書でした。たかしは、「お使い代」「お掃除代」「お留守番代」として、500円を請求したのです。お昼どき、お母さんは500円と一緒に小さな紙切れを渡しました。お母さんからの請求書でした。「病気をしたときの看病代」「洋服や靴」そして「おもちゃ代」など、いずれも0円。それを目にした、たかしの目には涙があふれました…。”

これを読んでウルっとする人間は相当イカレていると自覚した方がよい。

家庭の一員として、家庭内の仕事を分担するのは子供の義務である。家事をする代わりに小遣いを与えるかどうかは親の教育的判断である。家族のために無償で何かを行うことも重要であるし、お金というものが必ず価値ある労働に対して与えられるものであるということを学ぶのも重要である。どちらをどのくらいに配分にするかは親が決めればよい。そして子供はそれに従えばよい。

親が決め、子が従う。その関係が重要なのである。子供が親に対して請求書を渡すということは、関係が対等であるという前提がある。対等であるからこそサービスに対する対価という概念が発生するわけである。子供が巣立って大人になればそのような場面も生じる可能性はあるが、子供が親の庇護下にあるうちはありえないことである。

このような思いあがった行為自体が言語道断なのであり、厳罰ものである。それを「あり得る事」のように紹介し、教材にするなどというのは狂気としかいいようがない。

また別の例ではこのような場面が紹介されている。

 
“星野君は少年野球の選手。チャンスで打席が回ってきたとき、監督に呼ばれました。監督は、確実に1点を取るため送りバントを指示。しかし、星野君は得意なコースにボールがきたため、監督の指示を守らず打ちました。結果は二るい打、勝利に貢献しました。ところが、試合の後、星野君は監督の指示に従うというチームの約束事を守らなかったとして、とがめられたのです。”

これを道徳の教材にしようと考えること自体、道徳の何たるかを理解していない証拠である。野球をはじめとするスポーツにはルールがある。そのルールを守ることが競技の前提である。そのルールを守って全力を出し、勝利せんとするから競技が成り立つのである。

「監督のいうことに従う」などというルールはどこにもない。監督の仕事は指導者としての役割を果たすことである。重要なのは監督が選手の信頼を勝ち得ているか否かである。監督がある指令を出し、選手が無心に、あるいは「そうだな」と思って従えば、それは監督が選手の信頼を勝ち得ているということである。逆に選手が監督の指示に対して「アホか。俺は俺のやり方でやる」と思えば、それは監督の力量がその程度だということである。

勝ちたい気持ちは分かる・・・
でも監督に従うことも大事・・・
自分を試したいという気持ちも分かる・・・
でも集団で動くことも大事・・・

などと悶々と悩みたいなら勝手に悩めばよい。だがそれは道徳とは完全に無関係な次元の話である。

道徳とは何か。端的に言えば、それはモーセの十戒に集約される。

その一:神は一つである。善悪の基準は一つである、と解釈してもよい。

その二:偶像を崇拝してはならない。勝手に都合よく善悪の基準を創造してはならない、と解釈してもよい。

その三:神の名を無為に使ってはならない。自分で勝手にデッチあげた”善の概念”を悪用してはならない、と解釈してもよい。

その四:安息日を守らなければならない。一週間に一度は立ち止まって静かに自分の行為を見直す時間を持たねばならない、と解釈してもよい。

その五:父と母を敬え。解釈は不要であろう。

その六:殺人をしてはならない。※戦争を禁じるものでないことは聖書を読み解けば明らかである。

その七:姦淫をしてはならない。解釈は不要であろう。

その八:盗んではならない。解釈は不要であろう。※実際この国では管制の盗みが壮大に横行しているが。

その九:隣人について偽証してはならない。解釈は不要であろう。

その十:隣人の財産を欲してはならない。解釈は不要であろう。※実際この国では人の財産をなんとも思わぬような社会主義思想が流布されているが。

これらの規範を、

日々の生活において実践すること

日々の生活においてどのように実践すべきかを考えること

日々の生活において実践しているかを反省すること

日々の生活において実践することの難しさを実感しつつ、日々向上せんと模索すること

これこそが、まさに道徳というものである。

道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者の、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者による、道徳の何たるかを一ミリも理解していない教育者のための道徳教育。

それが我が国の公教育における道徳教育の現実である。


追記:
人類はモーセの十戒以上の道徳規範を未だかつて持ったことがない。モーセの十戒は神からの授かりものである。このモーセの十戒を神から受け取り、人類に授けたのがユダヤ民族である。故にユダヤ民族は選ばれし民なのである。

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