少子化「日本消滅への道」への具体的提言

  • 2012.09.30 Sunday
  • 12:54
 

何でもかんでも政府頼みな人々が増えるとそれに迎合する政治家が増える。 政治家は当選したらこれをします、あれをします、と触れ回る。 そういう政治家は当選しても大したことはしない。 だが官僚組織は自己増殖し続け、本来彼らを制御するはずの政治家はそれを放置する。 国民も何も文句は言わない。 安心のため、安全のため、情報開示のため様々な理由をつけて官僚組織は国民から頼まれもしないのに次から次へと規制を作る。 政治家は唯々諾々とそれらを法制化する。 これが今の日本の姿である。 これが日本の「閉塞感」であり、20年の長きにわたる不況の原因である。 なにしろ何か行動しようにも右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても「法律」「法律」「法律」「規制」「規制」「規制」「条例」「条例」「条例」「指針」「指針」「指針」「ガイドライン」「ガイドライン」「ガイドライン」という状況なのだから。

 

このような社会は「問題」が出てくると新たな「法」や「規制」や「条例」や「指針」や「ガイドライン」やらで対処しようとする。 その代表例が「少子化」である。 「出産数が減っている出口の見えない不況、右肩あがりの経済成長の終焉、晩婚化、非婚化、生活スタイルや価値観の多様化 様々な原因に対して対策を打たなければ」 そこで少子化対策と称して「子供手当」なるものが支給されたりナントカ法案が可決されたりする。

 

次世代育成支援対策推進法なる法律がいつの間にか制定されている。 従業員101人以上を雇用する企業に対し子育て支援の行動計画策定を義務付けるというもの、らしい。 厚生省のウェブサイトを見ると、企業はこのような計画を策定しなさい、と御丁寧に計画例が掲載されている。 

 

  • 妊娠中の女性社員の母性健康管理についてのパンフレットを作成して社員に配布し、制度の周知を図る
  • 小学校就学前の子を持つ社員が、希望する場合に利用できる短時間勤務制度を導入する
  • 妊娠中や産休・育休復帰後の女性社員のための相談窓口を設置する。
  • 育児休業等を取得しやすい環境作りのため、管理職の研修を行う。
  • 社員の働き方を見直し、特に女性社員の継続就業者が増えるよう、妊娠・出産・復職時における支援に取り組む
  • 社員の働き方を見直し、特に女性社員の継続就業者が増えるよう、妊娠・出産・復職時における支援に取り組む

 

「こんな制度があればいいよネ」...という給湯室のお喋りであれば大したことはない。 だがそれが法制化されるとそれは義務となる。 義務となると実施しなければ法律違反となる。 企業はやらざるを得ない。 企業にとっては上に挙げた活動は全て「人+時間+資源=経費」である。 経費が利益を上回ると企業は倒産する。 だから企業というものは反射的に経費節減に走る。 

 

それはどのような現象として現れるのかといえば、『新規雇用の削減』である。 簡単に言えば、古株が居座り新米が入らないということ。 別の側面から言うと、一度辞めたら再就職は難しいということ、ある年齢に達したら就職が難しいということ、である。 閉塞感漂う労働市場 それが少子化対策の「原因」に対して有効な打開策になっているのか、そもそもなりうるのか、考えてみれば一目瞭然であろう。

 

東大、京大、慶応”頭の良い”大学を出て官僚になって繰り出す政策がこの程度のお粗末なものなのである。 やる前から既に論理破綻しているものをあえてやる。 やって失敗してももっとやる。 ガイドラインでだめなら指針だ、指針でだめなら条例だ、条令でだめなら規制だ、規制でだめなら法律だ... それで問題が出れば新たな「対策」を繰り出し、そして同じ道を辿る。 「大きな政府」の必然的な結末それは洋の東西を問わない。

 

では何もしなくて良いのか? 「少子化」の現状を放置すればよいのか? そうではない。 少子化、ということは人口減少である。 人口減少ということは日本が消滅に向っている、ということに他ならない。 左翼エコ教徒の夢の実現である。 明らかな問題である。

 

ではどうすればよいのか? ここに明確な政策を提言する。 企業に経費負担を強いるあらゆる規制の全面的撤廃、及び、今後未来永劫そのような規制を行ってはならないとする法律制定である。 ちっちゃな駄菓子屋であろうが大工であろうがサーカス団であろうが大道芸人であろうが、財とサービスを提供して利益を得る者は全て企業である。 

 

「未来永劫」とはどういう意味か。 企業活動において、この瞬間仕入れたものを次の瞬間に売って利ザヤを設けるという商売は稀である。 というか、ほぼ存在しない。 企業活動とは先ず閃きがある。 そして案がある。 そして計画がある。 そして投資がある。 そして販売活動がある。 そして売買契約がある。 そして購入がある(原料、資材、仕入れ)。 そして製造・サービス提供がある。 そして代金回収があるその代金回収こそが企業活動の目的である。

 

代金回収の時点で儲けがある、という確信があって初めて企業は最初の一歩を踏み出す。 最初の一歩から利益獲得まで長い長い道のりである。 最初の一歩を踏み出してからその後どうなるか分からないような環境であれば、企業というものは守りに入る。 すなわち、雇用環境を生み出さない、ということに他ならない。 逆に言えば、長い将来にわたって見通しが効けば企業はためらわずに投資をする。 すなわち、雇用環境が活性化される。 すなわち、少子化の原因である「出口の見えない不況と右肩上がりの経済成長の終焉」に対して直接的な効果があるわけである。

 

「大きな政府の弊害」である少子化に対する即効力ある処方箋.. .それは「小さな政府」による規制撤廃に他ならない。

 

 

追記1 規制撤廃の中には「児童労働禁止」撤廃が含まれる。 いわゆる良い子や秀才でなく、家が貧しくても、責任を負うことで人は成長する。 しかも非常に若くして。 本田宗一郎はそうやって立志伝中の人物となった。 そして今に至るまで世界中に何百万という雇用を創出している。

 

追記2 スマートフォンとツイッターという新たな玩具にうつつを抜かし、2週間もの間ブログを更新しなかったのは初めてである。 面白いがブレーキも重要である個人的な戒め。

日本安全神話崩壊… 銃規制と民間防衛

  • 2012.09.02 Sunday
  • 21:14
 

2000年のバス・乗っ取り事件、秋葉原の無差別殺傷事件、ストーカー殺人事件、オートロック式マンション内での住民による看護婦殺人事件、大阪の通り魔殺人事件、渋谷の通り魔傷害事件、通行人の女性がいきなりブロックで頭を殴られる事件、など日本は平和で安全である、という神話は崩れつつある。

 

これらのような事件が起きるたびに無実の人々が危険に晒され、尊い命を奪われる。 治安維持は政府が担うべき重要な役割の一つである。 しかしこれらの事件の発生は、治安維持の面においても政府の力には限界があるということを示している。 考えてみれば当たり前のことであるが、警察が四六時中いたるところをパトロールするのは不可能である。

 

物理的に警察が出来ることには限界がある。 事件が起きた後で捜査をして犯人を特定し、探しだし、そして逮捕する。 あるいはパトロールによって治安維持を行う力の存在を示す。 あるいはあるルートから入手した情報を基に犯罪の現場を押さえる。 そのくらいである。

 

突発的に発生する犯罪に対する抑制力は無きに等しい。 だから秋葉原事件のような場合、警察が現場に到着するのは時すでに遅く、犠牲者が多数発生してしまう。 あるいは殺人が行われた後で死体が発見され、警察が何日もかけて捜査をして犯人を捜す。 ナイフや包丁など、この社会は銃でなくとも悪い人間が犯罪に使おうと思えば簡単に手に入る。

 

警察力の限界を何かで補うことは出来るのか。 世界を見渡せば、それが可能なだけでなく、既にその効果が実証されていることが分かる。 それは民間防衛である。 一般人が銃を所持することが出来る「銃社会」はアメリカだけではない。 スイス、ニュージーランド、フィンランド、イスラエル等がある。 イスラエルを除けばどれも日本人にとっては平和なイメージがある。 実際に、これらの国々は一般的に平和であり、犯罪率は低い。 これら国々の都市で女性は夜一人歩きをしても大丈夫である。 日本人はアメリカの「銃社会」を「犯罪社会」と同一視しているがそれは無知によるものである。 アメリカには、昼間車で通過するのも危険な場所もあれば、夜一人でほっつきあるいても安全な場所もある。

 

経済学者の視点で犯罪を捉えた興味深い研究がある。 一般人の銃所持が暴力的凶悪犯罪を減らすことを30年以上の期間をかけて証明したのが経済学者John R. Lottの力作「More Guns, Less Crime」である。 犯罪歴、薬物使用歴、精神病歴など、一定の基準を満たせば誰でも銃を所持するためのライセンスを取得できる「Shall Issue」法を制定した全米の州において、法律制定後に大幅な犯罪率低下がみられる一方、銃規制によって銃の所持を制限された州ではこれまた大幅な犯罪率の増加が見られることがLott氏が収集し分析したデータによって証明されている。

 

考えてみれば当然のことが実際のデータによって証明されたということである。 犯罪者、特に暴力的犯罪を企てる者は弱者を狙う。 一人で歩いている女性や老人、子供は最たるものである。 老人や女性が一人で住んでいることが分かっている家を狙って侵入し、騒がれれば殺す。 自分がやられることは無いと分かっているからやるのである。 そして実際に、女性が凶悪犯罪者に物理的に立ち向かうことは困難である。 しかし彼らが銃を持っておればこのような侵入者に対して互角かそれ以上の力を持って撃退することができる。 いわば、弱者こそが銃社会の最大の受益者である。

 

Lott氏によれば、銃の所持率がわずか10%であっても効果がある。 なぜならば、特に小型の拳銃であれば、犯罪者は事前に誰が武装しているのか分からないのと同時に、狙いのターゲット、もしくはその周辺にいる誰かが「銃を持っているかもしれない」ために、行動を起こすのを躊躇うからである。 氏によれば、実際に銃を発砲せざるを得ないことは稀であり、ほとんどの場合、銃を振りかざすだけで犯罪が未然に防止される。 そのような場合、犯罪者は逃げ、警察沙汰にもならずに終わってしまう場合が多い。 銃による防犯効果は実際に報道されるよりも遥かに高いということである。

 

日本人は銃の無い社会に「慣れている」。 銃の無い社会が一番良いと信じている。 だが凶悪な犯罪が増えつつあることも認識しつつある。 凶悪犯罪が起これば犠牲者が出る。 彼らは無実である。 彼らを危険に晒し続けるのか。 それとも自己防衛の手段を提供するのか。 銃社会への移行を検討すべき時にきている。

 

 

参考:

 

日本 増え続ける侵入犯罪

 

スイス 低い犯罪率と銃の普及

Why Switzerland has a low crime rate: everyone has guns.

 

スイス 銃砲規制に反対

The Swiss Shoot Down Machine Gun Ban

 

スイス 銃を持つ権利を堅持

Switzerland; Gun Laws: Swiss Vote to Keep Gun Rights; To keep military rifles at home

 

スイス 侵略を許さない国

Why No One Invades Switzerland

 

スイス 忍び寄る銃規制

Switzerland Strips Citizens of Gun Rights

 

ニュージーランド 銃を持つ権利を擁護

New Zealand: Gun City Owner Stands by the $1 Gun Promotion

 

小型拳銃 サタデーナイトスペシャル

Jennings J22 Range Visit

 

銃は女性を守る

Girl W/ The Cal. 22 Pistol

 

銃を放棄したイギリスからの警告 1

History of Countries who have banned firearms: BANNED Pt 1/2

 

銃を放棄したイギリスからの警告 2

History of Countries who have banned firearms: BANNED Pt 2/2

 

An interview with John R. Lott, Jr.  

author of More Guns, Less Crime: Understanding Crime and Gun Control Laws

http://www.press.uchicago.edu/Misc/Chicago/493636.html

 

John Lott: More Guns, Not Less, Would Prevent Shooting Massacres

http://www.foxnews.com/story/0,2933,294954,00.html

 

アメリカ・バーモント州の四季

全米で最も銃が普及し、犯罪率が低く、安全で平和な州

 

生きにくい社会 「不可能」に幽閉される日本社会

  • 2012.08.26 Sunday
  • 13:59
 

日本は生きにくい社会である。 年間3万人もの人が自殺する。 多くの人が希望の無さを耐え忍ぶか、自ら人生を終えるかの二者択一を迫られている。 多難であることと希望が無いことは違う。 貧困と希望が無いこととも違う。 格差と希望が無いこととも違う。 希望が無いこと、というのは抜け道が見いだせないことである。

 

最近学校でのいじめに関する話題が絶えないが、学校は社会の縮図である。 いじめを苦に自殺する。 家庭がもはや外界と私生活を遮断し個人の聖域を守る壁でなくなっている。 誰も無条件で自分を守ってくれない。 教師は見て見ぬふり。 いじめる者を口頭で注意するのみ。 それ以上立ち入ってはならないと法律で決められている。 教師も人間であるから法に触れることは出来ない。 リスクは負えない。 学校で生きる権利を認められないのに社会に出たらどうなることか 逃げ道を見いだせず自ら命を絶つ。

 

自由主義経済社会というのは生きやすい社会である。 そこでは熾烈な生き方をするもよい。 気楽な生き方をするもよい。 どのような生き方も許される社会である。 また弱者にとっては逃げ道のある社会である。 なぜならば自由である分、基本的なルールさえ守れば選択肢は無限だからである。 逆に、統制社会は生きにくい社会である。 制御不能に増え続ける規制に適合することが求めらる。 個人的にこれらに適合しない何かを追求する、あるいは気楽な生き方を追求することは許されない。 逃げ道が無い社会である。 特に貧者、弱者、マイノリティーにとって辛い社会である。

 

日本が向かっているのは統制社会である。 「世界に誇る日本の国民皆保険を守ろう」「地球を温暖化の危機から救おう」「危険な原発を止めて安全な自然エネルギーへ移行しよう」「食の安全を守るために基準を強化しよう、放射能規定値を厳しくしよう」「物質的豊かさよりも心の豊かさを求め、経済ゼロ成長を受け入れよう」というスローガンが政府機関から、メディアから、そして我々庶民から発せられる。

 

これらスローガンが繰り返されるたびにそのメッセージは我々の心に浸透し、思考をコントロールする。 我々はこのスローガンに沿って規制が次々と発せられるのをひたすら眺めるのみ。

 

悪化し続ける財政にも関わらず、その原因である医療制度にしがみつかなければならないその財政に充てるため、増税を受け入れなければならない  増税により可処分所得が減るが、「社会保障」を維持するためだから我慢しなければいけない  原発は「危険だから」止めなければならないでも火力はCO2が増えるから使えない  でも使わないとやっていけないから当面は使わなければならないでもその分電力料金が上がるのを受け入れなければならない農家は基準が厳しすぎて作物を出荷できない  企業も上がる電力料金のため採算がとれない社員は将来に不安を覚えながらも文句を言う相手はいない でも仕方がない 耐えなければならない。 

 

公的医療制度(国民皆保険)が崩壊を免れるのは不可能である。 CO2の排出削減をしつつ企業のアウトプットを上げるのは不可能である。 原子力という貴重な技術を捨てて電力供給するのは不可能である。 「自然エネルギー」から安価に安全に安定的にエネルギーを抽出するのは不可能である。 農家や企業が生産活動を阻害されつつ生き残ることは不可能である。 その環境で働く人々が収入を維持するのは不可能である。 収入が減り、雇用が減少しつつある中で不安を覚えないのは不可能である。 不安の中で心の豊かさを得るのは不可能である。

 

一つの「不可能」が幾つもの「不可能」を生み出し、「不可能」と「不可能」が連鎖して更なる「不可能」を生み出し、「不可能」が「不可能」を倍増させ、「不可能」と「不可能」の間にある自由な領域を包囲して「不可能」な領域とする。 日本は不可能のサイクルに陥っている。 というよりも、日本は不可能のサイクルに幽閉されている。 一人の独裁者が強権で日本社会をコントロールしているのではなく、我々一人一人が社会主義的マインドセットによって自らを閉じ込めている。 

 

我々を幽閉する厚い鋼鉄のドアには強固な鍵が無数についている。 この状態ではドアを押しても叩いても殴ってもびくともしない。 我々はそのカギを一つ一つ開けていかなければならない。 いうなれば、それは我々の思考を固定化する社会主義思想の毒を除去する作業である。 しかし現状維持を企む勢力はいったん開けた鍵をまた閉めようとする。 我々が持つ鍵をも奪おうとする。 鍵を一つ開け、二つ開け、三つ開け… 100個開け、千個開け、1万個開け、10万個開け そしてその時に強烈な体当たりを食らわせばドアの鍵はちぎれ、我々は幽閉から解かれる。 しかし、今のところ、その見通しは無い。

 

 

追記:幸いなことに、幽閉された我々にも外からの声が聞こえる。 彼らがドアを叩く音が聞こえる。 彼らも幽閉の身である。 しかし我々と違うのは、彼らは自らドアを叩き壊そうとしているということだ来る11月に。

 

 

大きな政府と地獄の満員電車

  • 2012.08.18 Saturday
  • 19:43
 

日本経済が出口のない不況で閉塞感を深める中、地方が過疎化する一方で首都圏に人口が流入し続けている。 毎朝、首都圏では人々が凄まじい満員電車での通勤を余儀なくされている。 他人と密着した詰め込み状態が好きな人間はいない。 少なくとも普通の感覚を持った人間で好きな者はいない。 皆耐えている。 

 

人間には「個人の領域」というものがある。 ある人間が別の人間に対し、ある一定の物理的距離を保つ。 それは人間と人間とがお互いの存在を認めあうための暗黙のルールである。 他人が他人の至近距離に近づくということは、ある状況下では攻撃的行為ともなる。

 

世界的に見て、「日本人の特質」といえるのが「他人に対する礼儀と思いやり」である。 世界を旅すれば、この特質が信じられないほどに稀有なものであることが分かる。 しかしその日本人が、これから一日が始まろうとしている時間に、あるいはこれから家庭へと戻ろうとしている時間に、互いに押しのけあい、ぶつかり合う。 

 

「押すんじゃねえよ!」「痛えんだよ!」「てめえだろうが!」「おめえだ!」「新聞読むんじねえよ!」「うっせえんだよ!」「なんだこの野郎!」 時には怒鳴りあい、時には殴り合う。 最近では刺し、刺されることもある。 真面目な社会人がぶちきれ、我を忘れ、理性をかなぐり捨てる。 

 

首都圏において、同じ場所、同じ時間、同じ方向、同じ手段で人々が一斉に移動する。 大手企業を中心に多くの企業が首都圏本社や事務所を構えているからであり、勤務するにはそこへ向かって行くしかないからである。 なぜこれほどまでに首都圏に企業が集中しなければならないのか。 なぜ地方ではいけないのか。

 

企業活動を規制する中央官庁や役所や当局は大部分が東京にある。 企業の組織が大きければ大きいほど中央官庁との絡みが増える。 だから事務所は首都圏にあったほうがよいし、そうでなければ不都合である。 その取引先や下請け企業、関連企業もそれに続かざるを得ない。 

 

企業の首都圏への流入が続いている。 首都圏の人口増加が続いている。 この二つの事実は、中央官庁の中央統制が進めば進むほど、一極集中と人の過密状態は進むという関係を意味している。 この状況は資本主義経済システムの必然なのか。 経済成長の必然なのか。 社会成熟の必然なのか。 全て否である。 そして逆である。

 

自由で流動性のある社会においては人々は不快な状況から逃れようとする。 場所的、時間的、物理的にその状況を脱しようとする。 すなわち、良い方へ、良い方へ、と移行する。 しかし一方で、不自由で流動性に欠ける社会においては人々は異常な状況に耐えることを強いられる。 そして異常であるにも関わらずその状況が生活の一部となってしまい、それを変える見込みが立たないために諦めざるを得ない。 悪い方へ、悪い方へと落ちる。 現在の日本は、不自由で流動性に欠ける社会の典型である。 

 

社会から自由と流動性を奪うのは個人ではないし企業でもない。 唯一それが出来るのは政府であり、官僚機構である。 なぜならば、彼らはいかなる個人も、いかなる企業も太刀打ち不可能な国家権力という力を持っているからである。

 

南北に長く伸びた日本列島は多様性に富んだ地形、気候、文化を形成し、それぞれの地域における特色と強みを生み出してきた。 東京が一番偉く、大阪が次、その他は下という序列化、そして都市が地方へ施しを与える(地方交付)という隷属化によって、地方の特性と強みは奪われ、産業が衰退する。

 

地方の産業が衰退するにつれ、日本全体の経済はますます悪化する。 同時に首都圏への集中はますます加速し、人々はますます非人間的な生活を強いられる。 同時に日本人は日本人としての最も大切な特質をますます失っていく。 人々はなすすべもなく、ひたすら溜息をついて耐え忍ぶ。 これは「大きな政府」のなせる業である。

 

 

追記: 「大きな政府」は決して幸福や繁栄をもたらさない。 これは物理的法則である。 世界のいかなる国においても、この法則は成り立つ。 例外は一つもない。 有り得ない。 ただし、それぞれの国は異なった歴史、文化、環境を持つために、「不幸」の現出の仕方に違いがある。 日本の場合、その一つの例が「地獄の満員電車」、ということである。

 

満員電車の姿

 

電車に押し込まれる

レバ刺し禁止に見る人権侵害

  • 2012.07.02 Monday
  • 00:10
 

今日からレバ刺しが禁止になるという事で、レバ刺しを提供する飲食店がここ数日予約でいっぱいだったとかいうことで、なにやら切ないやら空しいやら。 いや、最後に一口食べたいという人の気持ちはよく分かるし、好きな人にとっては自然な行動である。 問題はメディアの伝え方であえる。

 

「食文化が崩壊する」という店の意見を載せるメディアもある。 しかし伝える内容の大半は、食べられるうちに食べておこうと大勢の人が店につめかけて賑わっている、などと風物詩のような書き方をしている。 メディアによる国民白痴化運動を見ているようである。

 

どのメディアも伝えないから言う。 今日の日本においては資本主義経済の根幹であり、人間の幸福の源泉である所有権が危機に晒されている。 それをレバー刺しの一件が如実に示しているのである。 経済の根幹と幸福の源泉が危機に瀕している状態であるから鬱と自殺と猟奇殺人が蔓延し、一向に経済が上向く気配が無いのは当然である。

 

近代自由主義、保守主義、アメリカ建国に思想的基盤を与えた思想家、ジョン・ロックは著書「市民政府二論」でこのように述べた。

 

"Human happiness is directly linked to one's own personal property, and that property included tangible elements, such as land, natural resources, and material goods and, as well, the intangible elements of speech, thoughts, and beliefs"….   "God had given mankind the right to physically defend his property". 

 

人間の幸福は所有権なしにはあり得ない、と。 所有物というのはモノだけでなく、言論、思想、信念なども含む、と。 さらに、所有物を守る権利は神が人間に与えたものである、と(自然法)。

 

普通の焼き肉を提供するよりもレバ刺しを提供するほうが店にとってリスクがある。 一方好きな人は多く根強い需要がある。 レバー刺しを扱うのはある意味「やる気」のある店である。 提供するには自分の店だけの管理だけではなく、流通業者の管理も重要である。 客に提供されるまでの全ての過程において常に一定の管理がされていることが重要である。 業者と店、店と客、互いの信頼関係が不可欠である。 

 

ノウハウも、信頼関係も、一朝一夕にできるものではない。 数々の失敗から学びながらたゆまぬ改善と努力で培うものである。  故に、ジョン・ロックの言う「所有物」である。 しっかりしている店は客を満足させて繁盛する一方、いい加減なところは食中毒を出して客足は遠のく。 ノウハウと信頼を守る店は発展し、ダメな店はつぶれる。

 

しかし今日の日本ではこの所有権が国民の手から奪われている。 努力によってノウハウを獲得し、信頼を築き、発展する自由が奪われている。 顔の見えない官僚組織によって、ロックが「人間が神から与えられた」とする権利が奪われている。 一つ一つ、我々の手からもぎ取られている。

 

日本の状況がいかに危機的であるか、それを示したのがレバ刺しである。 たかがレバ刺しではない。 我々の生きる権利が脅かされているのである。 それをメディアは伝えない。 だから私が伝えるのである。

飲料規制・大きな政府による犯罪的行為

  • 2012.06.10 Sunday
  • 09:10

 ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 6月1日より

●米ニューヨーク市のブルームバーグ市長は、レストランなどでの炭酸、甘味飲料の大量販売を規制する計画だ。飲料業界は強く反発しており、同市長は市を「過保護国家」にしようとしている、との批判が再燃しつつある。 ●市長の側近が5月30日夜に確認したところでは、市長は市の保健条例を修正して、レストランなどでカップやボトルで販売されるこうした飲料の容量の上限を16オンス(474ミリリットル)とする計画だ。市長は、これらの飲み物によって市民の肥満率が上昇していると主張しているという。 ●規制はレストラン、移動販売店、デリ、それに映画館やスタジアムなどの販売店が対象になる。16オンスはほとんどの炭酸飲料缶の容量より多いが、ほとんどのボトルよりは少ない。 ●市長の提案は6月12日に保健理事会に提出され、3カ月間意見を募ったあとに表決にかけられる。理事会メンバーは全員、市長が指名していることから、提案は承認されると見られている。

 

このようなニュースを見て日本人は何を思い何を感じるか。 「ニューヨーク市長は市民の健康を気にしているのか、良い市長だな」などと感じるようであれば全然だめである。 中央政府、地方政府を問わず、政府は本来の役割を超えると破壊的なことしかしなくなる、という法則がある。 その法則は洋の東西を問わない。 これが一つの例である。

 

474mlを全部飲むもよし、半分飲むもよし、1/3飲むもよし、もう一杯飲むもよし。 太ってきたなと思えば減らせばよい。 それでも構わないと思えば減らさなければよい。 糖尿ぎみだとか、健康上に問題があれば一人で全部飲まないで家族と分けたりすればよい。 それでも構わないと思えば全部飲んだらよい。 健康管理が出来る人は飲む量を加減するし、出来ない(しない)人は加減しない。 それでよいのであって、それで困ることは何もないのである。


しかし公共の健康水準向上のためには規制があってもよいのではないか、という人間もいる。 その疑問は前提が間違っている。 前提が間違っているからその後の思考がずれている。 その前提は「アメリカ人は不健康なデブばかり」というものである。 それは全然正しくない。 アメリカのどこかの都市の人通りの多い通りをぶらりと歩けば分かる。 前から見ても上から見ても真ん丸の驚異的な百貫デブはいることはいる。 しかし同時にムキムキマッチョもいるし痩せもいるし中肉中背もいる。 トレーニングジムは日本よりも充実していて料金も安い。 体を鍛えることについての意識は高い。 一般的に人々の健康への意識は非常に高い。

 

「市民の健康のために」飲料の量を規制しよう、というのは何も考えない人間にとっては耳に心地よい。 それが危険なところである。 現在の共産主義運動のキーワードは「グリーン、エコ、そして健康・医療」である。 レーニン時代のような「暴力革命」のイメージは受けが悪いので影を潜めている。 だが全体主義としての根本は同じである。 この例のように、「健康のため」と言われると政府の不当で犯罪的な規制に対するガードが下がってしまう人間は多い。 「肥満を減らすため? そうね、やってみればいいんじゃないかな、何でもやってみないと分からないし」という具合に。

 

これはアメリカの報道だが日本ではもっと酷い。 実際に健康のため、と言えば何でもかんでも当てはめることが可能である。 食品はカロリー表示すること、成分表示すること、成分毎の原産国を表示すること、アレルギー性を表示すること、等々、そういった規制がいつの間にか「当たり前」になってしまう。 政府の規制が網の目のように我々の社会を覆いつくしている現状が日常となってしまっている。 普通になってしまっている。 逆に疑問を呈するほうが変人となってしまう。

 

政府の役割は、防衛、治安維持、社会基盤整備の3点である。 社会基盤整備は何が含まれるかは細かく議論すればいろいろな意見はあろうが、基本は初等教育、ごみ収集、道路の敷設といったところである。 公共のものであるが故に公共の存在である政府にしか管理しようがない仕事である。 間違っても個人が何をどのくらい食するだとかいったことではない。 そのようなことは子供であれば親が管理すればよいし、大人であれば自分で管理すればよい。

 

人間は十人十色というが、嗜好も志向も性格も能力も千差万別である。 だからこそ人間は人間なのであり、だからこそ人間には成功と失敗がある。 「人の振り見て我が振り直せ」という格言があるが、他人の間違いから人は学び、よりよき道を見出す。 それが人類の発展の軌跡である。 個人や企業といったレベル間違いや失敗が発生するのは「問題」ではない。 それらは「問題」ではなくて「現象」である。 そしてその現象は社会の自主的な維持・発展のために「必要不可欠」である。

 

社会にとって必要不可欠な要素を人為的に除去しようとするのは反社会的行為である。 反社会的行為を政府の力によって行うのは独裁的な行為である。 何を意図するかに関わらず独裁は犯罪的行為である。 人々から危険視されることなく進行してしまう、危険な犯罪である。

 

参考:

http://cnsnews.com/news/article/nyc-proposes-ban-sale-oversized-sodas

 

Bloomberg on Soda Ban - "We're Simply Forcing You To Understand"

http://www.youtube.com/watch?v=I6-ieewStYY

 

バス事故の悲劇と「規制緩和」

  • 2012.05.01 Tuesday
  • 13:01
 

ツアーバスの事故で亡くなった方々、怪我をされた方々、そしてその家族は大変気の毒なことである。 亡くなった方々には冥福を祈りたい。 何が原因事故が起きたのか今後明らかになるはずであり、責任者はそれなりの処罰を受けるはずである。 それを推測するのは興味とするところではない。 しかし、悲劇を利用して流言飛語をばら撒く行為は看過することは出来ない。

 

このような事故が起きると必ず規制を求める声が出てくる。 今回も早速メディアには「規制緩和、新規参入、価格競争、過当競争、過度なコスト削減、競争激化」が文字が躍り、「資本主義の悪」を想起させ、更なる規制へと思考を誘導させるような論調が目立つ。 そのような論調に踊らされて規制が足りないことを原因とする人々がいるが、短絡的であり180度見当違いである。 

 

今回の事故が規制が原因で起きたのだとは断言しない。 運転手が居眠りをしたのか、したとすれば何故なのか、それは知らない。 警察がこれから調査するだろう。 言えるのは、規制によって問題を根本的に解決することは出来ないということ。 規制があろうが無かろうが、事故は起きる。 むしろ規制が多ければ多いほど、このような事故は多く発生する。 そして規制を重ねることによって別の問題が起こるということである。

 

「規制緩和が悪い」というが、例えば従業員の賃金はしっかり規制されている。 賃金の規制が無ければ同じコストかそれ以下で二人でも三人でも交代要員を手配できるのである。 

 

「新規参入が悪い」というが、新規参入が阻まれれば既存業者のやりたい放題である。 それは、例えばサービスの悪い既存業者とやる気のある新規業者との選択が出来ないということである。

 

「価格競争が悪い」というが、価格競争の禁止がもたらすのは大手業者の寡占ある。 この商品・サービスはいくらに設定しなさい、と規制するということは、低賃金でその下をくぐってもいけないし、創意工夫で「同じ値段でもより高いサービスを追加して売ります」ということも許可されないということである。

 

「過当競争が悪い」というが、過当か適当かを判断するのは当事者であって第三者ではない。 商売というのは当事者にとって過当に高い場合(この値段じゃなきゃ売ってやらないよ)もあれば過当に安い(そんな値段じゃ売れないよ)場合もある。 問題は互いに合意に達する際の自由と契約後の契約履行の責任である。

 

「過度なコスト削減が悪い」というが、これも過度か適度かを判断するのは当事者であって第三者ではない。 コスト削減というのは無駄取りであってやってやり過ぎはない。 「過度」であればそれは既にコスト削減ではなく「手抜き」である。

 

規制とは強制力を持った決まりごとである。 規制の範囲内にいるかぎり誰も逃れることは出来ない。 日本社会には様々な規制がある。 商品、サービス、労働、製造、販売、取扱い、購買、宣伝、提供、あらゆるレベルのあらゆる活動において規制が存在する。 それら規制はコストとなり、コストの重みに耐えられなくなった業務(=企業=仕事)は海外へ移るか、あるいは廃業する。

 

経済自体が縮小し続けているため他の業務という選択肢は無い。 だから海外へも移転できないし廃業したくなければコスト削減と値下げに努めるしかない。 合理的コスト削減で合理的値下げをした後は自らの肉体を削るしかない。 あるいは魂を売って手抜きをするか。 労働市場は規制だらけで雇用条件は当事者の自由ではなく規制に従って決められる。 雇用の場が減少する中、悪化する労働環境の中、労働者はより良い労働条件を求めて転職する道も無く、今いる職場にしがみついて頑張るしかない。 力尽きたら脱落するしかない。

 

今回の事故が何故起きたか、警察が調査し終わる頃には世間は忘れているだろう。 いろいろな人がいろいろな事を言う、それはあくまで推測である。 大切なのは、悲劇の上に悲劇を、間違いの上に間違いを、愚かさの上に愚かさを重ねないことである。 それは、規制の上に規制を上乗せしないこと、という意味である。

 

 

追記:

バスの事故は7名の死者が出た。 今後も同様の事故は必ず起き、犠牲者が出ると断言する。 しかし原発と放射能では一人も死んでいない。 今後も誰も死なないと断言する。

男女雇用機会均等法は悪の法

  • 2012.04.27 Friday
  • 00:34
 

アメリカ左翼によって与えられた日本国憲法は日本を弱体化させる悪の経典である。 戦後多くの悪法がこの日本国憲法に基づいて制定されてきた。 悪法の数々によって日本社会は硬直化の度合いを強めている。 その悪法の一つは男女雇用機会均等法である。

 

この法律の目的は「女性への差別を撤廃すること」だという。 人間の種類は二種類しかない。 それは男性と女性である。 黒人、白人、黄色人種は種類ではない。 肌の色がどうであろうと、人間としての有りかたには本質的な違いはないからである。 男女間にはそれが存在する。 価値の高い低いではなく違いである。

 

社会は人間が構成するものであり、社会が継続し発展していくためには二つの違う人間がそれぞれの特性と能力に応じた役割を担うことが必要不可欠である。 そのためには男と女が人間として成長する過程で互いの違いと役割を知り、そして互いを尊重しなければならない。 そしてそれは天の意思である。

 

天とは人間の認知を超えた全てを創造するものである。 それを神と表現してもよいし仏と表現しても何でも良い。 天の意思に従うことは社会がうまく機能する条件である。 逆に天に背く行為は社会を瓦解させる。 男女の違いを否定する行為は天に背く行為であり、男女雇用機会均等法はそれを法の力で社会に強要しようとする行為である。

 

男女が結婚する目的は子を持ち(産み、あるいは引き受け)、育て、社会を継続させるためであり、それ以上でもそれ以下でもない。 男性にも様々な性格を持った人間がいるのと同様に、女性も様々である。 家庭を守ることに幸福を見出す人もいればサッチャーのように国を率いるような女性もいる。 どちらが良いか悪いかではない。 個人の自由である。 しかし家庭を守る女性無しに社会の継続は有り得ようがない。 それが事実である。

 

モンテスキューは法律によって社会のしきたりや行動様式を変えようとするのは独裁的であり、個人がそれを望む時には他の方法(説得など)で行うべきである、とした。

 

 “When one wants to change the mores and manners, one must not change them by the laws, as this would appear to be too tyrannical; it would be better to change them by other mores and other manners” Montesquieu

 

昭和の時代、企業は男性を中心にして採用してきた。 社会的には男性は女性と結婚して家庭を持ち、一生懸命働いて一家の柱となることが求められていた。 一度企業に入ったら些細なことでは辞められない。 だから企業としては男性から努力と忠誠心を期待できる。 企業は女性も採用する。 それは男性が会社で仕事をしながら将来の結婚相手を探せるようにし、その間お茶出しや事務的な仕事をさせるためである。 学歴や経歴や資格や野心よりも器量と気立てが大事である。 当然男性と同様の業務を行うことは求めない。 出来たとしても、そして実際にやったとしても、給料は男性よりも低い。 なぜならば、社会的に女性が求められるのは男性と結婚し、男性が企業のために身を粉にして働くのを支えることにあるからである。 法律で決まっていたわけではなく、自然とそうなっていたのである。 これで何の問題も無かったし、うまく社会は動いていたのである。

 

しかし、その後男女雇用機会均等法などが強化され、この社会のしきたりは破壊された。 更に雇用法が追い打ちをかけ、労働市場の需要と供給のバランスが破壊された。 必要な場所に適度なコストの人材が供給されず、必要ない場所に不相応なコストの人材が居座ることになった 男性は居場所が減り、女性は男性に対する敬意を喪失した。

 

晩婚化はこの結果であり、少子化もこの結果である。 モノわかりの悪い政治家は少子化をくいとめるためにと称して「法整備を」と言い出す。 法の上に法をつくるがちがちの法だらけの社会となる。 右を見ても左を見ても法、法、法。 それは蟻地獄である。

牛レバー生食提供禁止・統制国家の一コマ

  • 2012.04.01 Sunday
  • 00:50

産経ニュースより

「大きな打撃」。 生の牛レバーの提供禁止方針が決まった30日、今も取り扱っている焼き肉店では落胆の声が上がった。 仕事を終えたサラリーマンらでにぎわう東京・新橋。「炭火焼ホルモン ぐう」の店長、丁明秀さん(32)は「レバ刺しを求めて遠くから来るお客さんもいるのに…」と肩を落とす。「和牛レバ刺し」(800円)は1日10〜20皿が出る人気メニュー。 厚生労働省の自粛要請で食べられる店が減る中「殺菌や調理器具の管理を徹底して」(丁さん)提供を続けてきたという。


 

厚生労働省の薬事・食品衛生審議会というのが生の牛レバーを飲食店で提供するのを禁止することを決め、これに違反すると2年以下の懲役か200万円以下の罰金になるのだという。 個人的にはどうでもよいが、人々の反応には違和感を覚える。 違和感というよりも苛立ちを、苛立ちというよりも危機感を、危機感というよりも怒りを覚える。 理不尽な国家統制に対する「無反応」に対して。

 

この問題において問われているのはただ単に食の安全ではなく、日本人としての生き方が問われている。 これは大げさではない。 どのような根拠で国民から選ばれたわけでもない役所の役人が集まって「国民が食って良いモノと悪いモノをこれから決めよう」などという決め事ができるのか。 そのような権限は誰がいつ与えたのか。 その決定事項が異議無しで通ってしまうのはなぜか。

 

私は無政府主義を提唱しているわけではない。 最低限の決まりごとは国民全体の利益を前提にあるべきである。 そしてその決まり事である法律というのは、国民が選出し、信任を与えた政治家が所定の手続きに従って決めるべきことである。 役所というのは法律となった決まり事を政府として実行するための組織なのであり、いわば道具なのである。 道具をどう使うかを決めるのは国民なのである。

 

その道具である役人が集まって我々が食するものを禁止したり許可したりといった状況は異常である。 道具というのは日常生活でいえば包丁やまな板みたいなものである。 その包丁やまな板がいきなり意思を持ち、「この家庭においては家族が食するものはコレコレの基準を満たしていないとだめだこのニンジンやゴボウや豚肉は不合格、食べてはだめ」などと言い始め、それを家族に強要し、従わないと暴れ始めるようなものである。 

 

何を馬鹿なことをと言われるかもしれないが、実際は馬鹿げたどころか狂気の沙汰である。 ニュースで紹介されたような店は、人気メニューである牛レバーを提供しつつも一回でも食中毒を起こさぬようにと普段から緊張感を持って取り組んできたはずである。 手を抜けば味やサービスに跳ね返り、客足が遠のく。 下手をすれば食中毒を引き起こし、店は吹っ飛び従業員は路頭に迷う。 彼らは役人達の想像も及ばぬ苦労をし、頭を使い、気を使い、リスクを背負っている。 同時に客もそれなりに常識を働かせ、口コミ情報を仕入れ、ある程度リスクを負ったうえで楽しむべきものを楽しんでいるのである。 この板前さんは信頼できるとか、ここは怪しいだとか、ここはダメだとか。 ダメだと判断されたり、信頼されてもそれを裏切れば淘汰される。 それが市場経済の自浄作用というものであり、役所の規制なぞには及びもつかぬ優れた効能を備えた仕組みである。 逆に、規制をかけるということはその仕組みをぶち壊すということに他ならない。

 

この問題が単なる「ナマニクの問題」として片づけられてしまうほど日本人は「大きな政府」に慣れてしまっている。 大の大人がいきなり誰かから「君が今食べようとしているものは良くないからこっちにしろ、これを食え」と言われたらどうするか。 小学生とお母さんとの関係じゃあるまいし、他人にとやかく言われる筋合いはない。 自分たちの代表ですらない他人から「お前ら今日からこれ食うな、逆らったら殴る」と言われているのである。

 

「大きな政府? 何言ってんの? 関係ないでしょ?」と言うだろうか。 政府が国民の食事を規制できる。 そして国民は異議を唱えることを許されない。 これが意味するのは、政府が国民の生活を何から何まで規制できるということである。 目を覚ましてから一日を過ごし、床に入り、翌朝起きるまでの全ての動きを何から何まで国家に管理されるということである。 すなわち自由の喪失と統制である。 今回はたまたまその事実がナマニクの問題で露呈したに過ぎないが、それは氷山の一角である。 さまざまな場面で統制が進む。 そしていつの間にか我々の社会が日本社会主義人民共和国になっているのに気づくいや気がつかないのか。

自殺者 全体主義の犠牲者達

  • 2012.03.10 Saturday
  • 01:59
 

年間自殺者が14年間連続で3万人を超えているのだという。 14年前というと1997年か。 単純に計算しても14年間で42万人である。 日本の首相が誰かは覚えていないがクリントンというふざけた男が大統領の時代であったのは確かである。 9.11のテロにより3000人の犠牲者が出た。 世界に衝撃を与え、アメリカに外交政策の転換を迫った。 アメリカはその後アフガニスタンそしてイラクと戦争を開始した。 その戦争で戦死した兵士は現時点で6375人。 人間一人一人の命は尊い。 しかし6千と42万という数字をそれだけで比べたときに、同じだといえば、それは不正直というものである。 また、どのように命を失ったかを比べたときに、結局は同じである、というようなことを言えば、それも不正直というものである。 

 

かたや祖国のため、家族のため、子孫のために命を投げうって戦い、死んでいった。 例え彼ら兵士の犠牲によって得られた勝利が左翼民主党のサボタージュによって無きものにされようとしているにしても、アメリカを始め自由世界はその後数々のテロを未然に防ぎ市民生活を守ってきた。 それを認識していない人間も大勢いるが、認識している人間も大勢いる。

 

しかし一方日本の自殺者達は人生に疲れ、絶望し、生きることを諦め、自ら人生からリタイアする道を選んだ。 称えられるのではなく、誰からも見取られずに孤独に息を引き取り、あるいは電車に飛び込み大勢に迷惑をかけた挙句家族に賠償請求を残して死んでいく。 ここで彼らを責めるわけではない。 あまりの悲しさ、虚無感に愕然とするということである。

 

インターネットの掲示板には国や政治家が何とかしろ、という人間が多い。 対策を採れと。 助けろと。 保護しろと。 気持ちは分からないでもないが、その考え方自体が今の状況をもたらしていると言っても過言ではない。 この状況は誰のせいか。 ひとりひとりの国民のせいである。 「政治家のせい」ではない。 彼らは責任が無いということではなく、彼らも一人一人が国民であり、国民が選んできたのである。 政治家の顔は国民の顔である。 岡田克也という元外務大臣がいる。 辛気臭くいかにも景気悪そうな面をした男であるが、この顔こそが日本なのである。 今の日本の姿を知りたければ、この男がテレビに顔をだした時にじっくり見るとよい。 分かるはずである。 ああ、日本ってこんなふうなのかと。

 

いつの時代にも、どの世界にも、「国よ助けてくれ、何とかしてくれ、何とかしろ、何とかすべきだ」という人間がいる。 貧者、弱者、少数派にはそのような性格の人間が多い。 境遇故にある程度はやむを得ないのかもしれない。 しかしビル・ゲイツやウォーレン・バフェットのように金持ちになってから変節する人間もいる。 また芸術家も創造性豊かすぎるせいかそういう人間が多い。 学者や高学歴者もくだらない勉強をしてアカい教授達に余計な知識を授かるせいかそのような思想に「目覚める」人間が多い。 そのような人間を利用するのが全体主義者である。 全体主義者はそのような人間の「安心を求めたい、大きな政府に抱かれたい」という心理に付け込む。 保護してあげよう。 「金持ち」から金を巻き上げて分けてあげよう。 法律を作って守ってあげよう。

 

全体主義者は次々と法律を作り、規制をかける。 「福祉と安全」の網を社会の隅々まで張り巡らし、人々を国家政府の存在なしには生きられないジャンキーにしてしまう。 しかし社会から自由はどんどん失われる。 動ける幅がどんどん狭くなる。 動きたくても身動き取れなくなる。 何をするにも政府の許可だの認可だの承認だの許諾だの認定だの査証だの証書だのが必要となる。 会社がつぶれた。 仕事が無い。 収入が無い。 これはやばい。 でも俺は道を良く知っている。 明日からタクシーやるぞ。 初乗り200円で業界に殴り込みをかけてやる... いやそれは出来ない。 規制がいろいろある。 10年くらいタクシーの運転手やってないとだめらしい じゃ、無理じゃないか。 じゃ、どうする。 焼きそばでも売るか。 それも衛生局だとか何だとかいろいろあって難しい じゃ、どうする。 とりあえず失業保険もらうか…. 

 

人の迷惑にはなりたくない。 どんな仕事でもいいから収入を得て、少しずつ這い上がっていきたい。 やる気だけはあるからチャンスがあれば絶対に何かできるはずだ。 そう思っている人が大勢いるはずである。 なぜならばそれが日本人の性格だからである。 しかしこれだけ身動きが取れないなか政府から「ほれ、助けてやるぞ」と言われればそれにすがってしまう。 そしてますます社会の動脈硬化が進行する。 財源が不足し、それを埋めるために増税が必要になる。 福祉を維持するには必要なんだ、と。 

 

政府があらゆることを決める、国民が唯々諾々とそれに従い、従わざる者は抹殺される社会。 それが全体主義である。 「国が何とかしろ」症候群の人間が多いということは、それだけ全体主義がはびこる素地があるということである。 「政府なんて何もしてないじゃないか」と言う人間は家の中を見渡すと良い。 車庫の前を通って玄関を開け、廊下を通って台所、リビング、トイレ、浴室、寝室まで何百何千という種類の商品がある。 それらのうち政府が規制をしていないモノが一つでもあるか。 「あ、その商品は政府は何も関知してませんからご自由に作って売ってください」という商品が一つでもあるか、いや無い、ということである。 「だから?」と思うならば、全体主義の毒が脳髄までいきわたった証拠である。 そうなったら、もうどうしようも無いのである。

 

彼ら自殺者は日本社会を覆う全体主義の犠牲者である。 全体主義を求め、鼓舞し、推進する人間達の犠牲者である。 ニュースでたまに報道するのを見て、多くの人は「大変だね、可哀そうだね、嫌な世の中だね」と感じる程度であろうが、14年間で42万人である。 壮絶な戦場における戦死者と違い、これだけの数が犠牲になっても単なる統計に過ぎない。 人々の脳味噌は眠ったまま。 それが全体主義の恐ろしさであり、全体主義社会の悲しさである。

 

 

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