いじめ自殺 教育と道徳無き社会の犠牲者

  • 2012.07.11 Wednesday
  • 23:36
 

 

大津市の中学生が昨年10月にいじめを苦に自殺した事件について様々な事実が出てきている。 これら事実が示すのは、道徳を叩き込まれずに育った子供がいかに無慈悲・無情・残酷になりうるかということと、権限を奪われた教育者がいかに無責任になりうるか、という二点である。

 

道徳の源泉は宗教である。 「ヒューマニズム」でも「良心」でもなく、「宗教」、それが唯一の源泉である。 しかし日本では「政教分離」によってその宗教が目の敵にされている。 宗教への敵意は人々の心だけでなく政府の仕組みにも組み込まれている。 「政教分離」によって総理大臣の靖国参拝が阻まれたり、ハイエク・フリードマン流の経済政策とレーガン流の外交政策を掲げる日本唯一無比の保守政党・幸福実現党が不当な扱いを受けたりといったことはごく一部の例である。 

 

以前中国で幼児が車に轢かれて苦しんでいるのを何十人もの人間が見て見ぬふりをして通り過ぎるニュースがあった。 「人の心がないのか!」「なんという道徳の無さ!」「なんという非情さ!」と日本人はのたまった。 しかし日本も確実にその方向にいっているし、かなり重なる部分が出てきているのである。 道徳の源泉である宗教を国を挙げてないがしろにしているのだから当然の帰結である。

 

ところで一方、なぜこの状態が野放しにされ、自殺にまで至ったのか。 その理由は、教育者が「教育の手段」を奪われているから、という一言に尽きる。 「教育の手段」とは教科書やパソコンや教室のことではない。 それは「体罰を加える権限」のことである。 権限と責任は表裏一体であり、権限が奪われるということは責任を放棄するということに他ならない。

 

体罰とは、すなわち善と悪の違いを「カラダで」教えることである。 体罰とは、すなわち悪を罰することを「カラダで」教えることである。 体罰とは、すなわち善を守ることを「カラダで」教えることである。 これらは言葉で「説く」ことは出来ても「教える」ことは出来ない。 「教える」ことが出来るのは体罰だけである。 なぜならば知能未発達な子供は「カラダで」知るしかないからである。

 

善と悪の区別を知り、悪を行えば罰されることを知り、善を行う大切さを知る これらは呪文を唱えることによって成し遂げられる業ではない。 これらを成し遂げるのは鉄拳である。 人のモノを隠したり盗んだり壊したりしたために顔面に張り手を食らえば痛みとともに自分が何をしたかを知る。 弱き者をよってたかって小突きまわしたために顔面に拳骨を食らえば痛みと出血とともに自分が何をしたかを知る。 自分が感じる痛みと共に人に与えた痛みを知る。 感じた痛みは知識としてではなく感覚として体に刻み込まれる。

 

善と悪の区別を知り、悪を行えば罰されることを知り、善を行う大切さを知る これらは頭でではなく、体で会得することである。 頭で考えて納得できなければ、それはそれでよい。 そんなのは後でもよいからとにかく体に痛みを感じてでも叩き込まれなければならない。 これらを体で会得できるのは小中学校までである。 そのころまでであれば教師の腕力が勝る。 しかし子供がなまじっか図体がでかくなる高校ではもう手遅れである。

 

しかし日本では(他の多くの先進諸国でもだが)、この最も貴重な教育の手段が教師の手から奪われている。 法律によって、奪われている。 さらに言えば、日本国憲法によって、奪われている。 日本国においては教師は「無責任たること」が法的に定められている、といっても過言ではない。 そしてそのような教師が教える学校においては、子供は善悪の区別を知る機会が奪われているのである。 だから子供は「(自殺した生徒に対して)自殺の練習をさせる」などという人間とも思えぬことをし、された方は誰にも頼ることが出来ずに死を選ぶのである。

 

小学校、中学校で教えるべきことで最も大事なのは読み書きそろばんではない。 善悪の区別である。 なぜならば、それなしには社会も経済も成り立たないからである。 善悪の区別を知る市民、それは国家としての、社会としての基礎である。

 

衰退する国家、衰退する経済、そして衰退する教育。 これらは個別の事象ではなく、一つの事象である。 一つの事象を別の角度から見ているだけに過ぎない。 犠牲になるのはいつも、罪のない子供や弱き者達である。 自殺した少年の事件は公に報道されたために知られることとなったが、氷山の一角である。 

 

国家が道徳を取り戻すまでは、彼らは犠牲になり続ける。 

教師が「教育者」となるまでは、彼らは犠牲になり続ける。 

そして社会は顔をそむけ続ける。

 

 

体罰の会

http://taibatsu.com/index.html

公民の教科書

  • 2012.02.12 Sunday
  • 23:44
 

新聞やテレビで学者や評論家のいう事を聞いているとろくなことを言わない。 彼らは社会に出る前に何を学んできたのか。 それなりに名のある学校を卒業しているようだが彼らの言う事が何一つ響かない。 いう事を聞いていても真実が見えてこない。 一見トレンドに乗ったようなことを言っているが、その実時代の垢にまみれた議論を延々と繰り返している。 

 

時代の垢とは何か。 そもそも垢とは何か。 垢とは不要物である。 皮膚が老化し、要らなくなったので自然と剥がれ落ちる。 それが垢である。 社会主義が社会に停滞をもたらし、人々の生活を惨めにすること、そして社会主義を極端に進めると共産主義となり、それは大虐殺や大粛清といった恐るべき事態をもたらすこと、反面、資本主義は行動の自由、選択の自由、経済の発展、技術の向上をもたらし、人々の生活に便利さと幸福をもたらすことそういったこと証明され尽くしたのが20世紀である。 社会主義思想は20世紀に既に不要となったもの、すなわち時代の垢である。

 

小学校の社会科や中学高校の公民で何を教わったか、すっかり忘れてしまった。 今の学校でどのようなことを教えているのかもよく知らない。 しかし教科書会社のウェブサイトを見ると大切なことを教えていないのがよく分かる。 環境保護や企業の社会的責任、社会保障の大切さ、といったこれまた時代の垢を匂わせる内容が随所に見られる。 このようなものを教わって子供から大人になるまで教育を受けているのだから、良い大学を出たはずの人間がろくなことを言わないわけである。

 

社会科や公民について言えば、学校で教育するべきなのは国防の重要性、政府権力の抑制(小さな政府)、資本主義の偉大さ(及びそれと対比して社会主義の悪)である。 それ以外は社会で生きていれば自然と覚える。 左翼教育家に求めても仕方ないが、こういう肝心なことを教えないから評論家の嘘をうのみにするダメ国民がはびこるのである。

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

time

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM