麻生太郎「ナチス発言」から「隷属への道」を振り返る

  • 2013.08.11 Sunday
  • 10:36
 

麻生太郎のいわゆる「ナチス発言」が世間を賑わせた。 騒がれた割には発言要旨を見れば何のことはない。 マスコミで流布されたような「ナチス賞賛」などは読み取れないが、さりとて明晰な思考と熟慮を経た上での発言と思えない。 むしろ曖昧模糊とした、不確かな理解に基づいた思い付きの発言である。

 

 

麻生副総理「ナチス憲法発言」の要旨 (産経新聞より)

●日本の国際情勢は憲法ができたころとはまったく違う。護憲と叫んで平和がくると思ったら大間違いだ。改憲の目的は国家の安定と安寧だ。改憲は単なる手段だ。騒々しい中で決めてほしくない。落ち着いて、われわれを取り巻く環境は何なのか、状況をよく見た世論の上に成し遂げられるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない。 ●ドイツのヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法(の下)で出てきた。憲法が良くても、そういったことはありうる。 ●憲法の話を狂騒の中でやってほしくない。靖国神社の話にしても静かに参拝すべきだ。「静かにやろうや」ということで、ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか。僕は民主主義を否定するつもりもまったくない。しかし、けん騒の中で決めないでほしい。

 

 

憲法の問題を重要だと思うなら、「落ち着いて話し合おう」というのは良いだろう。 だが、憲法の問題を重要だと思うなら、「いつの間にか変わっていた」が良いはずがなかろうが。 そして、憲法の問題を重要だと思うなら、「誰も気がつかない間に変えてしまおう」などという手合いに対しては「轟々たる反対」があって当然ではないか。 ましてや、憲法の問題を重要だと思うなら、「静かにやろうや」と「議論を尽くすこと」と「喧騒」との違いくらい分からないか。 どの手口を、誰が、誰から、どうやって学ぶのか。

 

発言のロジックだけ追っても支離滅裂で訳が分からない。 新橋の駅前でクダを巻いている飲んだクレの戯言だと思えば気にもならないが、副首相の発言ともなれば気にせずにはいられないのが『ドイツのヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法(の下)で出てきた。憲法が良くても、そういったことはありうる』の部分である。

 

麻生氏は発言が「誤解を招いた」と謝罪をしたが、発言が論理性に欠けるのだから誤解もなにもない。 問題は誤解ではなく、この部分から読み取れる不理解である。 そしてその不理解がそのまま政策に反映されていることである。

 

世の中にはミステリーが流布されている。 ワイマール共和国のドイツは世界でも有数の先進的な社会であった。 多様性を認めるリベラルで寛容な社会であった。 「にもかかわらず」その直後にヒトラーのナチスが登場し、ユダヤ人迫害と軍国主義の暗闇が社会をおおい、ドイツは戦争に突き進み、破滅の後に降伏した… なぜこのようなことが起きたのか? これは人類の永遠のミステリーである、と。

 

フリードリヒ・ハイエクは著書「隷属への道」ナチス以前のドイツを以下のように説明し、それがミステリーでもなんでもないことを明らかにする。 春秋社「ハイエク全集I 隷属への道」より抜粋

 

 

あまり知られてはいないが、1933年以前のドイツや1922年以前のイタリアでは、共産主義者とナチスやファシストたちとの間には、ほかのどの党派間にもまして頻繁な衝突があった。 これらの政党は、同じようなタイプの心を持った人々の支持を獲得しようと争っていて、それぞれ相手を異端者のように憎悪していた。だが彼らの実際の活動は、彼らが互いにいかに似通っているかをし示していた。そしてこれらの両者にとっての本当の敵は、古いタイプの自由主義者であったただし、ヒットラー主義者のこの自由主義への憎悪感が、あまりあわらに示される機会がなかったという点は、ここで付け加えておかなければなるまい。 だが、その唯一の理由は、ヒットラーが権力を獲得した時点では、自由主義はドイツではあらゆる点から見てすでに死に絶えてしまっていたからにすぎない。そしてこのように自由主義を殺したもの、それが社会主義だったのである。 (第二章)

 

例えば、かつて1928年のドイツにおいて実際にそうであったように、中央政府や地方政府が国民所得の半分以上(当時のドイツ政府による推定では53%)の使用を直接コントロールするようになった時、これらの政府当局は、間接的にせよ、その国の経済生活のほとんどすべてを統制してしまうことになる。こういう状態に陥ってしまうと、国家の活動に依拠せずに実現される個人的目的など、ほとんど存在しないようになってしまう。そして国家活動の基準となる「社会的な価値尺度」は、すべての個人の目的を包括せざるをえなくなってしまうのである。 (第五章)

 

経済における独裁者を、という熱望は、計画へ向けての動きの特徴的な一段階であるが、英国においても馴染みのないことではないドイツでは、ヒットラーが権力の座につく以前にすでに、このような動きはもっと先まで進んでいた。1933年以前の数年に、ドイツは事実上独裁政治に統治されるのがふさわしい段階に達していたということを思い出すのは、重要なことであるヒットラーは民主主義を破壊する必要はなかった。彼は単に民主主義の衰退に乗じただけであり、うまく要所をついて、好かれはこそしなくても、彼こそ問題を解決できる唯一の強力な人間であるように大衆に思わせ、その支持を獲得したのだった。 (第五章)

 

「法の支配」の衰退の歴史、あるいは「法治国家」の消滅の歴史は、この自由裁量という曖昧な形式が立法や司法へとますます導入され、その結果、法や裁判は政策の道具でしかなくなってしまい、恣意性と不確実性が増大し、人々の尊敬を失っていった、という経緯として捉え直すことができるだろう。この点に関して、先の例と同様、ドイツの場合を指摘しておくことは重要である。すなわち、ヒットラーが政権を手にする何年か前に、すでにドイツでは「法の支配」は着実に衰退を始めており、また、それとともに全体主義的計画化の色彩を濃厚にたたえた政策が、後にヒットラーが完成することになった歴史的達成の、かなりの部分をすでになし終えていたのである (第六章)

 

実際、ドイツやイタリアにおいて、ナチスやファシスタは多くのものを発明する必要はなかった。生活のあらゆる側面に浸透していくこの新手の政治的教化運動は、すでに両国では社会主義者によって実践されていたのである。すなわち、一つの政党が、「揺り籠から墓場まで」個人のすべての活動を面倒見、すべての考えを指導しようとし、すべての問題を「党の世界観」の問題とすることを欲する、という理念は、社会主義者によって最初に実践されたものなのである。 (第八章)

 

 

ワイマールは既に高度に社会主義的であった。 社会主義とは社会のあらゆる「問題」を政府の力で解決しようとする試みである。 社会主義において、社会の現象はすべからく「問題」となる。 よって解決せねばならない「問題」は無限となり、政府はそれら拡大しつづける「問題」を解決するために際限なき権力が必要となるのである。 政府の存在が大きくなればなるほど、個人の領域は狭めらる。

 

ナチスが登場したのはこのようなワイマールであった。 ドイツ民族主義とユダヤ人排斥の「輝かしき未来の社会主義」であるナチス(Die Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei = 国家社会主義ドイツ労働者党)が第一次大戦の屈辱とインフレの「失敗した社会主義」であるワイマールに取って代わったのである。

 

ヤワな社会主義からコワモテの社会主義へと段階的な変遷を遂げただけのことであった。 ワイマールのドイツからナチスのドイツへの変遷 – それは「にもかかわらず」ではなく「必然」であった。 ジャンプではなく僅かな階段の一歩に過ぎなかった。

 

ナチスが政権を取った後も変化は緩やかであった。 ナチス・ドイツはオーストリアを併合したが、当時の生き証人が述べている。 ヒトラーが登場した当時は「まさかこんな結末になるとは思いもしなかった」と。 ワイマールからナチスへの移行は緩やかであり、ナチス政権成立後の変革も緩慢としていた。 ワイマールの社会主義に慣れ親しんだ人々はナチスの社会主義を自然と受け入れた。 社会主義は何年もかけて人々の血・肉・骨となった。 ユダヤ人への暴力と反対勢力への弾圧がエスカレートしたときには既に社会には鋼鉄の仕組みが出来上がっていた。 人々はその仕組みを受け入れざるを得ず、受けれるのを拒否する人間、社会の求める規格から外れる人間には強制収容所への道が用意されていた。

 

昔のようだが、たった70数年前の出来事である。 政府の制度として定着した社会主義は既得権を餌にフジツボのように社会にへばりつく。 古い社会主義は新たな社会主義で置き換えられることはなく、ひたすら増殖を続ける。

 

軽く、浅く、意味不明な麻生発言。 だが時として氏の発言は学びの機会を与えてくれる。 ここで学ぶべきは「ナチスがどういう手口を使ったか」ではなく「社会主義の道を進めば最終的には破滅があるのみ」という真実である。 社会主義的な社会は必ず破滅するとは言わない。 だが「その道」を進むことの危険性を知らなければならない。 社会主義を進めて良き社会が実現したためしは世界史上一度たりともないのである。

 

 

追記1: アベノミクスという社会主義が、どうもワイマールにかぶって見えて仕方が無い。 自民党長期政権の社会主義が失敗し、次に来た民主党の社会主義が失敗し、そして国民の期待を背負ったアベノミクスという社会主義が失敗したら、その次にくるのはどんな社会主義なのか… 失敗することは目に見えている。 問題はもし、ではなく、いつである。

 

追記2: 日本国憲法はソビエト連邦憲法の焼き直しであり、GHQの共産主義者によって輸入されたものである。 ソビエト憲法と照らし合わせればその類似性は明らかである。 その日本国憲法を「改正する」ということは、その憲法に正当性を与える行為である(それを誰も気づかないうちにやってしまおうなどと考えるとしたら言語道断である)。 日本国憲法に正当性を与えてはならない。 日本国憲法は無効である。 日本国憲法がある限り、日本の再生は無い。 日本国憲法がある限り、日本の転落は止まることはない。 日本国再生とは悪の経典である日本国憲法を破棄すること以外のなにものでもない。 大日本帝国憲法をこそ再生すべしである。

東日本大震災を思い返し、そして日本の未来を想う

  • 2013.03.30 Saturday
  • 22:33
 

東日本大震災から2年、共産運動家達が相変わらず反核プロパガンダに励んでいる一方でその当時の記憶はうすれつつある。 だが改めて思い返せば、あの時に世界を驚かせたのは日本人(特に被災者)の節度と良識ある行動であった。 アメリカではハリケーン・カトリーナの際には大規模な略奪が行われたが日本では起きなかった。 日本人の行動は文明とは何かを世界に強く印象付けることになった。

 

自由で民主的な社会は、「民主主義」という政治制度によって構築されるものではない。 それは文明によって構築される。 それはいわゆる「アラブの春」の顛末を見れば一目瞭然である。 アラブ世界には文明が無い。 あるのはイスラム教というファシズム思想、部族主義、そして封建主義である。 彼らに「民主主義」を与えると、彼らが投票権を行使して国家代表に選ぶのは、国民全員に基本的人権を保障してキリスト教徒、ユダヤ教徒、女性、マイノリティへの不当な扱いを撤廃させることを唱導する人間ではなく、イスラム・シャリア法で国民を統治することを叫ぶイスラム原理主義者である。 エジプトで我々が目にしているのはまさにそれである。

 

文明社会が未だに世界の大半を占める非文明の世界といかに違い、そして貴重なものであるか。 それを示したのが大震災直後の日本であった。 たとえ破壊と混乱の最中にあっても人々が自律することができる、ということは、別の側面から見ると次の2点につながる:

 

1) 日本が世界でも稀な程に政府による制御が無しに国民が市民生活を維持することが可能であること

2) 故に、世界でも稀な程に小さな政府を実現できる素地があること

 

文明ある民族が小さな政府を実現すると、そこには幸福と繁栄が生まれるという法則がある。 保守主義の源流の一つである19世紀フランスの自由主義経済政治学者のフレデリック・バスティアは著書『法』の中で言う。 

「もしも皆が抑制されることなくその能力を発揮し、労働の成果を自由に使うならば、社会的発展は途切れることなく、遮断されることなく、そして失敗することもないだろう法が不正を抑制するためだけに存在するような政体においてこそ最大の繁栄があるだろう、そしてそれは最も平等に分配されるだろう」

 

民主主義と同様、誰でもが「小さな政府」を使いこなせるわけではない。 むしろ、そのような民族は希少である。 なぜならば、バスティアが同著で述べるように人間というものは「貪欲と過ちの博愛という負の性質を持ち」それが故に往々にして「収奪へと向かう」からである。 貪欲と過ちの博愛という負の性質を少なく持つ民族ほど、すなわち、政府による制御を最小化した社会を維持できる、というわけである。

 

震災の直後、店からモノが一瞬にして消えた。 米、水、紙類といった生活必需品が消えた。 それはそれで一種のパニックと言えなくはないが、生活を守るという防衛本能が働いたわけで、仕方無いことである。 だがその最中にも日本人は人のモノを盗んだり、店舗に侵入したりといった破壊的な行動に走ることはなかった。 その日にモノがなければ次の日の朝、店の前で辛抱強く列を作って待った。 

 

日本人という民族に貪欲(人のモノは俺のモノ)と過ちの博愛(企業がモノを独占するのはけしからん)という負の性質が非常に少ないことを示している。 少なくとも、神話の時代から現在まで途切れることない歴史によってそのような特性を今の我々に民族的記憶として受け継がれているのは間違いない。

 

バスティアの言葉を信じるならば、そして日本人が世界で最も政府機能が制限された体制を獲得するならば、日本列島には世界に類のないほどの繁栄が生まれることになる。 そしてそこには世界史上類を見ないほどの幸福な社会が実現することになる。 そのような日本は世界中の国々が模倣すべき手本となる。 世界中からチャンスを求めて才能ある人々が集うようになる。 それはおとぎ話ではなく、極めて現実的な想定である。

 

しかし夢から目を覚ませばそこには悲しい現実がある。 日本は、日本人は、我らが持つ世界的にも稀有で、我らが先人たちが血を流して守ってきた、奇跡ともいえるほどの貴重な特性を、自らの手で抹消しつつある。 政府による保護、政府による規制、政府による指導を求める声は益々大きくなっている。 いつの日か我々は気がつくのか... その時には既に手遅れなのか...

 

 

追記1イスラムは文明ではない。 それはナチスが文明ではなく、ソビエトが文明ではなかったのと同じである。

 

追記2:政府が最小化されたときに残るのは国防、治安維持、司法である。 それらは民間が出来ないから政府がやる、というよりも、本来的に政府の仕事であり、政府が存在する理由なのである。 それらをやらせるために、国民は政府を選ぶ(契約する)のであり、その契約を違えた政府は交代させられる(解雇される)のである。

 

3.11 二周年 そして日本の没落

  • 2013.03.15 Friday
  • 22:52
 

2011311日から二年がたった。 この二年間の日本を例えれば、老齢に達し足腰が弱った老人が暴漢に襲われて骨折し、寝たきりになって体力が更に弱り、そのうち頭もはっきりしなくなり、わけのわからないことを口走るようになった、そんな感じである。

 

この二年間、日本は沈没の歩みを一段と速めた。 津波が自然災害であり、誰にもどうすることも出来なかった、という事実を受け入れることが出来ず、日本はそれまで日本経済を支えてきた原発を止めた。

 

メディアは原発の水素爆発を原子爆弾のように扱った。 そして連日放射能ネタで騒いだ。 1か月たち、2か月たち、3か月たち、4か月たち、5か月たち、6か月たち、7か月たち、8か月たち、9か月たち、10か月たち、11か月たち、12か月たち、1年半たち、そして2年がたった。

 

そして今我々は、誰一人として、放射能で死んでいないどころか、風邪すらなく、発疹すらなく、頭痛すらなく、腹痛すらなく、鼻血すらなく、眩暈すらなく、くしゃみすらない、という厳然たる事実に直面している。

 

これからどんな障害があるか分からない… 2年の潜伏期間の病気があるとすれば、それは凄い発見であろう。 見つけた者にはノーベル医学賞でもくれてやればよい。

 

2011311日から二年がたった。 津波の恐怖は既に記憶の彼方である。 しかし未だに日本の夜は暗い。

尖閣国有化は「単なるパフォーマンス」と見抜いた中国

  • 2012.09.15 Saturday
  • 17:21
 

尖閣諸島周辺の領海内に中国の海洋監視船がうろついている。 それに対して日本の出方はといえば、「単なるパフォーマンス」と冷静に受け止めた、そうである。 尖閣が国有化されて早速これである。 早速、というか、いつも通り、というか、何も変わっていない。




都有化も国有化も私有化も関係ないことがはっきりした。 何有であろうが、誰有であろうが、「日本の国土は日本政府が防衛する」という意思表示がなければ意味が無いということがはっきりした。 意思表示とは無断で入ってきたものを撃沈するということである。

 

外交とは、他国との利害関係のなかで自国の利益を守ることである。 外交で重要なのは、メッセージを明確に伝えることである。 メッセージを伝えるのは言葉の場合もあるし、顔の表情の場合もあるし、しぐさの場合もある。 外交的手段とは、穏やかに話し合うだけではない。 無言も大事であるし、バットも大事であるし、ダイナマイトも大事である。 相手に伝わるコミュニケーション手段でメッセージを伝えるということである。

 

さて日本は「国有化」とその後の対応でいったい何を相手に伝えたのか。 「日本は尖閣を国有化しました。 国有化とは国がその土地を”運営します”というだけのことで、それ以上の意味は全然ございません。 別に国有化したからといって気軽に入っちゃこまるよとか、そんなバカなことは申しません。 中には、”侵入を許すな!”などと失礼なことを申すアホなウヨクがおりますが、全然気になさらないで、いままでどおり遊びにいらして構いませんので...」というメッセージが効果的に明確に示された、ということである。

 

ところで、「単なるパフォーマンス」とは「尖閣国有化」のことではないのか。 

 

国有化早々に舐め腐った態度で入ってきた中国船を撃沈せずに放っておく

 

外相が「事態をエスカレートさせてはならない。適切、冷静な対応を期待したい」などと寝言を呟く

 

官房長官が「誠に遺憾で直ちに退去するよう中国政府に強く求めている」などと泣き言を漏らす 

 

「防衛省で自衛隊幹部らから報告を受け、通常の警戒監視をしながら中国側の動きを注視することを確認した」と中国の動きに注目するだけの国防大臣

 

尖閣国有化が「単なるパフォーマンス」であることを示す以外のなんだというのか。 これはパフォーマンスである。 そしてこれは売国パフォーマンスである。 そしてこれは敗北パフォーマンスである。 この恥ずべきパフォーマンスに心ある国民は恥じ入る。

尖閣国有化 - そして14億円は無駄に

  • 2012.09.06 Thursday
  • 21:36
 

尖閣諸島を国が205000万円で買い取ると合意し、石原都知事はそれを了承し、東京都には「俺の寄付した金を返せ」と苦情が寄せられているそうであるが、都が買い取りを表明した当初から私が憂慮した通りの筋書きとなった。 すなわち、都に寄せられた14億円、国を想う人々がなけなしの懐をはたいて差し出した金が無駄になる、という事態である。 何万人という人々が寄付した金を返すのは不可能である。 都は、尖閣購入「など」に使うと言ったのであって、「絶対に買う」とは言っていないと言い訳しているが、苦しい言い訳である。

 

心ある人々が国土を守りたい一心で都に寄付した金は無駄になる。 東京都は石原ではない。 石原は東京都ではない。 石原は石原であり、東京都は東京都である。 国が国有化に動いたからよかったのではないか? そうではない。 なぜならば、国が土地を購入するのに使う金は、国が他の目的で税金として国民から取り立てた金であり、「本来使われるべきでない金だから」に他ならない。 そしてその土地を買うことになる「国」はどんな「国」か。 つい先月も、香港からやってきたサルどもをご丁寧にもてなし、ご丁寧に御国まで届けて差し上げた、あの国である。

 

尖閣諸島に関して、国の仕事は尖閣を「国有化すること」ではない。 国の仕事は国土を「守ること」である。 どこの馬の骨とも知れぬ個人の所有であろうが、どこかの御仁の所有であろうが、どこかの由緒あるお家の所有であろうが、どこぞの零細企業所有であろうが、どこいらの中小企業の所有であろうが、その名轟く大企業の所有であろうが、村有であろうが、町有であろうが、群有であろうが、市有であろうが、県有であろうが、府有であろうが、都有であろうが、国有であろうが、何有であろうが、とにかくニッポンの領土たる土地を外敵から守るのが政府の仕事である。

 

国頼み政府頼みの民は目を覚ます時である。 政府がすべきことは国防、治安維持、インフラ整備であり、それだけである。 政府がそれ以外の事に手を伸ばし始めると政府は見境を無くして際限なく膨張し始める。 そしていつの間にか何をどうすべきか、何の判断力も無くなってしまう。 それは自然の原理であり、絶対である。 絶対にそうなるということである。 例外は無い。 それが今の政府の姿である。 民は目を覚ます時である。

不可能に幽閉される日本・そしてブレイクスルー

  • 2012.09.02 Sunday
  • 01:16
 

前回の記事、『生きにくい社会 「不可能」に幽閉される日本社会』に対して、ネット上でいくつかのコメントがあったが、その中に気になる言葉があった。 それは「不可能と決めてかかってはいけない。 一見不可能に見える困難の中にこそブレイクスルーがあるのだ」というものである。 コメントの主がどの程度記事の意図を理解したのか分からないが、同じような感想を抱いた人は多いはずである。

 

「困難に直面したときに不可能と思わずチャレンジする」という考えに対して異論はない。 それどころか、これこそ人生において最も大切な心構えであることに疑問をはさむ余地はない。 問題は、私は個人の気構えについての議論をしているのではない、ということである。

 

「不可能を可能にする、あるいは壁を打ち破る」とはどういうことなのか。 それは物事を困難にしている原因を取り除くこと、打ち砕くこと、あるいは無力化することである。 「原因を」というのが重要である。

 

一方、「不可能に幽閉される」とはどういうことか。 それは、「不可能を可能にする」の正反対、すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、あるいは進んで増幅させ、物事を更に困難な状態に陥れることである。 同じように、「原因を放置し、あるいは増幅させ」というのが重要である。

 

例えば、政府が電力会社に対して原発を止めるよう圧力をかければ、電力会社は従わざるを得ない。 原発に代わる発電方法といえば火力発電である。 火力発電は石油を使うが原発よりもコストが高い。 そのため電力会社は電力料金を値上げせざるを得ない。 そして実際に、今まさに、それが起きている。 その状況において、料金を上げるのもダメ、ということになれば供給量を減らすしかなくなる。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

例えば、メディアは、「東北頑張れ!」と叫ぶ一方で「放射能の危険」を騒ぎ立てるものだから、東北の農家は作物や畜産物を出荷できなくなる。 放射能で一人も死んでおらず、健康被害も無いにも関わらず「後発性障害」などというデマを流すものだから、それらを出荷する農家は生計の道を絶たれる。 そうなれば農家は廃業するしかない。 農家が次々と廃業する中にあって頑張れもへったくれもないものである。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

例えば、政府が「人々の生活を支援するために」と称して生活保護を与える。 時に生活保護が最低賃金がよりも高くなってしまう。 すると、何とか仕事を見つけて働こう、という意思が削がれる。 「楽しくなければ仕事じゃない」などという理想的環境にいる人はほんの一握りであるから、働かなくても生活できるのならば多くの人は働かなくなる。 すると支出は増える一方税収はどんどん減る。 「たるんどる!しっかりせい!」などと喝を入れてもダメである。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

例えば、政府が「社会保障の財源のため」と称して高い法人税率を課す。 税金は企業にとってコストである。 コストがある一定の限度を超えれば企業は生き残るために海外へ移転せざるを得なくなる。 最初に海外へ移転するのは大企業である。 そしてその後に関連中小企業が続く。 彼らも商売を継続させて生き残るにはそうせざるを得ない。 当然の帰結として国内の雇用は減る一方で税収は減る。 雇用が減れば社会保障費は増大する。 税収が減れば「充てる金」が減る。 企業を売国奴呼ばわりしても無駄である。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

例えば、全国的に一定レベルの教育を維持するため、として中央の官庁が全国の学校の教育プログラムを策定する。 そのプログラムを実行するために投じる予算も彼らによって決められる。 結果を測定するための試験内容も中央で決められる。 やる気のある教師が「今の時代に必要な技能」を「今の時代にあったやり方」で「低コスト」で「効果的」に子供達に授けんと自ら創意工夫して教育内容を組み立てる、ということは出来ない。 全ては中央が管理しており、そこからの逸脱は許されないからである。 結果、莫大なカネを教育に注ぎ込む一方で、日本の英語力レベルはアジア最下位である。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

例えば、学校教育における体罰禁止の徹底が中央官庁によって決められる。 すると、教師はいじめの現場を目撃しても注意するぐらいしか出来なくなる。 注意しても悪ガキは聞いたふりをするだけである。 注意しても注意しても同じ。 そこで鉄拳を振るえば今度は暴力教師扱いされてしまう。 結果、いじめの手口は年々陰湿化、暴力化、凶悪化の一途をたどる一方、被害者の逃げ場はますます少なくなる。 すなわち、物事を困難にしている原因を放置し、そして増幅させているわけである。

 

これらの事例は、我々の社会全体として、物事を困難にしている原因を「取り除き、破壊し、無力化する」という方向とは逆へ行っていることを示している。 すなわち、困難を乗り越えるために果敢に挑戦しようとする人々の意思を打ち砕く方向へと向かっているのである。

 

ウィンドウズもマックもアイフォンも、我々の生活を変えた革命的発明である。 これらはアメリカで生まれた。 ソビエト連邦では生まれなかった。 なぜか。 それはアメリカ社会が、物事を困難にしている原因を「取り除き、破壊し、無力化する」ことが出来る社会だからに他ならない。 逆に、ソビエト連邦が、物事を困難にしている原因を放置し、あるいは進んで増幅させ、物事を更に困難な状態に陥れることを強いる社会だったからに他ならない。

 

困難に直面したときに不可能と思わずチャレンジするそれを実行しているのはこのブログである。 日本は偉大な歴史と偉大な可能性を持つ偉大な国である。 しかし現実は、その事実を知らないだけでなく、否定してまわる人間が大多数である。 保守を自称しながら国家社会主義を振り回す評論家も多い。 ほとんど克服不可能な困難である。 

 

しかし、ではなぜ書くのか。 このブログだけでなくとも、なぜ他の保守や自由主義を掲げるブログ主は書くのか。 それは水滴が石を穿つかの如くに一つ一つの記事が読む人々の心の琴線に触れてくれたらと願い、それがこの国の将来を少しでも変えてくれたらと願うからに他ならない。 困難の中にこそブレイクスルーがあることを信じているからに他ならない。

終戦記念日 そして凋落する日本

  • 2012.08.15 Wednesday
  • 21:22
 

8月15日、終戦記念日。 遠い日本の靖国神社の方向に向かい、頭をたれ、手を合わせ、日本のために戦って散っていった人々に対する感謝をささげる。 彼らのお陰で日本は独立を守った。 何千何万何十万という人々が最前線で戦い、あるいは銃後で家族を支え、戦場で、そして本土で、尊い命が犠牲になった。 しかし悲しいかな、戦後世代は先人の地で染まった国土の一部をやすやすと敵国に手渡し、国が弱体化するのを尻目に利己的で矮小で脆弱な「安全・安心・安定」の世界に安住する。

 

韓国の大統領の無礼な発言は、韓国という国の性質はさておき、いかに日本が弱体化したかを示すものである。 『日本は被害者の立場と加害者の立場の違いを理解していない』『謝罪をする意思がないのであれば天皇が訪韓する必要はない』

 

恩を仇で返すのは相手を侮ればこそ出来る事である。 韓国は、戦後彼らが歩んできた道と彼らの現在の姿を、北朝鮮の同胞達のそれと対比させたとき、日本に対していかに深く感謝しなければならないかが分かるはずである。

 

歴史を遡ること100年、国としての体をなさず、清やロシアに翻弄されるがままだった韓国の独立を後押ししたのが日本だった。 朝鮮民族独立のために犠牲を払ったのが日本だった。 それでも一人で立つことの出来ない韓国を保護化し、併合し、そして近代化してあげたのが日本だった。 韓国は日本の領土であったお陰で大戦末期のソビエト連邦の侵略で「半島全土が朝鮮人民民主主義共和国」となる運命を免れた。 戦後、韓国は日本が残したインフラと財産をフル活用して発展した。 大部分が日本のお陰である。

 

与えた者の立場と授かった者の立場の違いを理解していないのが韓国である。 数々の非礼を認識せず、それらを謝罪する意思すら無いのが韓国である。 そして今回大統領自身による発言。 これは友好国に対してあるまじき態度であり、明らかな敵対的行為である。 金輪際、韓国の元首による日本訪問は必要ない。 日本は韓国大使館を退去させ、駐韓大使を引き戻し、国交を断絶すればよい。 日本が韓国と外交関係を断ち切り、韓国の元首が日本を訪問せず、日本の元首や首相が韓国を訪問しないからといって困ることは何も無い。 国交が無くとも幾らでもビジネスや観光は可能である。 幾らでも韓国製品を買えばよいし、韓国へ売ればよい。 韓流が好きなら観ればよい。 キムチが好きなら食えばよい。 いずれにしても、国交を断絶するという状況は戦争開始の一歩手前を意味するわけだから、「抗議」以上のメッセージは伝わるはずである。

 

韓国との関係が悪くなれば景気にも悪影響を及ぼすことを心配する向きがあるかもしれないが、それは逆である。 景気に悪影響を与えるのは国の威信の低下である。 国の威信が低下するということは、その国が弱く不安定であることを意味する。 そのような環境はビジネスにとってのリスク増大を意味する。 長期的な投資の決定をする際のマイナス要因となる。 だから、これだけの挑戦的態度を受けた今、韓国と断交したからといって景気が「より悪くなる」などということは有り得ない。

 

8月15日、終戦記念日。 遠い日本の靖国神社の方向に向かい、頭をたれ、手を合わせ、日本のために戦って散っていった人々に対する感謝をささげる。 そして悔やむ。 かつての偉大な大日本帝国が、いまや韓国ごときにすら軽んじられる国に成り下がったことを。

 

 

追記:

中国の活動家が尖閣諸島に上陸したそうである。 報道では香港の活動家となっている。 香港は中華人民共和国の一部であるが、彼らはいまだに自分達はチューゴクジンではなくホンコンジンだと思っている。 ならば香港人らしく振舞っていただきたいものである。 しかし日本は上から下から横からと、やられ放題である。 集団リンチである。 ところで都が尖閣を保有することで、このような事態がどのように防げるのだろうか。 所有者が誰かという問題ではなく、国が威信をかけて国土を守ろうとしてるかどうかの問題である。 

小心小娘・日本の姿

  • 2012.08.11 Saturday
  • 11:30
 

日本という国は、例えてみれば、ちょっとした追突事故を「されてしまい」、それから怖くて一切運転が出来なくなってしまった小心者の娘っ子みたいなものである。 車など必要無い、車など無くても、ちょっと時間をかけて歩けば行きたいところへ行ける。 雨が降れば濡れるし沢山の荷物は載らないし、ちょっと不便だが、自転車に乗ればいい。 行先は限られるが電車でも結構いろいろ行ける。 だから、もう車なんて必要ない。 やはり車は危険だ。 常にリスクがある。 もう金輪際ごめんだ。

 

自動車は便利な道具であり、近代文明社会をもたらした革命的な発明品である。 しかし同時に、注意して取り扱わないと事故を起こしてモノを壊したり、自身の身を危険に晒したり、他人を傷つけることになる。 同じく原発も安価でクリーンで安定したエネルギーを供給するこれ以上ないほど素晴らしい道具である。 同時にそれを運転するためには高度な技術とノウハウを要する。 経験と知識と技との集合である。

 

原発それ自体が事故を起こしたわけでもなく、津波のとばっちりを受けてちょっとばかり損傷しただけであるのに天地がひっくり返ったかのように騒ぎ、「こんな危険なものは金輪際ごめんだ」と。 「現時点で健康被害な無いように見えても、今後5年、10年、20年、30年、40年、50年、60年、70年、80年、90年、100年、110年、120年たったらどなるかあんな健康障害、こんな健康障害が有りうる...心配だ.. やはりリスクが高すぎる.. もう止めなければ」と。

 

それで原発を止めて電力が足りなくなり、どうしようか!と右往左往し、あるいは「電力は有り余っているんだ!」とうそぶき、火力発電を増やしたがためにコストが増大してどうしようか!と右往左往し、あるいは、無駄をなくせば解決するのだ!と説教を垂れ、火力発電だと温室効果ガスが増えてしまい、どうしようか!と右往左往し、あるいは「再生可能エネルギーの時代だ!ニッポンの技術の新時代だ!」と強がる。 右往左往しては理屈を垂れ、説教くさいことを垂れつつ不安にさいなまれている。

 

情けないことこの上ない。 だから周辺国から舐めきった態度を取られ、侮辱を受け続けるのである。 韓国の大統領が竹島を訪問したことに今更驚いても遅い。 1950年代から韓国に実行支配され、今に至っているのである。 60年以上もこの状態をほったらかしてきた。 今になって口先で「固有の領土だ」などと呟いてみたところでどうにかなるものではない。

 

徹底的に苦しみ、屈辱を味わい、ある時点で崩壊を経験し、負のスパイラルの終点に到達するまでは日本は落ち続ける道にあるのか。 日本の体たらくを見るとそうとしか思えない。 アメリカ大統領候補、ミット・ロムニーは「アメリカは日本のようにはならない」と言い放ったが、それは正しい。 現在の日本は「国家としてあるまじき姿」の見本である。

 

 

追記:負のスパイラルを反転させるためにどうすればよいか。 それは富国強兵である。 経済と貿易を自由化して発展の大爆発を起こし、国家収入を軍拡に注ぎ込んで核とミサイル防衛で武装し、そして「領土侵略に対する正当防衛」としてロシアに宣戦布告して戦端を開き、北方領土を奪還し、ついでに樺太全島まで取る。 そうすればもともと事大主義の韓国であるから、恐れおののいて何も言わずとも竹島にノシを付けて返してくるはずである。

 

滝へ向かって流れる舟、そしてクラッシュ

  • 2012.08.05 Sunday
  • 23:05
 

行く先に深い滝のある川の上流で、一艘の小舟が水の流れに乗って漂う。 舟人達はそれぞれ大切な財産と食料を積み込んで、その日その日を暮している。 彼らはこの先に危険な滝があることを噂で知っている。 しかし何となくのどかな周りの風景のせいか、いまいち緊張感が無い。 いつかそのうち滝が目の前に姿を現すかもしれない。 そういう噂だからそうなのだろう。 しかし今はまだ大丈夫である。 だから今のところは流れに身を任せよう。

 

この小舟は日本である。 そして舟人達とは我々日本人のことである。 リスクゼロのエネルギー政策、老後の安心をもたらす公的年金制度、安価な公的医療保険制度、絶対安全な商品を実現する規制、公正な労働条件を約束する法律 こういった幻想を我々は(一般的に日本人という意味)ひたすら求める。 人は幻想を追求することによってしばしば予期せぬ結果を招く。 

 

原発停止そして電力不足、そして企業の操業短縮、そして企業の海外逃避、そして雇用縮小。 なぜならば、産業の要である電力を制限されれば活動を制限せざるを得ないのだから。

 

人口減少による不公平な年金負担と還付率そして国民が預けた金を管理する政府の許しがたい杜撰さ、そしてますます募る将来への不安感と諦め。 なぜならば、政府には金を投資して金を生む知恵も無いし、ミスしても「契約を失う」というリスクが無いのだから。

 

国民皆保険という医薬・医療の価格統制による市場機能の攪乱そしてその直接的な結果としての病院・医師不足、そして激務をこなす医師にかかる非人間的負担、そして医師になる夢を諦める若者達。 なぜならば、誰が何と言おうが医薬も医療もヒト・モノ・カネの3要素からなる事業には変わりがなく、すなわち商品でありサービスなのだから。

 

あらゆる商品とサービスに対して原料、製造、流通、販売、提供、使用の手引き、販売価格、契約条件等、細かに張り巡らされた規制と許認可そして企業にかかる負担増、そして大企業による業界統合、そして寡占化、そして中小零細企業の雇用喪失、そして深まる不況。 なぜならば、中小零細個人企業の「創造性とアイデアとフットワークの強み」は規制社会においては大企業の「規模と金と組織の強み」の圧倒的に有利さには太刀打ち出来ないのだから。

 

政府が設定する最低賃金そして人件費削減を検討する企業、そして職能経験積み上げの第一歩を踏み出すことを許されない若者達、そして増える無収入層。 なぜならば、国際労働機関が何と言うと、労働とは人によるサービスに他ならず、そのサービスの価格を人為的に高く設定すれば「売れない」し「買えない」のは当然なのだから。

 

最低賃金を上回る生活保護そして失われる労働意欲、そして失われる自立心、そして失われる自尊心、そして増殖する依存心、そして増大する支出、そして拡大する財政難、そして増税を求める政治家達。 なぜならば、それは日本だけの現象ではなく、アメリカでも、ヨーロッパでも、どこでも生活保護で生活できるのならば、人は働くよりも政府に頼る道を選ぶのだから。

 

更なる安心、安全、保護の要求、それに対する更なる規制、課税、統制、それらに対する反応としての更なる投資の減少、税収の減少、景気の後退。 この負のサイクルは回り続ける。 止めようとしても無理である。 なぜならば我々は皆、これら幻想を糧に生きているからである。 これら幻想はある人にとっては「望み」であり、ある人にとっては「生きるすべ」であり、ある人にとっては「命綱」である。 

 

日常が何事も無いかの如く過ぎる。 テレビをつければあいも変わらずバカ芸人のバカ話かバカタレントのバカ笑いかバカレポーターのバカ温泉グルメツアーか、バカ学者・バカ専門家のバカ”恐怖”原発ドキュメンタリーか、そろそろ8月になってバカ”自虐史観・平和主義”番組が垂れ流されている そういった「平和な」日々である。

 

それはクラッシュの前の静けさである。 まだ川の流れは緩やかである。 舟は流されるがままである。 我々の多くは舟の行方を担うオールから手を離してしまっている。 皆でオールを手に取って川の流れと反対に漕げば岸にたどり着くことが出来るかもしれない。 岸にたどり着けば陸に上がることが出来る。 そうすれば命と財産を守る事が出来る。 しかし、オールを手に取る人間はほとんどいない。 滝に近づくにつれて流れは徐々に速まる。 クラッシュは急であり、強烈であり、そして痛いものである。 それは不可避である。

 

 

追記:河川は危険である。 特に滝は危険である。

クール・ジャパンとは何か

  • 2012.06.10 Sunday
  • 21:42
 

「クールジャパン」というのは単なる標語か何かかと思っていたら、立派な国の政策で予算が19億円もあるプロジェクトであるということを知った。 日本のアニメや漫画といった娯楽を世界に売り込もうという試みらしい。 

 

それが批判に晒されているのだとか。 当然のことである。 そこで何度でも繰り返さなければならないが、政府・官僚機構の権限と予算を徹底的に小さくし、役割を限定しなければならない理由は正しくここにあるのである。 

 

経済産業省の資料

http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/seisan/cool_japan/001_08_00.pdf

 

このプレゼン資料からなんとなく感じ取れるが、彼らは非常に真面目にやっている。 一生懸命にやっている。 創意工夫を凝らそうとしている。 しかしながらやっていることは狂気の沙汰である。 善良な意図にも関わらず狂っているとしかいいようのないことをやる。 これが官僚機構が内包する性質である。 問題ではなくて、性質である。 問題は解決できるが性質は変えることは出来ない。 

 

だからこそ、政府とその執行部隊である官僚機構の役割を、国防、治安維持、社会基盤整備の3項目に厳しく限定しなければならないのである。

 

日本のアニメも漫画も好きな人は大いに楽しめばよい。 彼らが楽しむことは否定しない。 同時にそれは彼らだけのものである。 管弦楽、オペラ、歌舞伎、能、これら芸能というものは趣味である。 趣味というものは個人的なものである。 好きな人が多ければ流行るし、減れば廃れる。 それでよいのだし、それで社会が困ることは何もない。 従って国が後押しする必要性は皆無である。

 

クールとは「格好良い」ということである。 それにしても、アニメや漫画といった非常に個人的な趣味の世界を、国家を動員して「格好良い」と呼ぶ感覚には背筋が寒くなる。 何という矮小さなんという卑小さなんという内向きさ...

 

近代史を振り返れば、大国ロシアを破って世界を驚愕せしめ、アジア諸国を狂喜させた日本がある。 これ以上に「クールな日本」が有りえようはずがない。 満州国を建国させた日本もクールであったし台湾を割譲し近代国家に育て上げた日本もクールであった。

 

クールであるためには軍事大国であり、経済大国であらねばならない。 軍事大国でない経済大国などあり得ない。 軍事力を欠いた経済大国、という考えはそれ自体が自己矛盾である。 なぜならば、強大な軍事力で国境と国益を守るからこそ資源を確保することが出来るのであり、治安を維持することが出来るのであり、国内そして海外において企業が自由闊達な経済活動に専念出来るのである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは世界中の起業家達がこぞって一旗揚げんと集まる日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは世界中の企業がこぞってビジネスチャンスを求めて進出する日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは品行方正なる行為と順法精神が報いられる日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは国家による収奪から国民が解放される日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは伝統的道徳を取り戻した日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは尖閣諸島から中国の侵略を駆逐する日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは韓国から竹島を奪還する日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それはロシアから北方領土を奪還する日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは日本国民の安全を脅かす悪の帝国・北朝鮮を叩き潰す日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは腐敗と偽善の巣窟である国連に脱退を叩きつける日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それはモントリオール議定書と京都議定書に脱退を叩きつける日本のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは東亜の平和のために戦った大日本帝国のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは国の独立を守るために戦い、散っていった戦士達のことである。

 

クール・ジャパンとは何か。 それは自主独立の道を歩む日本のことである。

 

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